第5話 貰った名前

 言葉、文字、文化や常識。世界を知らない少年が覚えなければならないことは山積みだ。シオン自身も、ミヤビのために必死だった。

 その魔物は、シオンの心を蝕んでいた。

「……っ!やめろ!やめろ……っ!!」

 二人の死神はホテルにいた。車中泊よりも早くシオンが街に慣れるために。

 けれど、それは少年にとって最も恐れられること。

 街の灯は落ち、静かな裏路地で悪ガキがたむろする。話し声は少なかった。車も殆ど通っていなかった。

 額から滝の汗を流しながら、シオンが唸る。枕が千切れるほど力を込めて、少年は顔を埋めていた。

「……すまないシオン。明日はもっといいホテルにしよう……」

「どうしようミヤビ……!隣の部屋に人がいる。知らない人がいっぱいいる。でも、俺、何にも持ってない……!」

 必死に自分を隠そうと布団をかぶるシオン。ベッドの端に座ったミヤビが、そっと頭を撫でる。

 川の底でずっと残り続ける苔のように、それはシオンを逃さない。一度武器を持った人間は、心の錠前を外される。どこかでそれを無くしてしまった少年は、見つける術を知らない。

 ミヤビはずっと彼を撫で続けた。月が雲に隠れた頃、ようやくシオンが言葉を閉ざしてくれた。

 息をつこうと、彼女はロビーでミルクを飲んだ。一服終えて戻ってきたら、部屋の窓が開いていた。冷たい風が頬を過ぎる。

「……それはだめだ、シオン」

 最悪の結末が頭をよぎる。ミヤビは急いで車の鍵を取りに行った。



「俺が、俺が助けないと……」

 靄がかかる頭とは裏腹に、シオンは全速力で森を駆けていた。見慣れた鐘が映る。雑草の生えた庭に彼は出た。

 宵闇の中、少年は教会の扉を開ける。神の像には目もくれず、彼は宿舎へ向かった。

「起きろフリーア。早く逃げるぞ」

 教会の端に併設された、小さな小屋。そこが神父とシスターの寝室だった。埃一つない部屋、綺麗なベッド。使われているのは一つだけ。

 神父の机には写真が立ててあった。明かりも灯さず見たその人は、どこか彼女とよく似た笑顔をこぼしていた。

「…………え?シオン?」

「早く準備しろフリーア。ここにいちゃダメなんだ」

 重たい瞼を持ち上げながら、ゆっくり腰を起こすフリーア。ロウソクの一つも持たず、シオンが手を引っ張った。

「ど、どうしたんですシオン?何を言って……。死神さんは?」

 焦っていたのか、シオンは英語を忘れていた。

 大きな雲が月を覆う。焦燥がシオンを掻き立てた。

「アイツらが来るんだ!はやく!」

「ついていけばいいんですか?……わかりました」

 フリーアが手を握り返す。同時に彼らは走り出した。

 宿舎の窓から逃げ出そうとした時、扉が壊れる音が教会内を響き渡った。

「加減しろよ。シスターを殺すのは目覚めが悪い」

 気配は三つ。返事の声も、聞き覚えのあるもの。反射的に、二人は机の裏に隠れていた。

 シオンの手が震えだす。何も持っていない自分が、どうしようもなく恐ろしかった。

 足音が次第に近づいて来る。震えが響く。衣擦れの音が、シオンの体を弛緩させた。

 ギャング達はとなりの部屋にいた。握っていたフリーアの手が氷になる。硝子の吐息を漏らしながら、彼女は温もりを求めてきた。

「……シオン。シオン……!」

「……ここにいろ。俺が助ける」

 人を想う人になれ。ミヤビがつけてくれた名前を、少年は捨てられない。

 一つ息を整えて、彼は廊下に出た。

「……昼間のガキか。騎士のつもりか?」

 フリーアのおかげで、ほんの少しだけ言葉がわかる。聖書で読んだその言葉を、彼は迷わず口にした。

「俺は死神だ。アカツキ・シオンだ。ガキじゃない」

 震えは収まらない。けれどシオンは、目を逸らさなかった。

「……死神だと?馬鹿なことを。今ならクッキーをやる。シスターを出せ」

 男が懐に手を入れた。黒い銃身が取り出される刹那、彼の顎を全力の蹴りが掠め取った。

 世界が反転する。男の持っていたそれを手にとって、シオンは撃鉄を起こした。

 手に馴染む重さ。硝煙と金属の混じった匂い。彼の中にこべりついた記憶が、指を引き金に導いてゆく。

「……動くな。動けば殺す」

 シオンの向ける銃口が、一方のギャングの眉間に定まっていた。銀の髪が星に揺れ、死神が鎌を持った。

「……脅しはやめろクソガキ。素人じゃ当たら……」

 乾いた音の後、男が肩を抑えて蹲った。床に広がる紅が、シオンの頭を沸騰させる。

 記憶の波が逆流し、ミヤビの言葉が脳裏をよぎる。銃を撃った瞬間、あの夜の記憶が頭を駆け巡った。

 撃たれて唸るギャングよりも、シオンは逡巡していた。引き金に指をかければ止まれない。去ってゆくミヤビ、焦るフリーア。二人の顔が瞼の奥に浮かび上がる。

 一度でも人を殺せば、シオンは二度と光の下を歩めない。

 汗が滴る。息が上がる。シオンは引き金に指を添えた。

「無理だミヤビ。……俺、これしか知らないんだ」

「……クソガキが……っ!バケモノめ!」

 言葉が心を抉ってくる。喉が渇き、血管がはちきれるほど唸りを上げる。シオンは指を動かした。

 瞬間、一枚の切手が目の前を横切った。

「…………シオン……っ!」

 鳴ったのは一発だけ。神に祈りながら、フリーアは机から身を出した。

 ギャングの銃が床に落ちる。乙女を守った少年は、震えながらそれを構えていた。

 雲が晴れ、月が世界を照らし出す。死神は鎌を捨てた。

「……フリーアの教会を死で染めちゃいけない。フリーアが守ろうとしたものを、俺が守るんだ」

 ギャングの頰から紅が滴っていた。シオンの言葉で、彼の目に生気が戻る。

「二度とここに関わるな。次俺は、死神としてお前たちの前に現れる」

 シオンの拙い英語で、ギャングたちは足を引きずった。やかましいエンジン音が去って行くと同時に、シオンはその場で膝をついた。

 伽藍堂の教会。淡い月が二人を空へ連れてゆく。

 芯から震えるシオンの身体を、フリーアは思い切り抱きしめた。銀と金が混じり合い、心臓の音が溶けてゆく。

 暫くそうしていたら、森の方からエンジン音とともに汗を流した本物の死神がやってきた。

「……君の名を言ってみろ、少年」

 乱れる息を整えながら、ミヤビがシオンの目を覗く。碧い目を持つ少年は、迷うことなくそう告げた。

「シオン。俺はアカツキ・シオンだ」

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