第6話 空の教会

 銃に変わって筆を持ち、火薬の代わりに墨を携える。ミヤビの心配は消えていた。

「……心配したぞバカ者が」

「シ、シオンは私を助けてくれたんです!怒るなら私も一緒に、死神さん!」

 髪をかきあげるミヤビの前に、小さなシスターが立ちはだかる。目の前で揺れる修道服、ローズマリーの耽美な香りに、シオンの鼻は連れられた。

「……まぁ、私の目を盗めたのは褒めてやろう。それに、私も悪かったな。遅れてすまない。シオンにはご褒美として、スイーツを一つ買ってやる」

「待てミヤビ。俺は三人倒した。三つ欲しい」

「言うようになったなシオン。対価を求めるのは確かに大事だ。だがな、私はお説教の分を引いて一つなんだ。わかるかね?」

「わからない。……でも、ならキスでいいや。くれ」

 無垢な顔で告げたシオン。頭を抱えるミヤビとは対照に、フリーアが首に手を回した。

「では私から。ありがとう、シオン」

 柔らかい感触がシオンの頰を伝った。彼はそっと温もりの上を撫でた。

「さて、ホテルに帰りたいところだが、残念なことに私はもう眠い。どこか静かなところで休みたい。どうだシオン?」

「俺もだミヤビ。今日は泊まっていいか、フリーア?」

 次またいつ教会が狙われるかわからない。守ると誓ったもののそばに、シオンはいたかった。

 静かだった教会は、一時だけの賑わいを取り戻した。死神が運ぶ手紙は、空を結ぶ連理の枝。想いを込めれば込めるほど、死者が筆を取るだろう。

 三日三晩、シオンは文字と言葉を覚え続けた。教えていたフリーアも、夜になれば文を認める。対極的な少年たちを、死神は優雅に紅茶を飲みながら眺めていた。

 彼女が封のされていない便箋を持ってきたのは、太陽もやる気をなくす午後二時だった。

「できました、死神さん。これが私の、父への想いの全てです」

 中身を見ることなく手紙を受け取るミヤビ。車へ戻ったかと思うと、彼女はいくつかの道具を持ってきた。

「覚えておけシオン。これが私たちの仕事の締めだ」

 一本の黄金色の蝋燭、華の押印、そしてフリーアが使った死神の切手。机の上に並べられたそれを、シオンは物珍しそうに見つめた。

「……すまないが、少し外してくれないか、フリーア。これは見られちゃいけない作業なんだ」

「わかりました。お茶を淹れてきますね」

 彼女の足音が離れたのを確認すると、ミヤビは部屋のカーテンを閉め切った。黄金の蝋燭に、橙色の火が灯される。

「私たちの仕事はルールが多い。守れるな、シオン?」

 淡い光、二人だけの世界。揺らぐ影を目で追いながら、シオンの傷痕が疼いていた。

「……何かあるのか?破ったら」

「……最悪死ぬ。すぐではないがな」

 絶句はしなかった。そんな世界で生まれた時から過ごしてきている。死者と言葉を交える者は、誰よりも彼らの近くにいる。いつだったか、四十二番が語っていた。

 鉛のような時間が流れた。やがて蝋が溶け始めると、ミヤビはそれを手紙に垂らす。湯気の上がるその上に、彼女は華の印を置いた。

 黄金の花が、死者への想いを閉じ込める。まだ熱の篭ったそれと切手を、彼女はシオンに差し出した。

「君のいた世界は確かに死が蔓延っていた。だが、それはどこも同じことだ。避けるよりか、むしろ笑って迎え入れてやれ。私たちは死神だからな」

「……俺はミヤビがいればそれでいい。死なないでよ?」

「……シオンが一人前になるまでは死ねないよ。先生だからな」

 銀の髪が揺れる。シオンは頭を撫でられるのが好きだった。ミヤビの手は暖かい。

 細く柔らかな、雪の指にキスをする。インクの香りが胸を満たしてくれた。

「どうするんだ、この手紙」

「あぁ。まだ話してなかったな。……こうするんだ」

 宛名欄のない便箋の隅に切手を貼ると、ミヤビはそれを指でなぞった。すると、手紙にいくつもの文字が浮かび上がった。

 見たことあるもの、ないもの。いくつもの国、言語の文字が白い紙を黒く染めた。二度触れると、それはシャボン玉が割れるよう宙へ散った。

 無数の文字が宙を舞う。シャボン玉のようなそれは、触れれば弾けて消えた。

「…………すごいな」

「さ、これで終わり。あとは向こうの気分次第さ」

「返事、来るかな?でも、どうやって手紙書くんだろう?ペンとかあるのかな?あっちって」

「君は面白いことを気にするんだな。まぁ、返事が来るかはわからないが、きっと想いは伝わったさ。さて、それじゃここらで、シオンに仕事のことを教えておこうか」

 一杯の紅茶を飲み干すまでに、ミヤビは十の事をシオンに教えた。世界の事、仕事の事、そして彼女の事。

 話もひと段落し、シオンのが午後の微睡みを覚えたころ。焼けたクッキーの香りとともに、フリーアが戸を叩いた。

「もういいですか?ちょうど焼けたんです。大成功です」

 ミヤビが許可を出すより早く、シオンはクッキー欲しさに扉を開けていた。熱々のダージリンには目もくれず、ジャムとバターの効いたお菓子を鷲掴む。

 弟を叱りつけるようなフリーアに、聞く耳持たずのシオン。戯れる二人の子供たちへ、ミヤビは湯気越しに微笑みを向けた。

「どうした?食べないのか、フリーア?」

 口一杯にクッキーを詰め込むシオン。それとは裏腹に、フリーアの口はずっと閉じたままだった。

 お盆をテーブルに置くと、フリーアは湯気の昇るティーカップ越しに窓を見た。

「……お仕事が終わったら、二人は行ってしまうんですね。なんだか、静かな教会が少し怖いです」

 念入りに冷ましてから、一度だけ口をつける。あちっ、と彼女は驚いた。

 いつだって、想い人は置いていく側だ。フリーアの目は、どこか空の向こうに向けられている。

 死神の仕事は世界を回る。次に会えるのは、二人がお互いを忘れた頃かもしれない。

「……ずっと、出し続けようかな。パパもママもきっと怒るけど、一人なのはもっと嫌だから……」

「……フリーア。それは君も、君のご両親も……」

 蝋燭の灯されていない廊下が怖かった。一人祈る夜は寂しかった。日に日に味のなくなった食事が虚しかった。

 想うは彼方、そこにいるだれか。今のフリーアは、ヒビの入った氷のようだった。

「手紙出すよ」

 その言葉に、彼女はカップを揺らした。駆ける波紋よりも早く、シオンはフリーアの目を見る。

「空の向こうは近いんだ。これ一枚で、どこまでだって繋がれる。だから死ぬのはダメだ。毎日は無理だけど、一月に一回は絶対出す」

 言葉は感情を紡ぎ、文字が人を繋ぐ。今の言葉は、死神じゃない。シオン自身が思ったことだ。

 半端に混じったシオンの英語が、想いが届いた。

 目頭が熱くなる。真っ黒の修道服に、小さな涙が滴った。

「俺は、ずっとフリーアと手紙を交わしたい」

 銀の髪が風に吹かれ、碧い瞳が光を帯びた。

 伽藍堂だった少年。人が縛った彼の鎖が、いくつも千切れた。その事を一番誇ったのは、何よりもミヤビだった。

 抱きしめたくなる感情を抑え、彼女は紅茶をすする。最後の一口は、砂糖がよく効いていた。

「死神が繋ぐのは、死者と生者だけじゃない。これこそが、私たちの本当の仕事だ」

 残っていた最後のクッキーを、シオンより先にミヤビが頬張った。

「さ、泣くな泣くな若人よ。返事が来るまでは私たちはここにいる。シオンの英語はまだまだだからな。頼むよ、プロフェッサー・シスター」

「任せてください。お手紙を書けるくらいにはしてみせます!」

 太陽が隠れ、月が顔を出す。何度も交わした「おはよう」が、「おやすみ」が、積み重なって想いを綴る。

 シオンはずっと学んでいた。世界のことを、言葉のことを。フリーアは教えてくれた。信じることの大切さを。だからシオンも信じた。

 空の向こうから返事が返って来たのは、シオンが日常会話をできるようになった時だった。添えられていた二枚の切手を、彼女は焼き棄てた。もういいんです。そう言って。

 手紙を読んだフリーアは、ただ一言「ありがとうございます、死神さん」とだけ告げた。

 笑顔が語る彼女の未来に、シオンは一本の花を送った。ミヤビからのお小遣いで買った、なんてことない紫の花だった。

「ホントに、出してくださいね?私からじゃ無理なんですから。どこにいるかわからないし」

「わかってる。フリーアのおかげで、英語もだいぶわかるようになった」

「君のレベルは小学校高学年ほどだ。笑われたくないなら、まだまだ頑張らないとな」

 少年の頰が膨らんだ。けれどミヤビが一番彼の成長を喜んでいる。

 まだまだ硬いが、それでもシオンは時々笑顔をこぼすようになった。食べ物以外にも興味を示すようになった。なにより、誰かと話している時のシオンの顔は、どこか晴れているようだった。

 夏も気配を忍ばせる涼しい日だった。二人の死神は、増えた荷物を車に積み込んでいた。

「……ホントに大丈夫なのか?教会を維持するのにお金がいるんだろ?」

「はい。パパからの手紙に書いてあった人に連絡を取ったら、あっさり援助をしてくれるって。これで私も、秋から学校に通えそうです」

 その言葉に満足したのか安心したのか、シオンは一枚の便箋を取り出した。

「あげる。これが最初の一通だ。お代はいらない」

 宛名の欄には、書き慣れてないフリーアの名前。差出人のシオンの名は、ミヤビに教えてもらった漢字で書いてあった。

 死神の手紙とは違って、安い紙に鉛筆で書かれたそれら。彼女はそれを、満面の笑みで受け取った。

「じゃあ、俺らがいなくなってから開いてくれ。じゃないと恥ずかしい」

 念入りに告げると、彼は車に消えてしまった。蒸されたエンジン音とともに去って行く二人を、フリーアは影を追えなくなるまで見送った。

 その日は涼しかった。だから木漏れ日の下、フリーアはバルコニーの椅子を揺らし、貰った二通の手紙を交互に見つめる。

 命を削って、空からもらった贈り物の一つ。優しさを分け合って、死神からもらった一つ。

 紙が折れた跡がいくつもあった。何度も消されていた。シオンの温もりは、空を超えてここにあった。

『色々助けてくれてありがとう。また会おう』

 大きな字で書かれた手紙を、彼女はそっと抱きしめた。

 父親からの文を読む。届いてから三日経った今でも、それが父のものだと確信があった。

 これからのこと、今までの悔い。散りばめられた愛が、注ぐ陽のように暖かい。

『お前は聡明な子だ。私は最後までこの切手を悪魔のものと使わなかったが、お前が判断したんだ。きっと間違っていない。ママも、ずっと心配だったって。

 教会を守ってくれたのはありがたいけど、あんまり無理をしないでおくれ、愛しい娘。パパとママも空から見てるから、困った時は見上げなさい。いつでも太陽はそこにある』

 誰の言葉より、千の本よりも、それはフリーアの胸に火を灯す。差し込んだ陽射しが一層強くなった。

『それにしても、最近できた憧れてる人とは誰なんだ?パパそれだけ知りたいな』

 シオンからもらった安物に、彼女は軽いキスをした。その時、空が微笑んだ気がした。

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