第10話 二人の息子

 目の前に並べられた絢爛豪華な食事に、シオンは舌鼓を打っていた。

 グリアンの家では、社長自らが一番の毒味役として夕食を摂る。家族と言うことで、シオンも同じ時間に食卓に付いていた。

「うまいな。このパイも、スープも、最高だ」

 今日のメニューはニンジンを練りこんだシェパーズ・パイに、オニオンたっぷりの魚介スープ。その他肉料理やサラダなど、ミヤビが作るのとは種類も質も全く異なるものだった。

 前菜が出て来る間も、デザートを頬張っている時も、ずっとアールたち執事はグリアンの背後に控えていた。グラスが開くたびにワインを注ぎ、空いた皿はすぐに下げられる。

 慣れない環境に、余りある待遇。戸惑いながらも、子供として恥じないようシオンは振る舞った。

「久しぶりに、誰かと食事を共にした気がするよ。晩年は妻もあまりここに顔を出せなくて……」

 言いかけて、グリアンはワイングラスを仰いだ。

「いや、こんな話は面白くないな。今の私は父だからね、子の前では、愉快な物語の一つでも聞かせねばなるまい」

「いいよ。もっと教えて、父さんの話」

 大好きなかぼちゃのシャーベットが運ばれてきても、シオンは目を逸らさなかった。

 シオンは知りたかった。フリーアやグリアンが感じる、『愛』というのが何なのかを。分からないから知りたいのではなく、シオンは、分かりたいから知りたかった。

 食事が終わった後も、グリアンは話してくれた。バスルームでの思い出、寝る前の紅茶の思い出を。朝日が昇る頃には、早朝の散歩の思い出まで。

 寝ぼけた眼を擦りながら見た海岸線は、昇る朝日が海に溶け合い、さながら世界をカンバスに抜き取った様に幻想的だった。

 シオンが寝ていた、グリアンと妻の部屋からその陽ははっきり見えた。

「毎朝こうして、想いを太陽に預けていたんだ。もしいなくなっても、いつも同じ時間に、想い出を届けてくれるだろう、って」

 目を細めるグリアンの太った肩を、シオンは弾むように叩いた。世界を股にかける男の背中は、岩のように硬かった。

 午後からグリアンは、一人書斎に篭り筆を取り続けた。一人暇なのもバツが悪いシオンは、アールに倣い家事をした。

 厨房に行けばシェフのパティが料理を教えてくれた。イングランドでも屈指の料理人であるパティの包丁さばきは、シオンの目を引きつけた。

 日が暮れれば、グリアンが部屋からのっそりやって来て一緒に夕食をとった。インクだらけの右の指が、文が進まないことを語っていた。

 何日も、シオンはそんな生活を繰り返した。

「実は、僕も両親のこと知らないんですよ。物心ついた時には、親戚って人の下で育ってましてね」

 雲が多い日だった。部屋の掃除を終えたシオンを、アールが庭に呼び出した。

 背後を海岸線に囲まれた大きな庭には、会談のためのパラソル付きテーブルがいくつも並べてある。家から一番遠い、柵の間近で二人はジュースを飲んでいた。

「俺も同じだ。アールは運がいい」

「でも、今は僕もシオンくんも家族がいます。シオンくんは、本当の両親のこと、どう思ってますか?」

 アールは若い執事の中では飛び抜けて仕事ができる。特に、グリアンの側近の時は誰よりも早く行動を起こせた。

 自分と同じ人間に会ったのは初めてじゃない。けれど、アールはあの場所にいた人間達とは匂いが違った。

「別に何にも思ってない。それに、俺の家族は死神、ミヤビたちだけだ」

 ミヤビの顔が頭をよぎる。その夜は、一人のベッドがやけに寒かった。

 グリアンの手紙が完成したのは、シオンが十回目のおはようを言った朝だった。目の下に隈を拵えた老人は、部屋の窓から昇る陽を眺めていた。

 その日の昼には、ミヤビとダヴィが手紙の回収にやってきた。久しぶりの心地よいインクとハーブの香りは、我慢していたものを断ち切らせた。

 直前で踏み止まるシオンの銀の髪を、暖かい手が荒く撫でる。それだけで満足したのか、シオンはアールたちを気にするように顔を背けた。

「確かに、想いを受け取りました、ミスター・グリアン。返事が来るかは分かりませんが、私が責任を持って空の向こうへ届けます」

「ありがとう、死神様。赦されなかろうと、返事がなかろうと、私の想いは全てここに詰まっています。自分を見つめ直す機会にもなりました」

 グリアンの邸で唯一高価な家具が置いてある応接室で、家の主は震えていた。ゴミ箱には、くしゃくしゃにされた原稿用紙が何枚もあった。

「それでは、しばし外していただけますか?最後の仕上げは、人に見られてはいけないのです」

「……わかりました。ありがとう。本当に。シオンにも、我が最高の感謝を。君がいたおかげで、少しの間夢を見れた」

 力強い握手をして、グリアンは部屋を後にした。続いてアールとハグをした。他のメイドや執事たちとも、別れを惜しむように握手やキスをした。

 伽藍となった大きな部屋に、二人の影と想いの手紙。金色の蝋燭に火を灯しながら、ミヤビに話を聞いてもらった。

 カーテンを閉め切った部屋で、虚ろな灯火が揺らめいている。ミヤビは黙って、シオンの語る、グリアンたちとの物語に頷いていた。

「シオンにとって、この家の人たちとの時間は楽しかったか?」

「……うん。なんだか、ここは暖かかった」

 シオンの口元が綻び、目が細くなる。一回り大きくなった少年の銀髪を、死神は大きく撫でた。

「さて、それじゃ仕上げだ。今日はシオンがやってみろ。グリアン卿の想いを、空の向こうへ届けるように」

「やっぱり、ミヤビはすごい。俺から頼もうと思ってたのに」

 仕上げを任されたのは初めてだった。爛々と目を輝かせるシオンの前に、一枚の便箋が差し出される。

 十分に柔らかくなった蝋で封をし、華の押印で文字を閉じ込める。宛名のない便箋に切手を貼り、表面を指でなぞった。

 蝋燭の灯が大きく揺れた。同時に、真っ白だった便箋に、無数の文字が浮かび上がってきた。シャボン玉のように宙を揺蕩い、触れれば爆ぜる真っ黒なインクを目で追うのが、シオンの楽しみだった。

 まだ熱の残る蝋燭を冷ましながら、カーテンを開けて太陽を拝む。すると、スリッパが擦れるパタパタという音とともに、グリアンが駆け込んできた。

「死神様、シオンくん……!終わりましたか?私の想いは、妻の元へ届きましたか!?」

 グリアンは興奮していた。頰はリンゴのように紅潮していて、スーツなのに汗を掻く姿は、虫取りの後の少年のよう。

 しかし、例えどんな様子であろうとも、ミヤビは表情を変えなかった。

「ご安心を。想いは彼方、必要としている人の元へ飛びました。生きている私たちにできるのは、もう待つだけです」

「そうですか……。ならば死神様たち、どうか、この老人の最後の頼みを聞いてくれませんか?」

「私からも、お願いいたします、お嬢様」

 開け放たれた戸の向こうで、グリアンが頭を下げている。その背後には、燕尾服が一列に並んでいた。

「俺はいいよ。だから、お願いミヤビ。話だけでも聞いてあげて」

 いつだって、ミヤビは自分を優先にしてくれる。シオンは、ミヤビが聞くよりも先に考えていた。

 差し込んだ日が妙に眩しかったのを、何年経っても、シオンは覚えていた。その時の、複雑なミヤビの顔も。



 朝日を受けて照り輝く海岸線に、一隻の船が停まっていた。何トンもの荷物を運ぶはずのその大型船舶は、空っぽの積載部を波に揺られて上下していた。

 埠頭には、わずかだが人の姿があった。死神の名を冠した三人と、依頼人であるグリアン。そして、執事代表としてアールとメイド長のプリシラ。

 グリアンが急にドイツへ行こうと言い出したのが一昨日の夕方。大急ぎで出航させ、着いたのはほんの一時間前だった。

「懐かしい。ここに来るのは、妻と結婚して以来だったかな……」

「ここが、あなたたちの…………」

 広がる水平線に目を泳がせながら、ミヤビは一枚の便箋を握っていた。封のされていないそれは、見たこともない上質紙で折られていた。

「いい眺めですね、シオンくん。お屋敷からの景色に似ています。なんだか、僕も懐かしいですね。子供の頃から、見てきたって感じがします」

「多分、グリアンが似せたんだ。想いが詰まった場所を、手のひらで掴めるように」

 朝日に輝く銀の髪が、潮風に靡く。少し冷えていた指先が、じんわり暖かくなっていくのを感じた。

「準備はできましたか?ミスター・グリアン。想いを伺うも、胸にしまうも、あなた次第です」

 差し出された便箋を、老人はためらいなく受け取った。手元から便箋が離れた時のミヤビは、海の向こう側でも見るような目をしていた。

『お手紙ありがとう、愛するあなた。こんな形でもう一度会えるなんて思ってもいなかったわ。

 ごめんなさい。ずっと、私のことで悩んでいたのね。何もできない私を愛してくれたあなたを、どうして私が恨めましょうか。毎日、おはようのキスをして、ご飯を食べて、たまの休みには森へ散歩に行って、よるにおやすみと囁き合う。

 それだけで、私の人生は幸せだったわ。だから、過ちのことは忘れて、自分を許してあげて。

 それに、私だっていつまでもお茶をかやす秘書じゃないのよ。人づてに、あなたがした事を知ったわ。でも、相手から連絡が来た時は驚いたわね。感謝してる、でも、悪いことをしてしまった。自分は罰を受け入れるって。

 だから私、彼女とお友達になったの。同じ人を好きになったんだもの。話しが合うのも当然。

 あなたに内緒でお手紙をやりとりしたわ。実際にあったことはないけれど、子供の事も知っていた。

 そんなわけだから、死神さんに頼るのはこれっきりね。新しい人を見つけて、なるべくこっちにはゆっくり来てちょうだい。あなたの愚痴を言い合ってるから。

 愛してるわ。 パティア』

 グリアンは、言葉に出して綴った。最後の方は、かすれて何を言っているか分からなかった。

 丁寧に手紙を便箋へ折り戻すと、まるでやせ我慢をする子供のように彼は肩を震わせた。

「敵わないな、彼女には……」

 空気がしょっぱい。目頭を押さえふらつく老人を、アールが急いで支え上げた。

 その時だった。シオンが抱いていた、ミヤビの表情への違和感は、確信になった。さっきグリアンに手紙を渡した彼女は、隠し事をする時の顔をしていた。

「さ、次は君だ。アール」

 その言葉に目を奪われたのはシオンだけじゃない。当のアールですら、大きく目を開いてミヤビを見つめている。

「ど、どういう事だアール。君も死神に依頼を?」

「えぇ。亡くなった母に。みんなに知られると恥ずかしいので、シオンくんには言わず直接死神様へ。ですが、どうして今なのです?私が出したのは昨日の夜ですよ?」

「君の母も、この時のために準備していたんだろう。真相はわからないが、ついさっき届いたんだ」

 便箋が破られて行く間に、シオンは思い出していた。街中の楽しげな家族、優しい父親を。

 グリアンと同じ上質紙に、同じ香りのインク。たどたどしい英語で書かれたそれは、まるで息子だけでなく、他の誰かも読めるように考えたようだった。

『あんたは賢い子だよ、アール。昔から働きゃいっぱいお金を稼いでくれた。私が病気になった後も、家計を支えてくれた。ありがとう。愛してる。

 さて、あんたは手紙に書いていなかったが、本当は気になってるんだろ?家族のこと。ずっとごまかして来たけど、死人に口なし。語ってももう怖くない。

 私はね、昔ある大金持ちの男と不倫したのさ。とても優しい人だった。身体が大きくて、私の髪を褒めてくれた。親戚がいないのは知ってるだろ?だから私は、その人を愛してしまった。

 奥さんがいるって聞いてたのにね。我慢できなかった。私はその人以外愛せなかった。だって、私とその人の愛の結晶があんたなんだから。

 でも結局罪悪感が勝っちゃってね。奥さんに連絡したんだ。でも、彼女はとても優しい人だった。彼以上に、彼女は私を赦してくれた。あんたの就職だって、その人が世話してくれたんだ。

 あんたにはあんたの人生がある。だから、その決断をするための材料として、あんたの父親の名前をここに書いておく。

 あんたの父は…………』

 想いは彼方、空の向こうへ。無限に広がるはずのそこには、想いが繋がることがある。誰かの想いが、別の誰かへ。そうして、愛は世界を循環する。

 三度手紙を目でなぞった。けれど、不思議と二人とも納得がいっていた。

「これじゃ、俺が息子になった意味がない」

「そんな事ないさ。君がいなければ、きっとアールは手紙を書かなかった。そうなっていたら、ずっと二人は他人のままだったからね」

「救ったのはぼっちゃんですよ。想いをつなげる。しっかりと、死神の仕事を全うしているではありませんか」

 少年は家族が欲しかった。頼れる人が、自分を受け入れてくれる人が。

 老人は家族が欲しかった。自分の弱さを覆ってくれる人が。自分を奮い立たせるよう、背後で見守ってくれる人が。

 形は違えど、グリアンもシオンも、それを手に入れた。仮の親子は、海を境に手を振った。少年は親を、老人は息子を背にして。

「さ、帰るぞ。今回は疲れた。今日のご飯当番はシオンだな」

「グリアンのとこで覚えて来た秘伝の料理法、ミヤビには教えてあげない。食べるだけで我慢して」

 一層強い波風が、何も書かれていない手紙をさらっていった。

 その日は三人並んで食事をした。ダヴィと一緒に風呂に入った。

 家の灯りはいつまでも、想いを灯す火のように、ずっとそこにあり続けた。

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