Give for greatest priest
第4話 神に祈りを
少年が名を貰ってから一週間。シオンはもうすっかり傷を治していた。
身体が晴れれば、自ずと心の雲も散る。シオンはずっと病院にいた。だが、彼はそこでミヤビから、医者から学んでいた。
「……すごいな。学力は予想以上だ。この分なら、すぐにシオンの年代に追いつける」
「学校の勉強なんてどうでもいい。俺は死神のことについて学びたい」
チェックが並ぶ手作りテストを、シオンは興味無さげにゴミ箱へ突っ込んだ。作成者であるミヤビから少しの小言があったものの、シオンの集中は彼女の言葉に向けられる。
少年は知りたかった。ミヤビのことを。死神のことを。けれど、シオンが教えを請えば請うほど、ミヤビは首を振らなかった。
「一度学べば俺なら覚えられる。必要なことを教えてくれ」
「……君の能力はたしかに素晴らしい。だが、それは諸刃の剣なんだよシオン。人から教えられるほど、君の魂に脂肪がつく」
「……ミヤビの言っていることはよく分からない。言われたことはこなす。それが俺の仕事だろ?」
兵士に自我はいらない。十四年間、彼はずっとそう教わっていた。言われたことを完遂し、指示された方へ進む。そう生きてきた。
少しの間、ミヤビはシオンの目を見つめていた。窓から入ったぬるい風が、少年の銀の髪を揺らす。
「……荷物をまとめろシオン。もう傷もだいぶ癒えた。この病院も今日までだ」
「……わかった」
ミヤビは数学の本をダンボールに詰め込んだ。少年も倣い、部屋をかたす。わずか十五畳の病室は、あっという間に元の素っ気ない姿を取り戻した。
フランスの辺境、麦とぶどうの畑を二人は走っていた。生まれて初めて乗る乗用車、車窓を流れる金色の海。シオンは感動していた。だが、
「お、おいミヤビ!前々!どうしてまっすぐ進めないんだ!」
「うるさいシオン!私はな、ここ三年は運転していなかったんだ!急にやれという方が無茶だろう!」
「どうやって俺を病院まで連れて行った!?」
「これがレンタカーであるのを見ればわかるだろ!前のやつは売った!入院代にもならなかったがな!」
揺れているのは世界じゃない。ミヤビの運転だった。幾度となく切られる急カーブに、シオンは目を瞑るしかなかった。
だが、町に入る頃にミヤビのハンドルは安定していた。一度たりともぶつかる事なく、二人の車は止められる。
降りたそこは、町外れにある教会だった。
「最初のアレはなんだったんだ。ふざけてたのか?」
「まさか。私はね、学んだんだよ。教習所じゃ畦道の乗り方は教えてくれない。何が必要で、何を覚えなければならないか。まずはそれを考えるところからだ」
ミヤビが額を拭う。そのまま風に揺られながら、シオンは考えていた。
高鳴る心臓も鳴りやみ、小鳥がさえずる頃。シオンは紙とペンを後部座席から取り出した。
「文字を教えて。それと英語も。それが俺には必要だ」
教会裏のダンデライオンも終わりを迎える季節、兵士は初めて少年となった。
「本来なら学ぶ方法も自分で見つけて欲しいが、まぁ、歳で言えばシオンはまだセカンダリーだからな。いいだろう。君の望むものを提供するのが私の仕事だ」
そう言うと、彼女は車から一冊の本を取り出した。真っ白なそれを、シオンは空に透かす。頁をめくっても何も書かれていなかった。
「それが君の教科書だ。気になったことを聞き、書いて覚えろ。文字はまた後日だ。今は仕事を優先するぞ」
頭に伸ばされた手を、無意識にシオンは目で追った。それに気付いたのか、ミヤビはゆっくり差し伸べる。
頭を撫でられたのは初めてだった。でも、嫌じゃない。
「教会……、初めて来た」
十字を切って、彼は最初の石畳を踏んだ。
死神は堂々と教会の真ん中を歩き、背を伸ばして戸を叩く。小さな足音が近づいて来た。
「はい。どうなさいましたか」
「初めまして。私は死神だ。私を呼んだのは君かね?」
戸を開けたのは、少し大きめな修道服に身を包んだ少女だった。齢はシオンと同じくらい。穢れを知らない淡い翡翠の瞳、シオンと対極の金色の髪。あどけなさの残る顔立ちは、彫刻のように美しかった。
「……死神さん。あの噂は本当だったんですね。本当に、空へ還った人と手紙を交換できるのですか?」
「一通につき寿命一年。私が責任を持って伝えよう。死者がまだ君を想っていれば、返事は来る。それでもよければ、利用するかね?」
子供相手にも口調は変えない。死神はいつだって平等だ。だからこそ、その少女もミヤビを信じて頷いた。
「あの、後ろの子は……?」
目を見られるより早く、シオンはミヤビに隠れた。彼女の瞳は澄んだ川だ。自分と違うからよくわかる。
「あぁ、これは私の助手でね。いわば見習いだよ。君と同じだ」
「……どうして、私がまだ正式なシスターでないと?」
「神に身を捧げるシスターは、ぶかぶかの服を着ないだろう。それに、この教会から聞こえた足音は君のものだけだ。……送る相手は、ひょっとして亡くなった神父さんかい?」
シオンには二人の話すフランス語がわからなかった。けれど何となく理解できる。
手入れされているようで、よく見れば雑草の生い茂る花壇。開いた扉の向こうには、輝きを失った父の像。
かつて見た、滅びの村が蘇る。最後に残った少年は、ただ一人鍬を持っていた。数年後にはそれが引き金に変わるとも知らず。
「とりあえず中へ。聞いて欲しいお話があるのです」
招かれるまま、二人は軋む廊下を踏み進む。本当に、教会には彼女以外人がいなかった。
給仕室で出された紅茶を手に取りながら、彼女は語る。告げたい思いを。空を超えてまで届けたいものを。
「フリーア・リンケルと言います。私の父はここで神父をしていました。とは言っても、母と二人の小さなものでした。ですが、私たちはとても幸せでした。母が病気で三年前に他界し、父はあなたを探しました。以前から死神の噂は聞いていたのです」
フリーアがカップを傾ける。紅茶に映った彼女の顔は、そのずっと奥を見つめていた。
「けれど、つい最近父も病で還りました。病床で最後にくれたのが、死神の切手です。人生で一度、一番困った時に使いなさいって。でも、私はそれが今なんです。教会の維持にお金がいるんです。パパとママが遺したこの場所を、絶対に守りたいんです。でも、私じゃどうしようもなくて……」
フリーアが喋っている間、ミヤビは湯気を見つめていた。甘い菓子の誘惑に抗えないシオンの手が、何度もクッキーへと伸びる。
「……なるほど。それで、フリーアはどうしたらいいかを聞きたいと」
初めてミヤビが口をつける。ミントのいい匂いが鼻を抜けた。
「了解だ。待っていろ。車から便箋を取って来る。その間は……、シオンに言葉を教えてやってくれないか?」
「シオンくんですか。私は英語とフランス語しかできませんよ?」
「問題ない。好都合だ」
扉が閉まると同時に、沈黙が教会を支配する。
シオンが五枚目のクッキーに手を伸ばす。フリーアが紅茶のお代わりを淹れた。
「おいくつですか?シオンさんは」
「はう?クッキーのことか?五枚目だ」
「……chinco!?五歳?冗談がお上手ですね。見たところ私と同じ、十四、五ですか?」
「十四、五!!お前どんだけ食べてるんだ!ずるいぞ!俺にもくれ!」
「なんで怒ってるんですか!!ちょっ、クッキーにがっつかないでください!没収します!」
「フリーア!独り占めするのか?ずるいぞ!」
シオンが手を伸ばすと同時に、フリーアがバゲットを奪う。命のかからない追いかけっこは初めてだった。
「こらこらガキンチョども。なに面白い喧嘩をしているんだ」
便箋を持ってきたミヤビが見たのは、年相応の男女だった。強引にチョコレートクッキーを貪るシオンに、彼の頭を思い切り押すフリーア。
どこにでもある光景に、ミヤビは口元を綻ばせた。
「わかっただろ、シオン。言葉の違いは時に争いを生む。今回は可愛いものだったがね」
「……あぁ。やっぱり英語はいる。でも、今ので少しわかった」
息を切らしローブを整えるフリーア。彼女の脇にあった最後の一口を、シオンは遠慮なく頬張った。
「お前みたいなやつのことを、『がきんちょ』って言うんだ」
「今私に言いましたね!怒りました!おバカっ!シオンのおバカっ!」
依頼のことなど忘れ、二人は庭へ駆けてゆく。ステンドグラスが反射する光に揺られながら、ミヤビは午後のティータイムを楽しんだ。
街が夕焼け色に染まるころ、片隅の教会のそのまた隅、六畳ほどの応接室にペンを取る二人の男女がいた。
何度もインクをつけ、乾くまで考える。三十分かけてフリーアが綴ったのは、たったの二行の文だった。
一方で、銀髪の少年は聖書を眺めていた。文字の読めない彼にとって、文章は意味をなさない。だからミヤビが読み聞かせていた。わかる言葉で読んで、次は英語で。
物語に触れたことのないシオンにとって、それは新鮮そのものだった。朝露が残る花を嗅ぐような、雨上がりの森を歩くような。
渇いた血が温もりを帯び、頭の中が晴れてゆくのを感じていた。
「意外と難しいですね……。寿命一年と考えると筆が重いです」
「……どれだけ時間をかけてもいい。想いは筆に宿る。死者への想いが強いほど、時間がかかるのも仕方ないんだよ。実際、私に依頼してきて何年も一通の手紙を書いているやつもいるしな」
「そうなのか?ならミヤビはいつから死神やっているんだ?」
「それは言えないな。我々の仕事には禁則が多いんだよ、シオン。それも今後教えてゆこう」
ミヤビはそれ以上語らずに本を読み進める。シオンはひらすら言葉を追った。
シオンにはなぜ自分が全力で覚えようとしているかがわからなかった。ただ、はやくミヤビの力になりたいと思ったから。少年少女の思いは空へ、誰も知らないシャボン玉に包まれて飛んでゆく。
それは、シオンがトイレへ行った時だった。教会の扉を、荒い声を出した男が勢いよく叩いたのだ。
フランス語でまくしたてられたせいか、シオンは扉を開いてしまった。教会には人が来ると教えられていたから。
「誰だ。トイレなら向こうだぞ」
「あぁ?なんだこのガキ。こんなのリストにあったか?」
「知らねぇよ。必要なのはシスターのガキだ。どこにいる?」
夕暮れを背に立っていたのは、三人の男だった。全員がそろいのスーツを着て、首回りに黒い翼が舞っている。
自分よりもひと回り大きな身体。サングラスの向こうから覗く空薬莢のような目。無意識に、シオンは腰に手を伸ばしていた。
「おいフリーア!要件はわかってんだろ!!はやくでてこい!!」
立て付けの悪い扉が悲鳴をあげる。シオンの足が、目の前の男の急所を潰そうと狙いを定めた。
「彼女はわたしと商談中だ。邪魔をするなギャング風情が」
喧嘩が始まる一秒前、間に入ったのはミヤビだった。真っ黒なスーツを着た彼女は、黒い羽を持った死神に見える。
「ねえちゃんよ、悪いがこっちも仕事なんでね。うちのボスがこの土地欲しいって言ってんの。言葉わかるか?チャイニーズ」
悪意が牙を剥く。正面から這い寄る蛇のごとき不気味さが、その男にはあった。
「仕事なら順番を守れ。わたしたちが優先だ。それと、わたしはジャパニーズだ。お前たちこそ、もっと英語を学んだ方がいいぞ」
シオンの肩を掴んだまま、ミヤビが一歩前へ出た。その境界線を踏むなと、彼女の背中は告げていた。
後ろの二人と視線が合う。黒ずんだグラスの向こう側、濁った瞳の中に見たのは、教官と同じそれだった。
シオンが胸へ手を伸ばす。同時に、言葉を失うほどの不安が彼を襲った。いつもはあるはずのそれ。それだけが戦場で唯一の正解だった。
軽くなってしまった自分の身体。改めてシオンは戦慄する。今の自分は、銃の一つも持っていないのだと。
「……まぁいい。今日は帰ろう。そこのガキはどうにも煙臭ぇ」
「……いいんですか?もうあんまり日が……」
「構わん。商売敵じゃねぇっぽいからな」
ぼやく二人に何かを呟く男。二人の目が細まる。そうして、彼らは踵を返していった。
夕日の向こうへ車が消えたのを見届けると、ようやくミヤビが手を離す。とても熱かった。
「私達の仕事にはいつもああ言う連中が付いて回る。シオンが臆することは無いだろうが、殺してはいけない。なぜだかわかるか?」
「……一度殺せば、後から報復や弔い合戦があるから。それが連鎖していくから」
「シオン、敵を殺さずとも退かせる方法はある。だがさっきわたしが声をかけなければ、君はあいつをどうしていた」
「……急所を潰して、蹲った頭をそこの角にぶつけた。動かなくなったら縄で首を縛る」
そう習ったから。シオンが言う前に、ミヤビが口を塞いだ。他ならぬ彼女の口で。
せり上がって来る生暖かい唇の感触。強く抱きしめられた肌。シオンの前で、可憐な黒髪が揺らいでいた。
大丈夫。大丈夫だシオン。ミヤビが告げる。君はもう戦士じゃ無い。誰も君にそれを望まない。
ミヤビが何を言いたいかはわかる。けれどシオンには判らない。これ以外でどう解決すべきなのか。
応接室へ戻ると、フリーアが机の下で顔を青くしていた。
「すいません。わたしのせいでお二人にご迷惑を……」
「問題ない。それより、手紙はどうだ?焦らなくていいが、うまく言葉はでてきているかね?」
いつもと変わらないミヤビの声。柔らかな名残がある唇をさすりながら、シオンは本を眺めた。
その日、シオンは初めて『キス』の意味を知った。
太陽が沈み星が登る前に、二人は教会を後にしていた。晩御飯をとフリーアは誘ったが、ミヤビは既にホテルをとってあった。
帰り際、フリーアは何度も頭を下げた。ハグをした。死神相手に十字を切った。
「……また明日も行くのか?」
「あぁ。一人だと筆も捗るだろう。彼女もあらかた書くことを決めていたらしいからな」
「……さっきのアレ、いいな。ミヤビはキスがうまい」
窓の外には、疎らな光の海が広がっていた。うすぼんやりとした、もう一つの空。
「生意気だなシオン。想いを伝えるのにも方法は色々だ。手紙もキスも同じだよ。アレは死神流だ」
「あしたフリーアにもしてやろう。アレをされると、胸が熱くなる」
「……私は何も言うまい。推奨はしないがね」
ミヤビがアクセルを踏んだ。砂利道を行く振動が、ほどよい微睡みを運んでくれる。
すっかり黙ったシオンを横目に、死神は目を細める。バックミラーから後部座席に積んである、便箋の束が目に付いた。
目を瞑っていれば、シオンは歳相応の少年顔だ。きっと友達もたくさんできただろう。心優しき少年兵は、場所が違えば人を救う人になっていただろう。
ハンドルを握る手に力を込める。
「……こりゃ、まだ死ねないな」
文を持つ死神。彼女にはそれが、なんともちっぽけなものに思えてきてしまった。
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