第3話 遠くにいるあなたを想う
夢の中で少年は揺蕩っていた。無数の手紙の中、誰かが一人それを運んでいる。どこか遠くへ向かう彼女の背後を、少年は追った。
少年の手が届きそうになった時、彼女はふっと振り向いた。黒髪が揺れる。芯のある彼女の笑顔に、少年は惹きつけられた。
「……俺は……」
ぼやけた視界の向こう側は、知らない世界だった。ふかふかのベッドに肌触りのいいタオルケット。エアコンも効いていて、白い壁が反射する光が眩しいくらいだ。
少年が体を起こすと同時に、全身を電撃のような痛みが走った。巻かれた包帯の数が、少年の傷を物語る。
「お、起きたか。どうだね調子は。多少痛むくらいなら起き上がれ。今から打ち勝つ癖をつけておくんだ」
窓辺に立つ死神は、りんごを切っていた。山盛りのそれを、彼女はつまみ食いしている。
「…………生きているのか、俺は」
「契約したからな。守らねばなるまい」
「……死神でもそう思うのか」
「失礼な。それと、今度から私を死神と呼ぶな」
病み上がりの口に、死神はりんごを突っ込む。果物とは無縁だった少年は、口を開けて追加を要求した。
「ミヤビだ。アカツキ・ミヤビ。私の名だ」
「ミヤビ……。わかった。今度からそう呼ぶ」
ミヤビ。少年は繰り返す。番号以外で人を呼ぶのは久しぶりだった。
「君の名前は何だ少年。我々の仕事には常に名前がついて回る。これが資格がわりだ」
ミヤビは飽きもせずりんごを剥いていた。ここは病院なんだろうか。まだ少年はそれすらわからない。
ただ、彼がわかることはひとつだけ。
「俺は……。三十七番だ。みんなそう呼んだ」
「そうか……。わかった。だがその名は却下だ。名は魂を表す。人の心は、文字と名前に宿るのだよ。だから……そう。私が君に相応しい名を付けようか」
少年は本を読んだことがない。学校にも通ったことのない彼は、ミヤビの詩的な言い回しを半分も理解できなかった。
人の名前は想いを伝える時に必要だ。四十二番、ドイを見た彼は、それだけわかっていた。
「何かリクエストはあるか?どこの国、どんな意味。可能な限り考慮しよう」
「……この仕事に適した名前がいい。あと、できるならミヤビの国で使われるようなやつがいい」
ミヤビに救われた。ミヤビがいなければ、きっと今頃墓標もない土の下で、どこにも行けず眠っていた。
りんごを切る手を止め、ミヤビは少年に一片を差し出した。
「オーケーだ少年。必ずいい名を用意しよう。それが私の当面の仕事。君の仕事は体を癒すことだ。いいな?」
「身体なんて勝手に治る。それよりも、ミヤビの事を教えて」
少年は世界を知らない。彼にとっての空の向こうは、どこかで終わりがある円盤だった。
アカツキ・ミヤビは教えてくれた。ここがフランスの辺境、名もなき村の小さな病院だという事を。彼が二日間眠っていた事を。
少年達が舞い散った戦が、終わる気配もなく続いているという事も。
ミヤビの話を聞くたび、少年の視界は拓けていった。顔の見えなかった死神は、凛とした女の人へと変わっていった。
「さて、私は晩御飯の準備をしてくるよ。ここの病院は局員が七時には帰るからね。安いから文句は言えん」
山盛りだったりんごは、既に皿半分ほどになっている。古い木製の扉を開け、ミヤビは階段を降りていった。
いつのまにか、太陽が沈んでいた。少年は月を見上げた。世界の向こう、みんなを見下ろすようにそいつはいる。死んだ人は、あそこに飛んで行くのだろうか。
少年は夜を知らなかった。闇を見つめるだけの数時間を過ごしていた彼にとって、夜空はあまりにも輝いていた。
誰かを殴った手が痛む。何重にも巻かれた包帯がうっとおしかった。でも、ミヤビが巻いてくれた事を思えば不思議と苛立ちは消えていた。
重たい体を引きずって、少年はゆっくり玄関をくぐる。緑と夜の香りがほおを撫でてゆく。病院の前は湖だった。森だった。
「……遠いな」
空には手が届かない。あの向こうにみんな居るんだろうか。顔も知らない父や母、この世界を知らなかった少年兵たち。
少年は壁をよじ登っていた。少しでも彼方に近づけるように。
病院の屋上には、数個のベンチと花壇があった。名前も知らない紫の花。萎れることを知らないそれを、少年は見つめる。
片手だけで登ったせいだろう。やけに疲れてしまった。
灯のない夏の夜空は、溢れるほどに星がある。凪の隙間に身を置いて、揺蕩う様に少年は目を閉じた。同時に、扉が軋んだ音がした。
「……こんなところにいたのか。安静にしてろと言っただろ。まったく……」
ミヤビは小言を言いながら隣に座る。流れるような黒髪から、トマトスープのいい匂いがした。
「ねぇミヤビ、人は死んだらどこへ行くんだ?終わりなのか?」
星明かりの下、ミヤビが少し笑った気がした。
「そうだな、どこへ行くかは私も知らない。死神だなんだと言われているが、私はただ手紙を交わすだけの存在だ」
「……わからないなら、どうして人は死者を想って泣くんだ。みんなそうだった」
思い出したくもない戦場。幸せを知らない少年兵たち。けれど彼らも泣くことはできた。ただ一人、三十七番を除いて。
ミヤビは柵を越え、屋上の縁に立つ。反射的に、少年は立ち上がった。
「人は死ぬとき全てを世界において逝く。金も身体も、思い出さえも、だ。……けれど一つだけ、彼らが生者と分かつモノがある」
「……俺の父や母も、俺においていったのか?俺は何も持ってないぞ」
死者を送る者、死神は空を見上げた。見惚れるほどに美しい黒髪は、世界の夜を見ているようだった。
「愛だ」
世界中の人に宣言するように、『文を持つ死神』アカツキ・ミヤビはそう言った。
「死者が生者を想い置いていく。残されたものたちは、それを受け取り大事にしまっておくんだよ」
「どこに?」
「ここに、だ」
ミヤビが示したのは心臓だった。だが、学のない少年でもわかる。それがどこにあるのかを。
遠く、世界の果て。この空の向こう側から届けられるそれは、時間を超え、距離を超え、人を超える。
「君は人を想う人になれ、シオン」
シオン。不思議な響きの言葉。花壇の向こうで、小さな紫の花が揺れた。
「シオン……」
「君の名だ。私の国の花でな、この仕事にはぴったりの名前だよ。今日から君は、アカツキ・シオンだ」
アカツキ・シオン。名も無き少年兵は繰り返す。その名を自分のものにしようと、何度も咀嚼した。
シオンの口元は緩んでいた。安心のせいか、初めて人に何かを貰ったからか。その日、少年を凍らせていた何かが、音を立てて崩れ去った。
「さて、食事にしようかシオン。私は腹が減ったよ」
「あぁ、俺も腹が減ったミヤビ。今夜はトマトスープとリンゴのリゾットだろ?」
「……味覚はアレなのに鼻はいいな。まあいい。早く来い。私の胃袋は甘くないぞ」
シオンは笑った。想いは彼方、空をかける。ミヤビの願う人になろう。ミヤビの役に立とう。シオンの決意は、リゾットと共に身体に流し込まれた。
雅な太陽が世界を照らす。少年は生まれて初めて、世界の大きさというものを実感していた。
やがてくる終わりの事など泉の底に、二人は初めての晩餐をした。
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