第2話 二つの鍵

「ほら!だから言っただろ!来たんだよ昨日!死神が!」

 朝、サイトに陽が昇り軍人たちが点呼を取り終えた後。四十二番は興奮気味に叫んでいた。

「……マジか。いや、教官が置いてったんじゃね。昨日変な音したろ?夜中に」

「僕も目を開けてたんだけど、誰もいなかったじゃないか。やっぱり死神は誰にも見えずやって来るんだよ!」

 四十二番が手にしているのは、一組の便箋だ。封筒に差出人はなく、また宛先の欄もない。ただ、封に使われていたのはあの切手だった。

 装備の点検をしながら、三十七番は耳を傾ける。曰く、誰一人として彼女を見たものはいない。

「その手紙にはなんて書いてある。教官には知らせないのか?」

「バカ三十七番!言えるわけないだろ、パクって来たんだぞ!?」

 四十二番の顔は青ざめている。死神からのお手紙よりも、上官から届く鉄拳の方がはるかに恐ろしい。当然だ。

 だが、中身に興味があるのは彼も同じ。備品の点検が終わると、四班全員がテントに集まり、四十二番が封を切るのを待った。

 中に入っていたのは、二枚の上質紙だった。手触り、香り、押印。学のない子供たちですら価値がわかるほどに、それは美しかった。

「えっと、『一通につき寿命を一年。死者から返事が来るかはわからない。それでも良ければ、手紙を書いて枕元に置け。私が責任を持って、お前の想いを空の向こうへ届けよう』って」

「……お前、字読めたのか。つかなんだ、死者?死神様は死人と手紙を交換させんのか?」

「そうなんじゃない?字はね、昔習ったんだ。パパとママに」

 四十二番の目が空を見る。生憎今日は雲ひとつない快晴だ。想いを馳せるほど長くは見つめられない。

 少年はだんだんと、彼女の言っていたことが現実味を帯びているのを感じていた。教官が持っていた。本当に来て、誰にも見えなかった。

 どこか遠くを見つめる四十二番を尻目に、三十七番は外に出た。今日もまた銃声が聞こえる。アラームのように毎日。

 少年は思う。死人はモノ。空の向こうにはここと同じ世界が広がっていると。

「書くのか?マジで?死ぬかもしれないんだぞ」

「いいさ。どうせ明日撃たれて死ぬかもしれないんだ。パパとママに、今の僕は元気だってことを伝えなきゃ」

 テントに戻ると、四十二番が筆をとっていた。少年兵にしては珍しい、英語を書ける彼は少し大人に見えた。

 少年は、四十二番が綴るインクの羅列を眺めていた。内容はわからない。だが、彼の認める文。そこに確かに宿る感情というものが、少年には見えていた。

 その夜も、彼女は現れた。昨日と同じ時間、同じ場所に。違うのは、便箋を回収して何も置かなかったというところだけ。

 月が照らす世界の下、少年は銃を握っていた。

「何が目的だ。あいつは機密を何も知らない。あいつがスパイなら、俺がアンタを殺す」

 少年の嫌悪感に、彼女は笑って返した。

「書いてあった通り、寿命一年だ。それと、私は別にスパイじゃない。わかってるだろう?……その顔はどうした」

「あんたのせいで教官に殴られた。寝ぼけてんじゃねぇって。……本当に手紙は届くのか?」

 殴られた傷は痛くない。どうせ一週間もすれば治る。本当に痛いのは身体なんかじゃない。

 少年は今朝の四十二番の顔を思い出していた。無邪気に笑う彼は、手紙が届くと信じていた。

 ママは娼婦で、パパはマフィア。でも彼は幸せだった。家に帰ればご飯があり、硝煙の臭いさえ気にしなければ風呂にも入れる。銃声の中で眠り、血のプールを泳ぐ。

 彼は両親を、死者を想っている。

「アイツはバカだ。だけど強い。俺たちチームの士気に関わる。冗談なら、俺がアンタを殺してアイツに手紙を書く。両親のフリをして」

 少年は本気だった。文字は読めない、スペイン語しか話せないけれど。

「……心配するな。本当に私は死者に手紙を送れるのさ。返事が来るかは向こう次第だけどね」

 凛とした佇まい。覇気のある声。教官よりはるかに若い彼女の方が大人に見えた。

「やはり、君には才能がある。気が向いたら、いつでも私を呼びたまえ」

 昨日と違い、彼女はそう言い残した。

 見送る背中が闇夜に消える。それが、ここで見た最後の彼女だった。




 あれから2日経った。昨日は彼女の姿を見ていない。ベッドに潜り気絶していたからだ。

 朝露が去り、干ばつが続いた大地が悲鳴をあげる。その日は気温が四十度を超えていた。

 どんな環境、どんな場面であろうと、戦場に休みはない。常に人が死に、新しい生贄が送り込まれる。底のない腐った鍋がここだ。

 配給の膳を持って帰って来ると、四十二番とその他三人がテントに集っていた。

「……何してるんだ」

「お!三十七番!見ろよ!やったよ俺!!」

 いつにも増して機嫌のいい四十二番。昨日敵に肩を撃ち抜かれたことなど忘れたかのごとく、彼は興奮気味に手紙を突きつけてきた。

「俺は字が読めない。なんだそれ」

「死神だよ。死神が俺の手紙、パパとママに届けてくれたんだ。ホラ!返信が来てるだろ!?」

 確かに彼の突き出したそれは、あの上質紙だった。羊皮ともパルプとも取れない手触りに、優しい芳香。滲むインクの伸び加減も、いつも使っている雑紙とは全く違う。

 少年は迷っていた。本当のことを告げようか。自分は死神が見えて、持って来たのは彼女だということを。

「あぁ……。これで寿命一年は安いよ。ホラ、パパとママのサインまで入ってる。……死ぬまで離せないよ」

「……読んでみろよ。あと、俺にも英語教えてくれ」

 心に根ざした氷に、徐々にヒビが刻まれる。部隊に来て初めて、彼は四十二番の顔を見た。

『拝啓、パパとママ。天国で、二人は元気にやっていますか。僕は元気です。

 パパが言った通り、毎日たくさん食べて強くなりました。ママの言った通り、人に優しくなりました。

 戦争は嫌いですが、これが終わればお金がもらえます。パパとママの借金も返せて、お墓も買えます。それまで待っててください。

 愛してる。ドイ・マックハーン』

『あぁ、愛するドイ。またこうしてお前に想いを伝えられるとは思っていなかったわ。頼りないママでごめんね。でもママたちは、ずっとずっと、空の向こうからあなたを見守っているわ。

 寿命一年だって?バカなことはするな!お前の命を俺たちのために使うんじゃねぇ!愛してるだぁ!?んなもん書くな!恥ずかしい!んなもん当たり前だろう!』

 読み終えると、彼は俯いて鼻をすすっていた。大粒の涙が、マットレスに水溜りを作る。

「……パパだ。これ絶対パパとママだよ!間違いない!死神の噂は本当だったんだ!」

 たった一枚の紙。書かれていることは捻りのない文章。だが、彼は泣いていた。明日には人を殺し、明後日には殺されるかもしれないのに。

 たった一枚の手紙で、彼は心が溶けていた。

 その日彼は十三人の敵兵を殺した。まだ死ねない。そう言っていた。相手には、少年たちよりも歳下の子がいた。

『文を持つ死神』の噂は、水面をかける波紋のごとくサイト内に広がった。

 死神は必ず、便箋の中に切手を同封する。運が良ければ三枚、四枚なんてこともあった。少年兵の中には親がいない者も多い。そんな彼らは、散っていった友に文を書いた。

 拙い文章。数個の単語。ひどい時は絵だけというのもあった。だが、決まってみんな返事が来ると喜んだ。

「三十七番は書かないのか?」

 その夜は、いつもと同じ、少し暑い夜だった。

「あぁ。俺は両親を知らないし、別に親しい友人もいなかったからな」

 何度も聞かれた質問。少年兵たちの士気は、これで保たれているといっても過言じゃない。

 四十二番はもう三通手紙を送っていた。最新のやつじゃ、ついにママも怒ったらしい。だから彼は切手をよこして来た。

 硬い布団。肌にまとわりつく脂肪。彼女を見て以来、少年の目に映る世界は酷く歪んでいた。

 宵の月は消えていた。獣の声がどこかへ駆ける。そんな時だった。闇を見つめる少年の耳を、つんざくような轟音が通り過ぎたのは。

 悲鳴が上がる。轟々と、何かが燃える音がした。テントの外に這い出た彼が見たのは、地獄だった。

「敵襲!敵襲ぅぅー!!」

 教官が叫ぶ。言葉が続く前に、銃声がそれを遮った。

 月のない晩、全ての生き物が休む時。別の死神は鎌を持って来た。

 吐くほど大量の銃声が鳴り響く。混じって聞こえて来たのは、昨日自分が撃ち殺した兵が喚いていた言葉だった。

 三十七番が全てを理解し逃げようとした時には、もう前線は壊滅していた。千を超える敵兵の山。蹂躙されるサイト。配給を担当していた青年が、目の前で血の泡を吐いた。

「起きろ!撤退するぞ!」

「じゅ、銃がない!武器庫まで走るぞ!」

「なにしてる四十二番!はやくしろ!!」

「うるさい!手紙は死んでも持ってくんだよ!」

 テントの中に全員はいなかった。撤退する途中、トイレ近くで七十九番を見た。全身が紅蓮に染まっていた。

 喉が焼ける。肌が焦げる。轟く断末魔に、心が摩耗していった。

 腹が減った。水が欲しい。二里離れた山の中まで来て、やっとそんなセリフが聞こえてきた。

「死神の手紙に乗じてどっかのバカが漏らしやがった」

「分析はいい。付近の駐留地まで後退する。いいな、四十二番」

「う、うん」

 少年たちの目は窶れていた。寝不足に過剰なストレス。死者からの激励の手紙が無ければ、きっと今頃燃え盛るテントで全身に爆弾を巻いていた。

 彼らは生きることに必死だった。慌ててきたせいで、山の中を裸足で駆けた。頼れるのは三十七番が携帯していたブローバック式拳銃が一丁のみ。

「もうすぐ山を越える!散開してポイントδで落ち合うぞ!」

 四十二番が、珍しくリーダーぶっていた。連られて三十七番が復唱する。最後に、二十二番が大声で唱えた。

「散開ポイントδ!了かーーーー」

 終わりの言葉よりも先に、鋭い銃声が耳を抜けていた。

 拳を握った二十二番が、糸の切れた人形のように倒れこんだ。立ち止まるより先に、少年は後ろに向けて銃を撃つ。二つの悲鳴が聞こえた。

 また銃声が鳴る。今度は近く。四十二番が嗚咽を漏らし、地面を転がった。

「いだっ!脚っ!?俺の脚がっ!!」

 部品が壊れた人形はもう立てない。羽根をもがれた鳥のように、四十二番は這いずり回る。

「手紙!手紙だげばっ!!頼む三十七番!」

 真っ赤に染まった三組の便箋を、震える手で受け取った。

 満足したように、彼は眠った。思いは空の向こうへ。身体だけを置いて、彼はどこかへいってしまった。

 その日、三十七番は生まれて初めて雄叫びをあげた。弾はいらない。枝で。石で。

 気がつけば、彼は木を背にして座っていた。あれだけ重たかった手紙ももうない。全身から感覚が薄れていくのを感じていた。

 伝えたい想い。そんなのは無かった。どこへ行っても一人なのは分かっている。

 視界が揺れる。息が熱い。最後に水を飲みたいと思い、彼はポケットを探る。見つかったのは、四十二番からもらった切手だった。

 血で乾いた唇にそっと触れさせる。練り込まれたハーブの香りが心地いい。

 森は静かだった。知りもしない両親の顔を思い出す。十五番を、二十二番を、四十二番を。英雄となった名もなき少年たちを。そして、あの死神を。

「……名もなき少年兵よ。君の気高き魂は、我々死神に相応しいと私は判断した。……さて、それで商談なんだが」

 星の灯りが降る世界、鈍っていた少年の耳に、その声はやけにはっきり響いた。

「選べ。右はペンだ。私は君に幸せをやろう。明日のパン、暖かいベッド、小学校教育。君が望むなら君の幸せをやろう」

 少年は朦朧とした意識の中考えた。想うとはなにか。その答えがない自分に問うた。

「左は切手だ。私は君に、人を幸せにする力をやろう。死神の秘密を、死者の想いを、教えてやろう。右なら君は金を払え。何年後でもいい。返せる時にだ。だが、左は違う。左は今すぐ対価をもらう。……君は私に何をくれる」

 木枯らしが舞う。少年の目に、破片になった手紙が映った。

「俺の全てを、あんたにやるよ」

 彼は迷わず左をとった。死神が笑う。薄れゆく世界の端で、彼もまた笑っていた。

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