For my precious one

第7話 初老の死神


 真夏を過ぎたイングランドは、立秋の風が心地よく肌を撫でるほどよい気温だった。

 フランスの教会を経たシオンは、死神として世界を旅していた。数えて十の手紙を見る頃には、彼の英語は生活に支障のないくらいに成長しきっていた。

 その日は、シオンとミヤビが出会ってちょうど一ヶ月目の日だった。埃っぽい部屋で陽に照らされながら、ミヤビはドライヤーで髪を乾かしながら携帯電話を確認していた。

「次の依頼はロンドンか……。少し遠いが、車酔いは大丈夫かシオン?」

「ミヤビよりも俺が運転した方がいい。本当にライセンス持ってるの?」

「失礼な。私はブランクがあっただけだ。船舶やヘリのも持ってるぞ。いろんなところへ行くからな。シオンにも取ってほしいが、あと三年の辛抱だな」

 ホテルを転々とする日が続いていた。金のない日は車で寝た。たまにレストランへ行った。親がいて、食がある世界なら誰もが経験することを、シオンは教えてもらっていた。

 死神は、シオンにとっての全てだった。

 ロンドンまでの移動は列車でとのこと。荷物を車に詰め込んで、二人は駅へ向かう。

 ミヤビよりも多くの段ボールを、彼女よりも早く運べるのが嬉しかった。「シオンがいて助かるよ」。そう言われるだけで、空の色は青くなる。

「ミヤビ、蝋燭がだいぶ減ってる。便箋はまだまだあるけど」

「問題ない。ついでに補充しようと思っていたからね」

 揺れる車の中、シオンは金色の蝋燭を陽に透かしていた。

 それは、シオンにとって初めての快速列車だった。真っ黒な息を吐きながら進むそれは、どこか大きな生き物を想像させる。

 揺れる列車の一等室で、窓を流れる緑の海がシオンの目を引いた。

「早い、早いよミヤビ。しかも大きい」

 一等客車には目もくれず、シオンがミヤビの手を引いた。開けたボトルを持ちながら、青と緑の世界を二人は眺めていた。

 シオンのお腹が鳴ったのは、ちょうど三つめの駅を通過した後だった。

「昼飯食べに行こう、ミヤビ。ここには食堂があるんだろ?」

 頰が緩む。同時に、彼女の携帯が歌い始めた。

「……すまないシオン。先に行っていてくれないか?急用だ」

「わかった。早く来てよ」

 食堂のチケットを受け取って、シオンは快速な蛇の体内を練り歩く。狭い通路ですれ違うたびに、少し手が胸に伸びた。

 列車の一番後ろにあるレストランには、あまり人がいなかった。席は予約してあるものの、まだシオンはメニューを上手く読み取れない。

 適当に指差したものが出て来る間の、腹が踊る感覚が好きだった。車内を満たす胡椒とワインの香りに、一層空きっ腹が刺激される。

 ジュースが運ばれて来たのと同じ時だった。聞きなれない訛りが、シオンの頭上から降って来た。

「お〜いぼっちゃん。こんな小さな子が一人で飯って、親はどうしてんのよぉ〜。俺らと一緒に食うか〜?」

「…………だれ?」

「俺見たぜ。こいつめっちゃ美人なアジア人と一緒にいたやつだ。頼むよ〜。あの姐ちゃん呼んできてくれよ〜。一緒に部屋行って飲もうぜ〜」

 男だった。二人だった。吐息からワインの甘ったるい匂いが漂っていた。

 シオンは、人が酒に溺れたところを見たことがなかった。戦場では少年兵がよくくすねていたが、シオンは飲んだことがない。けれど、たまに溺れてしまった者が居るとも聞いていた。

 けれど、集まりに参加したことのなかったシオンにとって、彼らは未知の人間だった。

「綺麗な銀髪だな〜。なに人だ?あの姐ちゃんとどんな関係よぉ」

 言葉も発せず、ただドアが開くのを待っていた。ミヤビが助けてくれると。

 その日の死神は、一風変わった風貌でシオンの前に現れた。

「こらこら。少年が困っているでしょう、お二人方」

 シオンの頭よりはるか彼方、その声は、酔っ払った二人の上から降ってきた。

 白髪を縛り上げ、目元には大きなサングラス。浅黒い肌は、シオンの日焼けとワケが違う。その人は、悪魔のように大きかった。

「さぁ、席に戻って。私からボトルとチーズをサービスしておきましたよ。ロンドンまでの二時間、楽しいひと時を過ごしてください」

 老人の言葉には重さがあった。自分より大きな老人に肩を掴まれた二人の男は、何も言わずに背中を見せた。

 何を喋ったかはシオンにはわからない。けれど、彼は目の前の巨漢から目を離せなかった。

 彼の真黒な紳士服から、覚えのあるハーブの香りがした。

「英語はわかりますか?少年。災難でしたが、これもまた旅の楽しみ。実はこの列車、私がオーナーなのです。お詫びに何か食べたいものはありますか?」

 氷を溶かすような優しい笑顔。シオンはこの表情に見覚えがあった。ついこの間、月の下で。

「じゃあ、クッキーがいい。ジャムの入ったやつ」

「かしこまりました。しばしお待ちを。取りに行って参ります」

「一緒に食べよう」

「よろしいのですか?待ち合わせておられるのでは?」

「大丈夫だ。あんたは俺を助けてくれた」

 譲らないシオンに、老人は折れた。彼は上着と杖をシオンの正面の席に置くと、その巨躯をゆっくりと厨房へ運んでいった。

老人が帰ってくるよりもはやく、艶やかな黒髪が窓ガラスに反射した。

「待たせたな、シオン。さ、食事にしよう」

 シオンの髪を、温かい手が包み込む。シオンはこれが好きだった。

 ミヤビは相変わらずの黒いスーツだった。

「ミヤビはドレスを着ないのか?俺は見たい」

「いきなり何を言うんだシオン……。そうだな、これは私の仕事着だからね。向かう途中も仕事なんだよ。……ところで、あれはだれのものだ?」

「さっき俺を助けてくれた人のだ。一緒に食べていいだろ?ミヤビ」

 シオンが身を寄せてくる。ミヤビはノーとは言えなかった。

 シオンから話を聞くうちに、ミヤビの眉は上がっていった。最後に彼がこの列車のオーナーであることを告げると、彼女は笑ってカクテルを飲み干した。

「なら問題ない。むしろ、手間が省けたよ」

 聞き返すより早く、大きな影がテーブルに映る。見上げると、湯気をあげるクッキーを持った老人が、ミヤビを見て固まっていた。

「座れダヴィ。私も一つもらっていいか?」

「……これは、なんたる神の御技ですかな。お嬢様」

 席に着くやいなや、老人がグラスを差し出した。チン、と細い音が響く。

「二人は知り合いなのか?ミヤビの知り合いに会うのは初めてだ」

「そうだな。だが、ただの知り合いじゃない。ダヴィは同じ職場の仲間だよ、シオン」

「彼が例の子ですか。よろしく坊ちゃん。ミヤビお嬢様の部下、ダヴィルデ・グルグニフです。以後、お見知り置きを」

 シオンは思い出していた。彼の服からは、いつもの手紙の香りがしたことを。

「死神ってミヤビ一人じゃないのか?」

「そう言えば、シオンにはまだ話してなかったな。文を持つ死神は三人いる。私とダヴィと、あ、彼女は今あそこにいるか?」

「残念ながらお嬢様。シーターは別件でフランスへ入れ違いに」

 二人きりだった世界が、突然大きく広がった。新たな死神との出会いに、クッキーへ伸ばす手が滞る。

 揺れるワインが無くなるまでに、ダヴィは多くを教えてくれた。ミヤビと同じ空を生きる彼は、シオンの氷をすぐに溶かしてくれた。

「そろそろ終点だ。またここからしばらく車に揺られるが、大丈夫そうか?シオン」

「今回の依頼はロンドンなんでしょ?そんなに遠いの?」

「あぁ。依頼の前に少し寄りたいところがあってね。たぶん、シオンにとってこれから多くの時間を過ごす場所だよ」

 駅に用意されていた大きな車で、三人は森を泳いでいた。ロンドン郊外のさらに外れ、大地が香るその土地は、シオンにとって初めての場所だった。

 灰色の空の下、世界から取り残されたように、その郵便局は建っていた。

「ようこそアカツキ・シオン局員。ここが空と世界をつなぐ場所。『死神郵便局』だ」

 ミヤビの上に太陽が昇る。あの日と同じように伸ばされた手を、シオンは迷わず握り返した。

 潮騒が聞こえた。郵便局の裏は、誰も知らない海辺だった。

 小波が草木を揺らし、鴎の声がこだまする。設置してある黒い郵便ポストを、シオンは不思議そうに撫でた。

「頼んでいたものは準備できているか、ダヴィ?」

「ぬかりなく。今回の仕事は私にも関係あります事ゆえ」

 二人の後に続いてシオンも郵便局に足を踏み入れる。そこは、フランスで泊まった病院のような、小さなコテージだった。

 何度か訪れた郵便局とはまるで違う。木製の机にウッドデッキ、吹き抜けの天井は、少年の憧れる秘密基地のようだ。

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