第9話 湖上の家族
イングランドの朝は肌寒い。慣れない風土と味付けの違う朝食に、シオンの舌は不満げだった。
昨日帰ってきてから、シオンは物語を二つも読み終えた。夜通し布団で起きていたものだから、今朝の機嫌はすこぶる悪い。
あくびの止まぬ少年を、ミヤビは引っ張り出して車に乗せた。眠れぬ夜や昔を思い出した日には、こうするのが一番だった。
シートを揺らす振動と、窓を抜ける朝の風が眠気を誘う。町に入る頃に、シオンは目を閉じていた。
「さ、起きろ。今日は買い物をするぞ。シオンの好きなデパートでだ」
シオンはミヤビについて回るのが好きだった。取り分け、買い物へ商店街や市場へ行くとなると、彼の目は輝いた。
ロンドン一と謳われるその建物は、シオンがこれまで行ったどのショッピングモールよりも大きかった。パンツの紐から車まで、おおよそ無いものなどないのでは無いかと思うほど。
雑踏の中でも、シオンは目を開けられるようになっていた。今まではずっとミヤビの背後を追うだけだったが、今日は自分からいろいろな店を見に行った。
「何か欲しいものがあるか?シオンも良く働いてくれているからな。一つくらいならいいだろう」
「珍しいな、ミヤビがそんなこと言うなんて」
「今日はダヴィがいるからな。私は当面入り用なものを買ってくるから、二人で見ててくれ」
いつもと同じ黒のスーツを翻し、ミヤビはエスカレーターを昇っていった。
「ほんとにいいのか、ダヴィ?」
「いいんですよ、ぼっちゃん。甘いものでも、最近はやりのゲームでも。お嬢様もああ言っていますが、ぼっちゃんには同じ年の子と同じように、わがままを言って欲しいんですよ」
白い髭を撫でながら笑うダヴィに、シオンはミヤビの影を見た。無骨な顔からは想像できないほど、目の前の老人は死神だ。
シオンにとって、死神は家族だった。
陽が暮れるまでに、シオンたちはデパートを二週していた。悩んだ挙句に出した答えは、大きなホールケーキを三つ分。
初めて自分で選んだ欲しい物は、持っているだけでも心が満たされるようだった。
夕暮れの街を、老人と少年、若い女性の三人で歩く様は、どこか本当の家族のようにも見えた。
世間はたまの連休に興じているのか、やけに子連れが多い。肩車をしてもらっている男の子や、父母と手を繋いではしゃぐ女の子。シオンとそう変わらない子供達は、家族の背中を追っている。
「……早く帰って、ご飯にしよう、シオン。今晩は私の手作りだ。それが終わったら、三人でケーキな」
「…………うん」
人混みは嫌いだった。家族を見ると、どこか孤独が襲ってくるから。でも、ミヤビの背中を追いかけるのは、それよりも楽しかった。
それは駐車場へ向かおうと、雑踏の中、息を呑んだ直後だった。背後から気配が近づいてきたかと思ったら、それはシオンにぶつかってすっ転んだ。
衝撃で、シオンのじゃ無いケーキの箱が転がった。同時に、夕陽の静寂を断ち切るような泣き声が響いてきた。
「なんだ?子供……?」
シオンにぶつかったのは、五歳くらいの男の子だった。転んだ痛みか、持っていたケーキの箱を落としてしまったからか、大粒の涙が頬を伝っている。
接し方がわからず慌てていると、すぐに両親と思しき人が走ってきた。
「ウチの子がすいません!お怪我はありませんでしたか?」
「大丈夫ですよ。それより、この子の方が」
「うわぁぁん!ぼくのケーキ!!」
「誕生日だからってはしゃぐからよ……。あの、ほんとにすいません。ごめんねボク」
頭を下げる若い母親に、シオンは戸惑うことしかできなかった。
「泣くなって。また買ってやるよ。今日は特別な日だからな」
「そうよ。家に帰ったら、おいしいパイがあるからね。さ、バンシーが来る前に。ね?」
落として崩れたケーキの箱を母が拾い、泣き噦る男の子を父親が肩に乗せる。もう一度頭を下げて、突然の来訪者は雑踏へと溶けていった。
きっと彼は、生まれてきた日をこの後何年も祝ってもらえるのだろう。学校へ行き辛い事があれば母が聞き、悩みは父が相談に乗ってくれる。
シオンには、このケーキが重たかった。
夕食はミヤビお手製のかぼちゃパイに、分厚いロースステーキだった。量の調節が下手な彼女が作った六人分を、シオンはペロリと平らげた。
三人分にしては、ホールケーキ三つは多すぎた。紅茶と一緒に生クリームを舐めながら、シオンはさっきの家族のことを思い出していた。
「俺、ちょっと怒ってたんだ。家族がいて、迎えに来てくれるだけマシじゃないかって。でも、小さかったから言わなかった。どうしたらいいと思う、ミヤビ?」
「シオンの気持ちは分からなくもない。それに私は、シオンが怒るんじゃないかって肝が冷えていたよ」
「こないだ読んだ物語だと、家族がいない主人公が、家族と仲のいい友達に怒ってたし、一人の自分に悲しんでた。家族がいなかったら悲しいのか?」
「君はどうだ、シオン?血の繋がった父や母がいない事が悲しいか?」
「俺は別に悲しくない。ミヤビがいるし、今はダヴィもいる」
「ならそれでいい。家族と過ごす時間は、いずれ来る一人の時間のための思い出づくりだ。孤独に耐えられるよう、私たちは家族との思いをせっせと心に詰め込むんだ。家族だけじゃない。友人とも、恋人とも、時には憎い相手とも。
空の向こうは一人の世界だから、私たちは手紙を書くように、胸に留めておくんだ」
シオンの手を取り、ミヤビは自分の胸に寄せた。暖かい鼓動が手のひらを伝う。
香ばしいパンプキンパイは、今夜の夕食を刻んでくれた。暖かい紅茶は安らかな時を、ロースステーキは物語を。
甘いケーキは、ミヤビの心を残してくれる。
「お願いがあるんだ、ミヤビ。ダヴィも協力して」
「ようこそ死神御一行様。わざわざご足労いただき、私たち執事一同としても誠に恐縮の至りです」
「こちらこそ、突然の申し出を謝罪します。ミスター・アール。グリアンはどちらに?」
「社長はご自身のお部屋にて待機されております。本日は私が、屋敷の中の案内を担当させていただきます」
パーティーから一週間が過ぎようとしていた。海岸線が金色に磨かれる黄昏時に、三人はグリアンの邸を訪れた。
イングランドのはるか端、見渡せば無限の海が見える海岸に、その家は建っていた。前にどこかの写真で見た富豪の豪邸とはイメージが違って、グリアンの家はあまり派手ではない。
小学校ほどの大きさの建物に、海沿いにはもっと大きな船着場。仕事場と自宅を兼用しているせいか、いたるところに書類の山がある。
手入れの行き届いた庭に、簡素だけど大きな家具たち。シオンにとって、ここは居心地のいい空間だった。
「やぁ、よく来てくれたね、シオンくん」
アールがノブを捻った直後、大柄な老人がシオンの手を握った。負けじとシオンも強く握る。
ここに来たいと言い出したのはシオンだった。あの日以来、シオンはより熱心に本を読んだ。特に、仲の良い家族が出て来るものを、なん度も読み返していた。
「ありがとう、グリアン。俺のお願いを聞いてくれて」
「……礼を言いたいのは私の方だよ、小さな死神さん。君たちには、感謝してもしきれない。けれど、同時に申し訳なくも思うんだ」
アールが淹れた紅茶を飲みながら、グリアンは一枚の写真を眺めていた。陽に灼かれ、色褪せたそれには、寄り添う二人の夫婦が写っていた。
「パーティーの時の私は、元気がないように見えてしまったかな」
「それもそうだけど、違う。ミヤビと暮らして、この経験が必要だと思ったんだ」
「……私が手紙を交わすまでの短い間だが、よろしくだ。我が
「あぁ。父さん《グリアン》」
ホールケーキを食べ終えたあと、シオンは頼み事を二つした。一つはしばらくの間休暇を取りたいということ。
もう一つは、彼の想いが届くまで、グリアンの子供として過ごしたいということだった。
たびたび、本当にシオンは生活に驚きを与えてくれる。シオンの成長が、ミヤビは何よりの楽しみだった。
その日のうちに、ミヤビとダヴィは手紙を書いた。赤いポストに投函し、次の日に真っ赤なバイクが返事を運んで来た。
「それじゃ、私たちは帰るが、寂しかったらいつでも電話して来ていいんだぞ。使い方はわかるな?シオン」
「ミヤビこそ、寂しかったら遊びに来ていいよ。あと、運転はダヴィに任せたほうがいい」
玄関まで見送ってくれたシオンを、ミヤビは胸に押しつけるように抱きしめた。銀の髪がくすぐったく感じた。
シオンは初めて、ミヤビたちの車が遠ざかる姿を見た。ナンバープレートが森に消えて行くと、少し手が冷えた気がした。
助手席の空いた車は、随分と静かだった。
「お嬢様、車内で本を読むと酔いますよ?それに、この暗がりでは目も」
「……別に、視界を塞げればなんでもいい。癖になってしまっていたよ。いつもは銀の髪が夕陽に反射されているからね」
ダヴィの運転は、ミヤビのそれと違って丁寧だ。
「案外、お嬢様の方が早く折れそうですな。明日も来られますか?」
「それもあるがな……。それよりも、わたしは嬉しいんだよ、ダヴィ。あのシオンが、見知らぬ枕で眠ろうとしているんだ。
壁を登る少年に、手を差し伸べるのは無礼だろう?」
今、シオンは新しい自分を知ろうとしている。自分にできることを、ミヤビはわかっていた。
二人がロンドン市内に入る頃には、すっかり夜が街を覆っていた。久しぶりの静かな夕食は、待っている時間が長い気がした。
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