第8話 死神郵便局
「もっと早くに教えてよミヤビ。死神はここで仕事をするのか?」
「……まぁ、仕事は世界中を飛び回るから、正確には郵便局の一つだがね。ここはみんなが集まるだけの場所。他にもいくつかある。後々行こう」
「うん。そのために、もっといっぱい言葉を教えて、ミヤビ。ダヴィも」
少しでも早く仕事を終わらせようと、シオンは車へ走っていった。便箋の束が入った段ボールを三つも抱え、それを次々運んでゆく。
その日の死神は、夜になってからの活動だった。本を読んでいたシオンはいきなり二階へ連れていかれ、ぴっちりとしたスーツを着せられた。
生まれて初めて締めるネクタイは、妙に苦しかった。セットされた銀の髪は、どこか精悍な狼を連想させる。
海岸線に潮が満ちた頃、三人はロンドン中央へ向けて車に揺られていた。
「今回の仕事はなんでこんな格好なんだ?俺、これ嫌いだ」
「そうか?なかなかイケてるぞ、シオン。特にその髪型。ハイスクールならモテモテだ」
「今回の依頼は少し特別な場所ゆえ、正装が必要なのです。お嬢様のドレス姿、どうですかぼっちゃん」
「……これが制服なのか。ミヤビのは、ふつうにいい。綺麗だ」
シオンの言うことに、ミヤビは頬を染めない。ありがとうと言って、彼女は頭を撫でた。
シオンはそれが、少し寂しかった。
街の中は、太陽の代わりにネオンが昇っていた。月なんかだれも気に留めないような光の森の先、死神達が訪れたのは、大きなホテルだった。
絢爛豪華な装飾に、場違いなほど鮮やかに着飾る人々。漂ってくる料理の香りが、パーティーであることを告げていた。
チェックインはいらなかった。ダヴィの顔を見た瞬間、係りの人が通してくれた。
「申し訳ありませんが、皆さま。手荷物検査は男女別で行います」
タキシードで身を固めたフロントマンに、シオンは狼狽していた。初めて訪れる立派なホテルに、客はみな麗しげな一張羅。
聞こえてくる訛りの強い英語に、シオンは黙って俯くことしかできなかった。
「堂々としていなさい、ぼっちゃん。不釣合いではありません」
ダヴィの言葉に、背を伸ばした。もうシオンは、彼らに使われる側の人間じゃない。
便箋はミヤビが持っていたせいか、検査に時間は喰われなかった。貸切のホテル、最上階へと向かうエレベーターの中、シオンは黒い紙に修正液を吹きかけたような夜景に夢中だった。
「ねぇ、ダヴィ。なんでミヤビは他の人に見えるんだ?俺たちのところに来た時は、俺にしか見えなかったぞ」
ふと、シオンは思い出していた。人と暮らす死神は、もう神を辞めてしまったのではないかと。
「……きっと、それがお嬢様の選択なのでしょう。私には見守ることしかできません。ですがシオンぼっちゃん。あなたなら……」
ダヴィは大きく息を吸い込んだ。けれど吐く前に、動く地面が停まってしまった。
開いた扉の向こうは、ワインが踊り上等な霜降り肉が跳ねる、見たことのない楽園だった。さっきの話など忘れ、シオンは走りたい気持ちを抑えながらプレートを取った。
検査を終えたミヤビが合流したのは、シオンがお皿いっぱいに食べ物を盛った時だった。今にも溢れ落ちそうなステーキとムニエルの山を見て、彼女は笑った。
「ちゃんと野菜も食べるんだぞ、シオン。それと、ビッフェは一口づつだ。君がお腹いっぱいになるまで仕事は始めない。安心して、よく噛んでな」
「わかってる。ミヤビはなんか欲しいものないか?俺もうなにがどこにあるか全部覚えたぞ。一緒に取りに行こう」
淡い黒のドレスを着た死神の手を取る少年を、ダヴィはワイン越しに眺めていた。
パーティーではさまざまな催し物があった。聞けば誰もが足を止めるジャズグループや、奇術師、道化の狂乱舞踏。その全てを堪能したころに、もうお腹は味に満たされていた。
シオンがデザートに手を伸ばす前に、ミヤビは便箋の端を鞄から出す。渋々といった表情で、銀髪の少年はタキシードを翻した。
三人が向かったのは、依頼者であるこのパーティーの代表だった。主賓への挨拶を終えた彼に、大きな死神が手を差し伸べる。
「久しぶりだな、友よ。盛況なパーティーに感謝するよ」
彼はダヴィと同じほどの大羅漢だった。シオンと同じ碧い瞳が、ダヴィを見た瞬間湿り気を帯びた。
「来てくれたのか、ダヴィ。いつも招待状を出しても席が空いているから、また放浪かと心配したぞ。そちらの二人は?」
「初めまして、ミスター・グリアン。私はミヤビ・アカツキ。こっちはシオン。私たちはあなたが呼んだ空の使者、『文を持つ死神』です」
差し出されたミヤビの手を、彼は力強く握り返した。老いて皺だらけの手が、かすかに震えている。
「……あぁ、神の慈悲よ」
「一通につき寿命一年。返事が来るかはわからない。死者への想いを、私が届けよう。それでもよければ、どうぞ、『死神郵便局』の切手を舐めてください」
死神になった彼女は、空の下の誰よりも淡い言葉を使う。真珠の様な瞳は、心の奥を吐き出したくなるほど綺麗だった。
「ありがとう、友よ。君からこの切手をもらった時は半信半疑だったが、やはり君は私の大切な友だ。しかし死神さん、あなたはどうやってここに?招待状は一人分だったハズ」
「報告が遅れて申し訳ありません。私が招待状をお送りしました。ダヴィ殿から追加の連絡があったので、知人様と共に来られるのかと」
会話の間に入ったのは、燕尾服を着てお盆を持った若々しい執事だった。二人と同じ様にワイン取ろうとしたシオンだったが、すんでの所で引っ込められる。
「そうなのか、アール。まぁいい。少し席を変えませんか、死神殿。他の皆に聞かれては、いささか目立ちますゆえ」
「いいですよ。けれど、デザートを運んでくれませんか。甘いものがあったほうが筆も走るでしょう」
アールと呼ばれた執事が取りに行っている間に、死神と富豪は屋上へと歩を進めていた。
ロンドン一の夜景が、無垢な少年の目に輝きを灯す。空中庭園と呼ばれるその展望台は、四季折々の花が咲き乱れる楽園だった。
夜風が肌を撫でる感覚が心地いい。星明かりの下、アールが持ってきたケーキを、シオンは遠慮しがちに頬張っている。
「こちらが便箋です。時間はどれだけかけてもかまいません。それと、私たちは中身を見ませんので、安心して書いてください。返信も同様です」
「……そうですか。お気遣い感謝します。死神さん」
もう何度聴いたか分からないミヤビの口上。死神としての挨拶だけなら、シオンは三つの言語で言えるようになっていた。
「……少し、昔話を聞いていってはくれませんか。ダヴィ、君にも聞いていってほしい。愚かな男の、馬鹿な話だよ」
宛先欄のない便箋を震える手で開けながら、髭の生えた老人は語り出した。誰に向けてかも分からない様な、懺悔の言葉を乗せて。
「私と妻が出逢ったのは、私が二十五のときでした。あの頃は、いつも仕事のことを考え、算盤を片手に七つの海を駆け回っていたんです。
アレは、そう。ドイツの海運大口の取引先へ行った時でしたなぁ。社長の秘書として、妻はいたのです。
私は一目で恋に落ちました。若かったのもあったのでしょうが、どこか運命めいたものを感じたんです。船についても、彼女のことを考え眠れなかった私は、次の仕事を棄てて彼女に会いに行きました。驚いた表情が、今でも眠れぬ夜に瞼を押さえてくれていますよ。
私たちが愛し合うには、そう時間はかかりませんでした。思えば、無理やり用事を作っては逢いに行く私に、彼女は困惑していたでしょうな。
そうして私は使える力の全てを用いて、彼女と結婚したのです。本拠地をロンドンに移して。出来れば世界中を共に歩みたかったのですが、彼女は少し体が弱かった。だから私は、一緒にいる時間を増やすべく、全ての遊びをやめ休日を作りました」
シオンには、グリアンの物語が、どこか御伽噺のように思えてしまった。
乾いた喉にワインを流し込み、回った酒で回顧する。空と緑の世界だった物語のキャンバスに、曇ったシミが落とされた。
「……妻は、子供ができない体質でした。世界中の医者を集め、知識を集わせました。ですが、私たちはずっと二人のままだった。
私はずっと笑顔を心がけました。朝のベッドでも、重役の会議でも、目が腫れるほどの激務の時も。妻も笑顔でした。……幸せだったんです」
空の向こうに告げられるのは、必ずしも想いとは限らない。煮凝りのような懺悔もあるのだと、シオンは知った。少しケーキが苦くなった。
「あの頃の私は、いや、きっと今でも……。疲れたんでしょうな。たった一つ、けれど決して禊ぐ事のできない罪を、私は犯してしまったのです。
またドイツへ行った時でした。あの時は、仕事の都合でどうしても二週間滞在しなければならなかった。私はホテルに泊まっていたのです。
ある日の帰り、私は彼女を拾ってしまった。彼女は家出少女でした。雨を背に、深淵を見るような瞳を無視できなかったのです。聞けば、両親は無く、親戚の家から逃げてきたとのこと。
食事を摂らせ、部屋の準備をして、そして、私は過ちを犯しました。
自分勝手だった。だけど、子の出来ぬ妻に、多少の不満がどこか心の底にあったかもしれません。
イングランドに帰る時、私はその少女を置いてきてしまった。まだ年端の行かぬ彼女のため、知り合いのツテを辿り職を見つけ、当面の生活費としては十分な額を与えました。
帰った後、私は激しい後悔に襲われました。笑顔の妻を見るたび、心が痛みました」
無骨な男の頰を、一筋の雫が滴った。喉にかかる言葉を引き出そうとする姿に、シオンは死の影を見た。
「妻は三年前に、癌で他界しました。風の噂によれば、ドイツの彼女は子を身籠っていたそうです。そして、妻が伏せたのと同じ時期に、事故で。
私は誰も幸せに出来ませんでした。こんな老いぼれの命で謝罪ができるのなら、何通だろうと、赦してもらえなくとも、送り続けたいのです」
語り終えると同時に、グリアンは激しく咳き込んだ。執事の一人がすぐに駆けつけ、大量の薬から一つを差し出す。
残っていたワインを一飲みに、ミヤビは老人の肩を支えた。
「死者が何を思っているかは、私にもわかりません。ですが、想いがあるのならば、きっと答えは来ます。それがどんなものでも、受け止める覚悟さえあるのなら、きっと」
「私たちは空の向こうへ想いを届ける死神。君に想いがある限り、いくらでも聞くぞ、友よ」
執事から水を受け取り、ダヴィがそれを手渡した。
グリアンが息を整えたのを見計らい、三人はパーティーを後にした。見送ってくれたアールが詰めたケーキの箱を大事そうに抱えながら、シオンは切れる車窓から目を背けていた。
「……ミヤビ、アレも愛なのか。家族って、大事なのか?」
少年の瞼にあるのは、枯れた畑だけ。耕してもなにも実らないその土地を、ボロボロになっても掘り続ける己の手。
森の中は静かだった。
「……私は君を愛しているぞ、シオン。家族は、何も血の繋がりだけじゃない。人がそこに愛を感じたら、それはもう家族なんだよ。ダヴィも私も、君も、それに今はいないがシーターも。君はどうだ、シオン?」
「……愛していれば家族か。なら、俺とミヤビは家族だ。もちろんダヴィも。残りの一人は、会ってみないとわからない」
ダヴィが笑った。連られてミヤビも声を出す。わけがわからないまま、シオンも頰を緩めていた。
愛。その言葉の意味が、今なら少しだけ分かる気がした。
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