夢見るこどもたちのワルツ

羽太

夢見るこどもたちのワルツ

あまい匂いがする。

たとえていうなら砂糖のような、おとぎ話に描かれたミルクの川のほとりにたたずめばきっとそんな香りがするだろうというような、そんな匂いだった。

そんなものが自分の部屋にあっただろうか。

目を開けると染みの浮いた木の天井が見えた。四角い電灯の笠から垂れた紐がかすかに揺れている。

ちちとかすかに鳥の鳴く声がする。

黄緑のギンガムチェック柄のカーテンがなかば開いた窓辺から、しらじらとした春の陽が射している。アパートに添い生えた木々の影が、赤茶けた畳にちらちらと踊っていた。

ううむ、とうなって寝返りをうてば、そのとき手にあたたかいものが触れた。

あたたかくやわらかい、いったいこれはと目をあげれば、そこにはこどもがうずくまっていた。

「……は?」

 起きぬけのせいか裏返った声に、けれどこどもはまたたくこともない。ちいさな頭をゆらゆらとさせて、ただその場に座りこんでいる。

 きょうだいのない身のことで、こどもの年齢など見当もつかない。小学生くらいだろうか、肩までのびた髪にちいさなつくりの目鼻立ちは性別がどちらなのかもとっさにはわかりかねた。ボーダーの長袖Tシャツとカーゴパンツを身にまとっているところからして男かともおもうが、やはりよくはわからない。きまじめな顔をして正座している、膝に置かれた指が陶器めいて白くほそい。

「……どちらさまですか」

 たずねてみても、こどもからの返事はなかった。ゆらゆらと小刻みにゆれるばかりで、その目にはこちらを認めた様子もない。

 甘い匂いはどうやらこどもからするようだった。

 いったいなんなんだ、と、ひとりごちつつ布団から身を起こす。

 ゆうべは友人たちとの飲み会があった。調子に乗って杯を重ね、店を出たまでは記憶にあるが、それから二軒めにいったのかそれともそのまま家路についたのかも覚えていない。どうやら帰宅するなり寝入ってしまっていたようで、黄緑のサマーニットが皺くちゃになっている。

 まさか犬猫でもあるまいし、酔っ払ったはずみにこどもを拾ってきたはずもない。そもそも犬猫だって持ち帰ったためしもないのだけれど、と二日酔いに痛む頭をがしがしと掻く。

 何度見なおしてもこどもはただその場でゆらゆらと揺れるばかり、幻覚ではないらしく畳のうえには影が落ちている。霊感など微塵もないが、このぼろアパートには座敷わらしでも出るのかとまで考えてみたが住み着いてよりここ一年、そんな話は大家にも聞いたことはない。

 あらためてぐるりを見まわす。

 アパートと名乗るのもそろそろはばかられそうな築四十年の二階建て木造建築、五畳間の和室にはもらいもののテレビと教科書類をつっこんだカラーボックスがある。衣類は押入れにしまっているため、壁にはジャケットが二着ほどかかっているきりだった。これももらいものの座卓の上にはノートパソコン、部屋の隅にはごみ箱と季節を問わず出しっぱなしの扇風機があり、布団をのべれば狭い室内はほぼいっぱいになってしまう。

こちらが住む以前から襖ははずされているが敷居は残っていて、そのさきには台所とトイレ、大人ひとりが膝をかかえて入れるかどうかの風呂場がある。光熱費込みで家賃は四万円。当然セキュリティなど望めるべくもない。

台所の脇には玄関がある。なにげなし目をやって、宗佑(そうすけ)はわあと声をあげる。きのう自分が使っていた緑のショルダーバッグがドアに挟まり、開きっぱなしになっていた。

これか、と眉間を揉みつつ立ちあがる。こどもの侵入経路は確認できたものの、ではそもそもこの子はどこからきたのか、なぜここですわりこんでいるのかと謎はつきない。とりあえずドアを閉めよう、とまださめきらない頭で考えているところにふいと高い声がした。

「あのう、すみません」

 声はどうやらドアの向こうからするらしい。

「なんでしょうか」

 服の裾をひっぱりつつドアを開けたさきには三十くらいの女性が立っていた。腰までの黒い髪をひとつにまとめ、化粧けのない顔が愛らしい。美人の登場にちょっとどぎまぎしてから、ボーダーの長袖Tシャツがこどもとおなじであることに気がついた。

 女性はこちらを認めるとぺこりと頭をさげた。

「先日お隣に越してきた新田(にった)と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。あの、突然すみませんがうちのこどもがそちらにお邪魔してないでしょうか」

 そういえばちかごろ隣でごそごそともの音がしていた。そんなことをおもいだす。

JRの快速停車駅まで徒歩五分、近隣に大学が複数あり繁華街にもほど近いという立地によるものか、ぼろアパートとはいえ二階建て上下八室はだいたい常に埋まっている。顔ぶれも、宗佑のような大学生から単身赴任のサラリーマン、年金暮らしの高齢者や独立志向の高校生までと様々だった。宗佑の部屋は二階、外階段をあがって二軒めにある。新田はその左隣、先月卒業して郷里に戻った大学生のあとに越してきたらしい。

 切羽詰った様子の彼女に宗佑はうなずいた。

「そちらのお子さんかはわかりませんけど、あの子ですかね」

 ドアを開いて奥をさせば、新田はあわてたように駆けこんでいく。ちいさな体を抱きしめて、ほうと安堵の息をした。

 寝相そのままの布団の乱れがはずかしいが、割って入るのもなんとはなし気が引けて宗佑はその場に立っていた。ショルダーバッグを拾いあげ、靴箱脇にある壁の釘にひっかける。

 ようやくのことおちついたらしい、新田はあらためてこちらに向きなおると深々と頭をさげた。

「すみません、ご迷惑をおかけして」

「いいえ」

 新田にうながされ、こどもが立ちあがる。肩をかかえられ、ゆらゆらと揺れながら歩いていく、その目はやはりどこを見ているのかわからない。

「この子ははるかと言います。……あの、こんなですので、またご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが」

 言葉を濁しつつ、新田ははるかというこどもの頭をさげさせる。添えられた手よりも深くうつむいたはるかはその姿勢のままだらりと両手をまえに出した。

 どう言葉を返せばいいのかわからずに、宗佑は、はあとつぶやいた。

「俺は佐倉(さくら)です。よろしくお願いします」

 親子はふたたび深く頭をさげて部屋を出ていく。あたりには、甘いミルクのような匂いが長いこと残っていた。


 

デニムの尻ポケットで着信音がした。

やべ、と焦りスマートフォンをとりだす。ホール担当はバイト中携帯電話類使用禁止となっている。普段は切っていたのだがきょうは講義がなかなか終わらず遅刻しそうになったせいでついつい忘れていた。

大学近くのファミリーレストランで宗佑はバイトしている。入学してすぐに勤めはじめたから、すでに一年とすこしのキャリアがある。

火曜日の午後九時、雨もよいとあってさいわい店内に客はいなかったからレジ脇の衝立に隠れるようにして画面を見る。新田の文字があるのに、ふうとちいさく息をついた。

先日の一件以来、宗佑はなぜだかはるかになつかれるようになってしまった。

なつくといっても何をするわけでもない。ただごみ捨てや買い物のときに会うと寄ってきてぽつりぽつりとなにか話をしていくだとか、部屋のまえにぼんやりと立っているだとか、そうしたことが毎日のようにある。電話もそのひとつで、なにかあったときのためにと母親と電話番号を交換したところときおりはるかからかかってくるようになった。つながったからといってなにを話すわけでもないのだけれど、どうやら電話をかけるという行為そのものが楽しいらしい。小学校は近所の普通学級に通っているとのことで、母親の仕事が終わる五時頃まではアパートの中庭にひとりぼんやりと立っている。鍵の開け閉めはできるので雨の日は見ない。住人たちもはじめは訝しんでいたが、ひと月ほど経ったいまでは慣れたようで、一階に住む老人などときには菓子を分けたりしている。とはいうものの本人はといえば声をかけられるたびに硬直し、会話が弾むようでもない。

それがどうして俺にはなつくんだろうなと、宗佑は首をひねりながらスマートフォンの電源を切った。

ほかの住人たちとなにか違ったことをしているわけでもない。強いて言うならよそより部屋が近いというのはあるが、新田家の左隣に住むサラリーマンがはるかと話をしているところは見ない。

なんなんだろうな、とつぶやいてスマートフォンを元に戻す。と、近くにいた若松(わかまつ)がちいさく首をかしげた。

「なに? 彼女となんかあった?」

 宗佑も身の丈百七十には届かないが若松はいっそうこづくりで、愛らしい容貌も相まってまるで人形のようだった。ギャルソン風の制服がよく似合っている。ホールでの人気も高く、よく客から誘われているが本人はいたってさばけており相手にする様子もない。

 たまたま同じ大学、たまたま同じ学年、たまたま同じバイト先なだけ、とても手に届く存在ではないとは重々承知しており、そもそも相手に対して同僚に寄せる以上の好意を持っているかといえばわれながら不明ではあるものの、やはりフリーの身の上でキャンバスの花と謳われる若松に彼女がいるとはおもわれたくはない。宗佑はあわててかぶりをふった。

「彼女じゃないよ。大体そんなのいないし。そうじゃなくて近所の子がさ、なんか電話で遊ぶのが楽しいらしくて、お母さんの携帯でかけてくるんだよ」

 へえ、と若松が目をまるくする。

「気に入られてるんだ」

「なのかな、よくわかんないけど」

 広々とした店内、客席はがらんとしている。蛍光灯の光ばかりがしらじらとして明るい。ドリンクバーの製氷機がぶうんと鈍い音を立てた。

「どんな子? 何歳くらい? 電話で遊ぶっていったら幼稚園くらいかな」

「あ、いや、今年小六って聞いたけど」

 え、と若松がふしぎそうに首をかしげるのに、宗佑はあわてた。

「いや、あのさ、なんていうか、ちょっと障害? みたいなのがあって。そんで、だから電話とかもだめって言ってもあの、よくわかんない? のか知らないけど」

 なんで俺こんな弁解みたいなこと言っているんだろう、と頭の片隅でおもいつつ言葉を重ねていく。妙な居住まいの悪さといったものが胸のうちにわだかまっていく。

 そうしたこちらをどう見たものか、若松はちいさく両手をぱちぱちとした。

「すごいね」

「すごい?」

 驚いて尋ねれば、若松はすごいよとおおきく頷く。

「佐倉くんえらいねえ、わたし福祉学科だからそういう子すごく興味あるの。きっとお母さんもたいへんだろうけど、佐倉くんがそうやって面倒見てくれてたらきっと助かってるんじゃないかな」

「そうかな」

 さきほどの妙な焦りが、若松の言葉によりふいとおさまったような気がした。

「そういえばさ、まえは駅前とかあちこちうろうろしてて探しまわらなきゃいけなかったけど最近はちゃんと家にいてくれるってお母さんも言ってたな」

「ほら、いいことだよ」

若松の笑みにつられて宗佑も口元をゆるめる。ほっとしたようで、けれどどこかになにかひっかかるものがある。それが何であるのかわからずに、宗佑はちいさく首をかしげた。

 ガラス張りの外はとっぷりと暗い。ときおり前の道路を行き来する車の気配が耳をかすめた。

「お客さんこないねえ」

「そうだね」

 雨脚は強くなる一方だった。ぼんやりとふたりレジ前で待機しているところに、厨房から出てきた片山(かたやま)がおおいと声をかけてくる。

「なに油売ってんだ」

咎めるような口ぶりながら、大学も学年も入店時期も同じ身とあって気心は知れている。ラグビー部らしい筋骨隆々たる体躯は若松を狙う客への牽制に一役買っていた。しかしてその実態はといえば本人がだれにも勝る若松シンパなのだけれども、豪放なようでいて意中の女性にはシャイな性格が災いして同僚歴一年が過ぎたいまも相手には気づかれずにいる。

「盛りあがってんな、暇だからってさぼるなよ」

 ときおり訪れる本部社員の口真似をしながら近づいてきた片山に、若松が声をあげて笑う。

「あのね、佐倉くんが優しいって話」

「なんだそれ」

 若松の頭越し、気づかれないようにじろりと睨んでくる片山に宗佑は両手をあげて恭順の構えをとる。普段は気のいい男だが、すわライバルと認定した対象にはあたりがきつい。

「たいしたことないって」

「アパートのお隣の障害ある子の面倒を見てあげてるんだって。えらいよね。わたし将来福祉の仕事したいんだ。よかったらいろいろ教えてね」

 はあ、と片山がぽりぽりと頭を掻く。太い腕にホール担当の制服がはちきれんばかりになっている。

「女の子? かわいい?」

「男だよ。六年生」

「おまえ偉いな、うちの親戚の子もそれくらいだけどまあかわいくないし面倒だぞ」

 言い合っている、そこに厨房から岸本(きしもと)が走ってきた。ひとつにまとめた黒い髪がその背で揺れている。高校二年生のため、ファミレスとはいえメニューに酒類のあるホールに出すことはできないとの本部の方針により主に皿洗いや盛り付けを手伝っている。切れ長の目にほそい鼻筋と唇、小柄ですうなりとした外見にまじめな勤務態度が相まって、いかにもクールな雰囲気がある。厨房用のコックコートから、おそらくスマートフォンについているものらしい、赤い星型のフェルトに乙女上等と縫い取りされた手製のマスコットやプラスチック製の赤唐辛子、世界的に有名なねずみの国出身の青いモンスターなどがのぞいているのが愛らしかった。

「若松さん、本部から電話かかってます」

「はーい。ありがと、さよちゃん」

 若松が厨房に消えるやいなや、片山が背後から羽交い絞めにしてくる。

「おまえ若松さんにいいとこ見せようとしてんじゃねえだろうな」

「ちがう、ちがうってば」

 日々トレーニングを欠かさない逞しいその腕につかまってしまえば逃げようもない。必死に暴れる宗佑をけれどものともせずに、片山は夢見る瞳で厨房をみつめていた。

「にしてもさっすが若松さん、障害のある子にも優しいなんていいなあ、素敵だなあ」

「いいから離してくれよ」

「いやだ、離したらおまえ若松さんにアプローチしにいくだろ」

「行かねえよ、もうめんどくさいからおまえがさっさとはっきりしてこいよ」

「そんなことできるとおもってんのか」

「いばるなよ」

 ほうほうの態で片山の腕から逃れ、宗佑はふうと息をつく。と、客の来店を告げるインターフォンが店内に響き渡った。あわてて衣服を正し、レジ前に立つ。

 家族連れらしい五人客が賑やかに店内に入ってくる。

 ほっとしたような、それでいてなにか胸のうちに澱むような、思いはなぜだか晴れることなくそのままでいた。

 


 夕日が空を赤く染めている。

 長々とのびた自分の影を踏みながら、宗佑は歩いていた。

 きょうは講義が午前中にあり、バイトも休みだったから、久方ぶりに買い物にいった。駅前のモールで服や鞄の店をひやかし、こまごまとした日用品を書い足したところで両手は袋でいっぱいになった。

 がさがさと、紙袋がこすれあう音がする。ショルダーバッグが肩からずり落ちそうになるのを体をひねってとどめた。何度かそれをくりかえしたところで、面倒になって紙袋のひとつにバッグをつっこむ。ちょっと買いすぎたかな、とひとりつぶやいてみる。ふだんは節制を心がけているのだけれども、今月は春休みもあってバイト代が予想額を上回ったためすこし気が大きくなってしまった。

 道は住宅街にさしかかっていた。塾にいくところらしい中学生や、買い物袋をさげた早足の女性が通り過ぎていく。

 どこかから煮物の匂いがする。アパートには買い置きのインスタントラーメンしかないことをおもいだし、すこし顔をしかめた。荷物置いたらもう一回スーパー行こうかな、それとも諦めてラーメンにしようかななどとぼんやり考えながら歩く。

 道沿いにはちいさな公園がある。砂場と鉄棒があるきりの、とはいえこのあたりは下町でほかに遊ぶところもないせいか人気は高い。きょうも四時を過ぎたとはいえ、スモッグを着た幼児とその母親らしいふたり組が砂場にすわりこんでいた。

 公園の入り口には黄色に塗られた柵がある。そのまえに、こどもがひとり立っている。そのシルエットに見覚えがあった。ひょろりとした体がゆらゆらと揺れている。

 砂場にいた母親がふと顔をあげた。はるかの姿を認めてか目をみはり、それからあわてたように片づけをはじめる。まだ遊ぶ、というこどもの声にも耳を貸さず、ちいさな体を丸抱えするようにして去っていった。自分の立っているのとは別の出口から、親子連れが出ていくのをはるかはただながめていた。

 しろい頬に夕陽が射して、その表情は見てとれなかった。

 近づいていくとはるかはぐらりと頭をめぐらせる。

「せんせい」

初対面のころから、はるかはどうしてか宗佑のことを先生と呼ぶ。母親に聞いても理由ははっきりとせず、いくらただしても聞かないのでもういいかとそのままにしている。

 ならんでみると背はこちらとあまり変わらない。百六十センチあるかないかというところ、けれども声変わりはまだのようでソプラノといっても通りそうだった。空色のパーカーとサファリパンツといういでたちは母親の趣味だろうか。きれいにくしけずられた髪が、肩のあたりで揺れている。胸には名札が留められていた。新田はるかとフェルトペンで書かれた名前の上には校章だろう、桜の輪郭のなかに田山という文字が記されている。確かアパートの大家の孫がおなじ小学校に通っていたと、そんなことをふとおもいだす。学校の雰囲気などは知らないが、駅から遠いので遠足のときには便利が悪いだとかいう話を以前に聞いた。都会の子どもはその程度で不便をかこつのかといっそ感心した覚えがある。

「なにしてんだ」

 はるかはゆらゆらと揺れたまま、せんせいをまっていたのよ、と言った。

「俺を?」

「せんせいをまっていたのよ」

 くりかえし、はるかは紙袋に手をかける。持とうとしてくれているのだろうか、断るとすなおに手を離す。

「そりゃ、ありがとうな」

こちらの礼を聞いているのかいないのか、ゆらゆらと揺れる頭が半歩先を歩いていく。どうやらアパートに向かっているようだった。腕時計を見ると午後五時を過ぎている。ランドセルを背負っていないところからして、いちど家には帰っているらしい。

先生を待っていたのよという言葉が耳に残る。待たれるのひさしぶりだな、と、そんなことをふと考えた。郷里は遠く、講義やアルバイトが忙しいこともあって大学に入ってからというものほとんど帰っていない。あたりに漂うこどもの甘い匂いとあいまって、ふとあたたかな気もちになる。それからそんな自分が妙に気恥ずかしくなり、宗佑はごほんとおおきく咳払いをした。

いくつめかの角を曲がったところで、ふいに見知った顔があらわれる。

「若松さん」

 つい声をかけてしまってから、馴れなれしかったかとあわてる。ストーカーと間違われでもしたら困るなどと考えをめぐらせてから、さすがにこの大荷物のうえ子連れでは怪しまれることもないかと我に返る。

 ともだちだろうか、女性と連れ立った若松は驚いたように目をまるくし、それからにっこりと笑みを浮かべた。背後にあるマンションから出てきたところらしい、Tシャツにデニムといったラフな恰好で、手には長財布を持っている。宗佑の住むアパートとは比べようもないほど綺麗な建物だった。エントランスの壁面にはテレビCMでよく見る警備会社のシールが貼られている。

「こんにちは。佐倉くん、家このへんだっけ」

「あ、うん。若松さんも?」

「ううん、うちは違うけど今日はともだちの家に泊まりにきたの。ね、もしかしてこのあいだ話してたのその子?」

 問われてふりむけば、はるかはいつのまにかこちらの背にはりついていた。ちいさな頭を宗佑の腕の隙間に埋めこんでいる。こら、と肘でつついてみても微動だにしない。なにやらぶつぶつとつぶやいているようなのだけども、小声に過ぎて聞きとれなかった。

「そうなんだけど、ごめん、なんかひと見知りで」

 顔を見合わせる女子ふたりになにやら申し訳ないような気になりつつ、宗佑はなおもはるかをつつく。

「いいよ、気にしないで。かわいい子だね」

「なついているねえ。女の子みたいだし、仲いいカップルみたい」

 おもわぬことに目をまるくする宗佑に、若松が友人をたたくふりをした。

「不謹慎よ。じゃ、佐倉くんまた」

「あ、うん、また」

 コンビニにでもいくのか、歩いていくふたりの背をぼんやりとながめる。

カップル、とちいさくつぶやいてみる。その言葉を聞いたとき、胸の底がざらりとした。それは先日若松に彼女からの着信かと尋ねられたときの感覚とはまったく違うものだった。この戸惑いは小学生とはいえ男とカップルなどと決めつけられたことによるものか、それともと考えているうちふいと腕から熱が離れる。

 見れば、はるかはなにごともなかったかのようにぶらぶらと歩いている。

 そのあとを追ってゆく道すがらも、胸のうちのわだかまりは消えることなく残っていた。

「……だいたい、不謹慎ってのも、なんなんだよなあ」

 アパートに着くと、はるかはためらうこともなく外階段をあがり自分の部屋にはいっていく。

「せんせい、おれはねるね」

「おう、おやすみ」

 宗佑はといえば外階段の上がり口に足をかけたところだった。はるかが扉の向こうに消えるのを見届けてから、階段をのぼり、自分の部屋にはいる。

荷物を上がり框に放りだしたところで、隣家に電気がついていなかったことに気がついた。母親は近くの会社で事務の仕事をしているということだったが、どうやらまだ帰っていないらしい。腕時計を見れば午後五時二十分、定時が五時だとすれば帰宅はもうそろそろだろうかと考えたところで、宗佑はまた別のことにおもいいたる。

「あいつ、鍵かけたのか」

 はるかは宣言したことを忠実に行う。とすれば、いまごろは布団のなかにいるはずだった。寝る準備や着替えなどひととおりのことは自分でできるのだと母親はまえに言っていた。家でひとりでいるときは鍵をかけるようにとも躾けているようだったが、宗佑が階段をのぼり部屋に入るまでロックの音は聞こえなかった。このアパートは壁もドアも薄く、鍵はふるめかしいシリンダー錠だから、夜中ともなればたとえ一階の端の住人が帰宅した際の施錠の音ですらこちらまで届く。なのにとおもい、宗佑は顔をしかめた。どうせ母親の帰宅まで間もないのだから、そこまで面倒を見てやる義理もない。

 紙袋から品物をとりだす。いくつかを台所に、いくつかを押入れにとふりわけてから、ええいままよと靴をつっかけ外に出た。自分がこんなにお節介な人間だとは知らなかった。定時にあがった母親に所用があれば帰宅は六時を過ぎるだろうとか、そのあいだに妙な訪問販売が現れでもしたらとか、聞いたこともない神の教えを説く輩が廊下で大声を出しでもしたらとか、なかば経験に裏打ちされた妄想を抱きつつ隣のドアをノックする。案の定返事はなく、外廊下に面した窓も暗かった。

「はるかー、入るぞー」

 声をかけつつノブに手をやれば、やはり鍵はかかっておらず、あっさりと開く。

 部屋のなかは薄暗かった。宗佑の家とおなじ五畳一間、ダイニングキッチンといえば聞こえはいいが台所の少々空いたスペースに二人掛けのテーブルがあり、そこが親子の食事の場らしかった。壁に沿って一人暮らし用の冷蔵庫と電子レンジが置かれている。窓際にあるシンクは綺麗で、白い食器が隅に重ねられていた。

 奥の和室にはカーテンが引かれている。パトカーの絵がちりばめられた生地は、小学校六年生がいる家庭のものにしてはこどもっぽい。引っ越してきたときに新調したのか、汚れひとつなかった。女もののスカートと、青いリュックサックが壁の釘に吊るしてある。押入れにしまってあるのか、これといった家具はなかった。テレビどころかラジオもない。女性であれば化粧もするだろうにと考え、立ち入りすぎかと反省する。

 部屋の中央に布団が一組敷かれている。青と白のストライプ柄の掛け布団がこんもりとまるくなっていた。

「はるか、寝るなら鍵かけてからにしろよ」

 玄関先で立ったまま、そう呼びかけてみる。布団の山が動くことはなく、宗佑は顔をしかめた。声かけはしたと割り切ってしまえばいいのだと、頭ではわかっている。けれど一方では、繁華街もほど近いこの下町で、母親の不在時になにかあってはという思いをふりはらえない。

「はーるかー」

 いっそ布団をひきはがしてやろうかと靴を脱ぎかけた、そのとき背後から声がした。

「佐倉さん?」

 ふりかえればそこにははるかの母親がいた。シニョンにまとめた髪やいかにも仕事帰りといった服装は、普段ごみ捨てや回覧板を渡すときに見かけるものとは雰囲気が違い、なんとはなしどぎまぎしてしまう。

「あっ、ええと、すいませんこんばんは。はるかが鍵をかけてなかったから心配になって」

 冷や汗をかきつつ説明すれば、新田はすこし驚いたようにする。さいわい不審にはおもわれなかったようで、深々と頭をさげた。

「すみません、お手数をおかけして。いつもありがとうございます」

 不法侵入を咎められても否定できない身の上、宗佑はあわててかぶりをふる。

「いえ、そんなこちらこそ」

 じゃ、とそそくさと外に出ようとするのを、あの、と新田はひきとめる。

「もしよかったら一緒にごはん食べませんか」

 そう言いながら新田は手にしたビニール袋をかかげて見せた。

「はるかはいちど寝たら朝まで起きないんです。コロッケ買ってきたんだけど、ひとりでは食べきれなくて。ぜんぶスーパーのお惣菜ですけど、もしよかったら」

「いや、でもそんなずうずうしいこと」

「いつもお世話になってますから。もしよろしければ」

 こちらの返事も待たず、新田はテーブルにビニール袋をどさりと置いた。紺色のカーディガンの上にエプロンをつけ、なにがあったかしらと冷蔵庫を開く。辞去の機を失い、宗佑は観念し部屋にあがりこむことにした。とたん嬉しそうな笑みを向けられるのはまんざらでもない。

 勧められるままテーブルにつく。ビニールクロスのかけられた卓上に、山盛りのコロッケとキャベツの千切り、豆腐の味噌汁とごはん、柴漬けに納豆とが瞬く間に用意されていく。宗佑は感嘆の声をあげた。

「めっちゃ仕事早いですね。うまそう」

「ありあわせで申し訳ないけど」

 そう言いながら新田も席につく。星の絵がついた黄色のマグカップをさしだされ、宗佑はどうもと頭をさげた。緑茶の香りが鼻をかすめる。

「どうぞ」

「いただきます」

「ごはんは多めに炊いてるから、いくらでもお代わりしてね」

「ありがとうございます」

 これは牛肉コロッケ、これはカレーコロッケとさししめされるのにつられて箸を進める。おそらくは駅前スーパーで買ってきたものだろう、宗佑自身馴染みのはずのそれは、けれど普段ひとりで食べるのとはまた違った味がした。

 味噌汁の椀越し、電灯の消えた和室を見やる。布団の山は微動だにしない。掛け布団ははるかの全身を覆っており、こちらからは指さきひとつ見えなかった。五月もなかばを過ぎ、日が暮れてもあたりはあたたかい。暑くないのかと眺めていると、新田がぽつりと言った。

「朝までずっとああなんです」

「息苦しくないんでしょうかね」

 単純に疑問を口にすれば、新田はかすかに口の端をあげる。

「そうですね」

 朱塗りの箸がさくさくと軽い音をたててコロッケを切り分けていく。細い指がはるかによく似ていた。

 結局お相伴どころか二膳のおかわりまでしてしまい、恐縮する宗佑のまえに新田は食後の緑茶を置いた。

「すいません、皿洗い俺やります」

「なに言ってるの。お客さまにそんなことさせられません」

 食事をともにした気安さか、口ぶりはいつもより軽い。懸命にはるかのあとを追うところばかり見ていたせいか、その明るさが意外にさえおもえる。ほんとうのこのひとはこういう風なのかもしれないな、と宗佑は思い、ほんとうってなんだ、とあわててかぶりをふる。新田がはるかを大事にしていることをまるで嘘のように捉えてしまう自分がすこしいやになった。

そうしたこちらには気づかないように、新田は台所に立つ。かちゃかちゃと食器の触れ合う音、かすかな洗剤の匂いがあたりにした。

 細い背と、そこにかかる茶色のエプロンの紐をぼんやりと見る。自分以外のだれかに料理や皿洗いをしてもらうことなどそういえば久しくなかった。

「しょうじき驚いてます」

 水の音にまぎれて、新田がぽつりと言った。油断していたせいか、へ、と間抜けな声が出てしまう。ごほんとひとつ咳払いし、なんですか、と尋ねなおせば新田はくすりと笑い声を立てた。

「あの子、もともとひと見知りですけど、特におとなの男のひとが怖いんです。おおきいひとの前に出ると棒立ちになっちゃうくらいで。学校でも、いまは行ってないですけど学童でも、男の先生NGだっていう話でしたから、佐倉さんにあんなに懐いてるのすごく意外で」

 それは言外につつましい背丈や童顔について指摘されているのだろうか。新田が背を向けているのをいいことに、宗佑はつるりと顔面をなでてみる。齢はたちになんなんとするのに髭はいっこうに濃くならない。腕や足にも肉が足りないとはよく友人たちにも揶揄されるところだった。片山のようにとまではいわないものの、もう少し筋トレなどしてみるべきかと悩んでいると、こちらの様子を察したか、新田はあわてたようにふりむいた。

「違いますよ。そうじゃなくて、……わたしね、あの子を十九のときに産んだんです」

 え、と宗佑は瞬く。唐突な話題転換に頭がついていかなかった。新田はしまったという顔をして、そそくさと皿洗いに戻る。

「ごめんなさい、自分語り入っちゃった。気にしないでください」

 新田はそのまま口を閉ざそうとする。かちゃかちゃという食器の音がさきほどよりも高く耳についた。

茶を啜りつつ、宗佑は言った。

「俺、個人のプライバシーに立ち入るのは悪いかなっておもう派ですけど、一宿一飯の恩義っていうか、いや宿は借りませんけど、もし新田さんが話したいっていうか俺なんかでも話してみてもいいっていうなら、別にぜんぜん言ってもらって大丈夫です」

 つっかえつっかえ言葉を重ねるのに、新田がかすかに笑む気配がした。

「ありがとう。はるかが佐倉さんに懐くのわかります。優しいもの」

「いや別にそんなわけじゃないですけど」

「優しいですよ」

 いつのまにか片づけは済んだようだった。新田はエプロンをとり、自分の湯呑みに緑茶を注ぐとテーブルにつく。冷蔵庫からちいさな紙の箱をとりだすと、はるかには内緒ですよといってなかみをひとつつまんでくれた。ピンクと白の二層になった一口サイズのチョコレートが透明のセロファンにくるまれている。口にふくむといちごの香りがふわりとした。

「十九歳だったんです」

 そう言う声は淡々としている。十九で生んだというならいまはとおもわず計算してしまい、ばつの悪さに宗佑は首を掻く。女性の年齢を明らかにすることは無作法なのか否か、彼女もいない身ではよくわからない。

「小学校からずっと私立の女子校育ちで、兄弟もいないから身近にいる男性といったら父親くらいでした。大学はよそに出たいとおもって高校二年生のときに予備校に通いはじめて、そこで出会ったのがはるかの父親です」

ありがちでしょう、と新田は笑う。そうしながらも、その目は和室に注がれている。

「予備校の講師だったんです。十歳離れてて、優しくて、弱いひとだった。教師の家系なのに自分は公務員試験に落ちてばっかりだから肩身が狭いなんて教え子に言ったりするひとで。おかしいですよね、まだ十七だかそこらのこどもが、三十近い大人相手にこのひとはわたしが守ってあげなきゃなんておもいこんじゃって。あのひとね、わたしと付き合っていることが予備校にばれて、仕事を辞めなくちゃならなくなって、でもわたしとは別れないって言ってくれて、こどもでしたからそういうところにも感動しちゃって」

 外廊下を歩く、かつかつという靴音がした。二階奥の住人らしい、がちゃりと鍵を開ける音までもが部屋のなかに届いてくる。

「結局大学にはいかずに、高校卒業後すぐ結婚してあの子を産みました」

 湯呑みに添えられた、指がかすかに震えた。

「あの子があんな風だということで、同居していた義父に毎日責められました。うちの家系にはないことだ、全部おまえのせいだって。隣近所に聞こえるくらい大きな声で、毎日毎日。しまいにはあのひとが教員試験に受からないのもわたしと、教え子と結婚したからだって。いま塾でこどもしか受け持たせてもらえないのも信用されてないからだって。めちゃくちゃですよね。だからわたし逃げたんです。だれも引き止めませんでした。義父も、あのひとも」

 依然として和室に向けられたままの、目がいまなにを映しているのか宗佑にはわからなかった。口を挟むこともできずに、ただゆっくりと冷えていくマグカップを両手のひらで包みこむ。

「障害のあるこどもを置いて逃げだすなんて、実家の両親にも友達にも合わせる顔がなくて、誰も知り合いがいないところまで行きました。自分の身が可愛かった。もう絶対だれにも傷つけられたくなかった。何年もかかりましたけどどうにか自分の力で暮らしていけるようになって、それでやっと後悔しました。自分がこどもを見捨てたんだってこと。自分がつらくて耐えられなかった場所に、こどもをひとりで置いてきてしまったんだってこと」

 はるかはいまどんな夢を見ているのだろうか。そんなことをふと考えて、さきほど新田が言葉をとぎれさせたことにあらためて気づく。手も足も縮こまらせて布団にもぐりこむしかできなかった昔が、はるかにはあったのかもしれなかった。 

「訪ねていったらちょうど彼は再婚が決まったところでした。義父も半年まえに亡くなったそうで、渡りに船って感じだったんでしょうね。簡単に引き取ることができました」

 新田は静かに口元をあげる。それが笑みのかたちをしているのだということに、宗佑はしばらくしてから気づいた。

「わたしは義父を責められません。彼も義父のことを責められません。むしろわたしは、義父よりよっぽどひどい人間です。いまもこうやって佐倉さんに言い訳を聞いてもらうことで、あの子と向き合うのを先延ばしにしている」

はるかと関わって以来、ときおり胸に澱むものがある。ポイント稼ぎ、不謹慎、近頃聞いた言葉のいくつもがふと耳によみがえる。

はるか本人を置き去りにして、みなが勝手にはるかにまつわる物語をつくっていく。

さきほどの公園で足早に去っていった親子連れに、カップルと評されて戸惑った自分の姿が重なった。けれどそれを新田に打ち明ける勇気は持てずに、宗佑はただマグカップを握りしめる。

「あの子の環境を変えるのはよくないって学校の先生に言われて、わたしはこの街に引っ越してきました。せっかく普通学級に通わせてもらってるんだし、ありがたいことだとおもってます。仕事もみつかったし、こうして住むところもあるし、なにより親子で暮らせるようになったんだからいままでよりずっと幸せです。あのひとは結婚して遠くにいってしまったし」

 でも、と新田はちいさく呟いた。

「せっかくつかんだ幸せなのに、わたしまだあの子にどう接したらいいのかわからないんです」

 パトカー柄のカーテンは暗がりのなかぼんやりと滲んでいる。新田の口元にある笑みは去らないまま、まるでそれ以外のかたちを忘れてしまったようだった。

「あの子もたぶん、きっとそうです。だから佐倉さんがいてくださってほんとうによかった」

ありがとうございます、と新田は頭を垂れる。宗佑の返事を聞かないまま立ちあがり、湯呑みを洗いはじめる。

なにを言うこともできずに宗佑はマグカップに口をつける。緑茶はぬるく、舌を刺して苦かった。



 朝の匂いがする。

 空気は水を含んでつめたい。それでいて陽射しはちりちりとカーディガンの喉元を灼く。 

アパートはぐるりを木々に取り巻かれていた。自転車置き場はアパートの裏手にあり、年季の入ったトタン屋根はあちこち穴が開いているため、数日放っておくと車体は葉まみれになってしまう。とはいえ繁った枝が雨除けになると言いきって、大家は手入れをする気を見せない。

宗佑はショルダーバッグをななめがけにし自転車に乗った。大学は徒歩圏内だったが、きょうはすこし寝坊した。必修の講義が一講めにあるためとるものもとりあえず家を出た。

 白のクロスバイクは卒業した先輩にもらったものだった。古めかしいが買えば結構な値段になるのだと、車体にあるブランドロゴをさししめしながら恩を着せてきたことなどをぼんやりおもいだしつつペダルを漕ぐ。

 大学は駅を越えた先にある。住宅街の角を何度か曲がったところで、まえを行くひと影に気がついた。長い髪をひとまとめにした、ほっそりとしたその背に向かって声をかける。

「おはようございます」

 すれ違いざまにいい天気ですねと続けようとした、けれどその言葉は口から出ずに済んでしまった。

 こちらの挨拶に、新田はふりかえることもなくコンクリートの塀に身を寄せる。拒否をあらわすかのようにうつむいて顔をそむけさえした。

 戸惑いつつ、しかし遅刻寸前の身の悲しさでペダルを止めることもできずにその脇を通過する。ふりむきざま目にした新田の顔は気候にそぐわず暗かった。

 俺なんかしたかな、と首をひねりながらも宗佑は自転車を漕ぐ。先日夕飯に招かれて以来、隣家との関係は極めて良好だった。新田とはすれ違うたび世間話をし、学校帰りにはるかと公園で遊んだことも一度や二度ではない。それがなぜ今朝にかぎって、とふたたび首をひねったところで腕時計の針が始業間近をさしていることに気づく。出席を重視する講義のため、間に合わなければ単位が危うい。宗佑はペダルを漕ぐことに集中した。

 自転車を飛ばした甲斐あって出欠確認までにはどうにか間に合った。次の時間にも講義があったので、ひと心地ついたのは昼になってからのことだった。

 学食でメニューを選びながら、ふと朝のことをおもいだした。新田さんどうしたんだろな、と考えつつ混雑した食堂内を盆を抱えてうろうろとする。ようやく片隅に空いたスペースをみつけて陣取り、うどんを啜りはじめたところに日替わり定食とカツ丼で盆を山盛りにした片山が通りかかった。

「ここ空いてる?」

「空いてる。なんかこの曜日に会うのめずらしいな、講義?」

「倫理学概論。レポートあるっていうから、やばいなってとこ教授に質問してたら遅くなった。そっちは?」

「近代文学演習。昼からは講義ないからバイト行くわ」

「俺きょう休みだけど、俺がいないからって若松さんにちょっかい出すなよ」

「もうさ、おまえさっさと本人に言えば?」

「そんなことできるか」

 言い合いながらも互いに箸を進めていく。早々にうどんをたいらげ食後の水を飲んでいると、そういえば、と片山が丼から顔をあげた。

「おまえの面倒見てる子って新田はるかとか言う?」

「なんで知ってんだ」

 驚いて見やる、そのさき片山はすこし気まずげに目をそらした。

「いや、あんまりこのへんでそういう子の話聞いたことなかったからさ。一と一は一っていうか、単純に結びつけちまっただけで悪いごめん忘れてくれ」

 ここ一年の付き合いで、片山が思わせぶりに情報をちらつかせて楽しむタイプではないとはわかっている。なにも考えずに聞いてしまってから後悔したのだろうと察しもしたが、こちらとてはるかの名前をこんなところで出されてはいそうですかと済ませる訳にもいかない。

「いやそれはむりだろ、何だよ」

知らず語調が強くなっていたらしい、宗佑の剣幕に片山は驚いたようにする。なおも逡巡するようだったが、やがて観念したか、ゆっくりと口を開いた。

「このあいださ、俺の友達、ラグビー部の仲間が店に来ただろ。藤沢っていうの。あいつ駅前のコンビニでバイトしてんだけどさ。きのう、その、はるかって子がそこで万引きしたんだって。まあ本人も自分のやったことよくわかってないみたいだったし名札で学校となまえわかったから先生と親呼び出して厳重注意ってことで警察にも言わなかったっていうさ。やっぱりああいう子ってまわりがちゃんと見ててやんないとだめなんだろうな、親もたいへんだなって、藤沢も心配しててさ、でもやっぱり四六時中親がついてるわけにもいかないし、だからおまえ偉いなって話になって」

 早口でまくしたてたあと、片山はそれ以上聞いてくれるなと言わんばかりにさっさと丼に顔を埋めた。それでも自分の言ったことが気にかかるのか、ときどきこちらを窺うように上目遣いになるのが、大の男には似合わずおかしかった。

「俺はべつに、偉くないよ」

 宗佑はちいさくかぶりをふる。新田のうつむいた顔がふと脳裏をよぎった。

 コップの水はどちらも空になっていた。自分と片山のとを間違えないようとりあげ、足してくる、と席を立つ。

 胸の底に溜まった澱は、それからしばらく晴れることはなかった。 

 


駅前通りは賑やかだった。新装開店の携帯キャリアショップのまえで風船をもったくまの着ぐるみがおいでおいでをするのにつられてちいさなこどもたちが駆けていく。保護者たちがあわててそのあとを追う、ほほえましさに宗佑は頬をゆるめる。

道路脇にはビルやマンションが途切れることなく続いていた。全国チェーンのカフェが一階にあるマンション、縄のれんからコンセプト居酒屋までずらりと揃った五階建ての飲食店ビル、さらには学習塾、保険会社の出張所、認可外保育所や学童施設などが入った雑居ビルと、まったくもってとりとめがない。のみのみ屋といういかにも学生向けの居酒屋の看板が張り出した脇には明星塾と大きく書かれたポスターが貼られていた。『レオコース(中学進学)』、『ライブラコース(国立大学)』などという文字をぼんやりと眺めながら、最近の子はたいへんだなあとおもう。宗佑の実家はそう裕福でもないから、塾や予備校といったものにこれまで縁はなかった。どうにか大学進学は許されたものの、仕送りは頼みにならないから、週五のアルバイトで日々をしのいでいる。

だからこんなことしてる場合じゃないんだけどな、とひとりごちつつ通りを歩く。平日の二時過ぎとあってあたりには子供連れの若い女性や高齢者が多い。駅ビルの壁面には初夏のバーゲンセールという垂れ幕がかかっていた。

 駅からほどないところに目指すコンビニエンスストアはあった。

 県内ではよく見るチェーン店だった。一歩足を踏み入れると、ぴんぽんと高い音が鳴る。淡い黄色を基調とした店内には五月というのにすでに冷房がかかっている。昼どきを過ぎ、あたりに客はいなかった。

 惣菜コーナーを整理していた店員が、こちらを認めるなりおおと声をあげる。

「佐倉」

「よお」

 藤沢はこちらを見覚えていたようだった。これさいわいと近づけば、向こうも暇をもてあましていたらしい、いかにも体育会系のこわもてをほころばせる。とはいうものの弁当やサラダを整理する手をとめようとはしないのがいかにもまじめだった。片山に勝るとも劣らない体格で、店名のロゴの入ったピンクのポロシャツが窮屈そうだった。

 仕事の邪魔をしないよう、惣菜コーナーに並んで立つ。

「お勧めとかある?」

「牛肉もりもり弁当が人気ですよお客様。なに佐倉、昼食ってないの?」

「いや食べたし夜も店でまかない出るから今日はいらないけどさ、店員のお勧めは聞いときたいだろ」

「じゃあ二色そぼろ丼も覚えといて。気が向いたらうちで買って」

「わかった、ありがと。うちの近所にないからあんまり知らなかったけど、ここ、ほかのコンビニより弁当系うまそうだな」

「それ、それで俺ここにバイト決めたからな。内緒だけどうちゆるいから期限切れのやつもって帰っていいんだよ。一年ときからずっと世話になってんだ。それ部活で言っちまったもんだからいまじゃうちは店員ラグビー部だらけだよ」

「すごいなあ」

 むくつけき男たちが揃ってその可愛らしい制服を着ているのかと、想像してすこし笑ってしまう。そうしたこちらをどう見てか、藤沢はひょいと肩をすくめた。

「防犯のためにいいって店長も最初は喜んでくれたんだけどな、駅の裏に高校があるだろ。わりとやんちゃが揃ってるとこ、周(しゅう)明(めい)だっけ。知らん?」

どこかで聞き覚えのあるような気もしたが、大学進学を機に越してきた身としてはこのあたりのことはよくわからない。さあと首をかしげるにとどめておく。

「そいつらが俺ら相手に度胸試しってんで万引きしにくるんでさ。ほんと毎度しょうこりもなく、いちいち警察やら学校やらにつきだすのも面倒だけど捕まえないと本人のためにもならないしな。うち駅前からちょっと外れてるから周明の連中はお得意さまでもあるし、店に入ってきた高校生どいつもこいつも犯人扱いするのもいやなんだけど」

 万引き、という言葉に宗佑はつられて相手を見る。それと察したか、藤沢はくしゃりと顔をゆがめた。いかにも気まずげな、そのふるまいは片山とよく似ていて、なるほどこいつらは気が合うのだなとそんな関係のないことを頭の片隅でちらりとおもった。

「あー、っつか、そもそもあれだよな、おまえがうち来たのって近所の子の」

 言いよどむ藤沢に、宗佑は頷くことで返す。

きのうバイトで一緒になった片山に藤沢のシフトを尋ねたところ、部活のない火金の午後には大抵いるとのことだった。片山はどうやらはるかの話を藤沢にしてしまったことに妙な負い目を抱いているらしく、あれこれと気をまわそうとしてくるので落ち着かせるのに苦労した。はるかと遊ぶときは労働要員として呼んでくれとの申し出までしてくる始末、まったくいいやつだよなあと宗佑はこっそり苦笑する。

 そしてこっちも、と見やるそのさき、武骨な指がサンドイッチを並べなおし牛乳を入れ替えてゆく。

「なんか、悪かったな。いや、あとからさ、あんなおおごとにしなくても俺ひとりの胸先三寸っていうの? それでおさめて帰してやったらよかったなっておもったりもしたんだけど。ちょうど店に俺しかいなかったし。ああいう子だろ。たぶんあんまりなんにもわかってなかったんじゃないかとかさ。三十円くらいのチョコ菓子なんだよ。それをポケットに入れて出そうとしなかったってそんだけなんだ。いやまあ結局金払ってないんだから、だけだなんて言って済ませるのは店員としてはまずいんだけどさ。あのときは近くにいた女子高生がびびっちゃってて、それで俺もちょっとヒートアップしちゃったっていうか、そしたらまたタイミング悪く店長がちょうど出勤してきて、騒ぎになっちゃって」

 おおきな手ががりがりと首筋を掻く。自分自身に苛立ったような、その仕草もやはり片山のそれと似通っていた。

背後でぴんぽんと高い音が鳴った。いらっしゃいませーと声を張りあげ、藤沢はレジへと足を向ける。宗佑はそのあとを追った。

 店に入ってきたのは茶色のジャケットを着崩した高校生とおぼしき少年たちだった。雑誌売り場を囲むようにして、ときおりちらりちらりとこちらをうかがっている。

宗佑はコーヒーを頼んだ。レジを打ちながら、藤沢は低い声で言った。

「万引きは悪いことだよ。でも、まるきり冗談で棚を荒らして逃げてく連中とあの子をおんなじように悪者扱いするのは、いや、店員としてはしなきゃいけないんだけどさ、……なんかな」

 難しいなあ、と藤沢はこまったように笑う。太い眉がハの字になるのに、宗佑も頷いた。

「……そうだな」



 四角い電灯の笠が薄暗がりにほのめいている。天井に浮いた染みまでは闇に沈んでしまって見てとれない。時計のこちこちという音がやたらと耳につく。蛍光塗料の塗られた針がぼんやりと七時をしめしていた。安物をさらに特価品で買ったせいか、目覚し機能にはあまり信頼がおけない。それでも使ううちには愛着が湧くもので、買い換える気にはなれないでいる。

 畳のうえでごろりと寝返りを打つ。頬にささくれがあたってすこし痛かった。

 ベランダ越しに住宅街の明かりが見える。なかば開いたガラス戸、風がレースのカーテンをかすかに揺らしていた。どこかで遠くチャルメラの音がする。飲み会帰りの学生やサラリーマンをあてこんでか、このあたりには季節を問わず屋台のラーメン屋が出る。

 あの日以来、新田にはどうにも避けられている。はるかも学校への行き来のほかは外に出されることもないらしい、壁越しに気配はするものの顔を見ることもなくなった。

 きょうは朝からバイトに入っていた。店ではモーニングと土日のランチバイキングを売りにしているので、一日じゅう息つく暇もなかった。夕方を過ぎてようやく落ち着き、夜のシフトに入っている若松と片山に引継ぎをして帰ってきたのがさきほどのこと、食事をつくる気力もなくこうして畳のうえにへたばっている。

 難しいなあと言った藤沢の言葉が耳にこびりついて離れない。

 俺はどうしたらいいんだろうな、と呟いた、そのときふと鼻先をカレーの匂いがかすめた。どうやら隣家からのものらしい、拷問か、と唸りながら宗佑は窓を閉めるべく立ちあがる。冷蔵庫にはこれといってなにもない。買い置きといえば即席商品がいくつかあるきり、ゆえにこの香りが部屋に充満することだけは避けねばならない。ひもじさが際限なく肥大してしまう。

 ガラス戸に手をかけたとき、間延びした声が聞こえた。

「カレーはおいしいのよ」

 呑気なもの言いに宗佑は苦笑する。あいつ事態わかってんのかね、とひとりごちつつ窓を閉めた。さいわい夜になって気温はさがってきているから、閉めきったところでさほどの害もない。かすかに残るカレーの香りに誘われ、なんかつくるか、と台所に向かったところでくぐもった声が耳をかすめた。

「おれはせんせいがだいすきなのよ」

 安アパートなので造りは粗雑だった。はるかは声がおおきいから、壁一枚はさんでいても言葉は割合はっきりとして伝わってくる。こんなにも隣の声が聞こえるのかと宗佑はあらためてこの一年のおのれの所行に思いを馳せた。とはいえもとよりひとを部屋に招くことなどほとんどない身、セーフ、と胸のまえでちいさく両手を広げる。

親子は台所にあるテーブルで食事をしているのだろう、ぼそぼそと声は続いていく。

「おれはせんせいがだいすきなのよ。だからいつもおれはせんせいをまっているのよ。せんせいはかえってきてくれるのよ」

 ざらざらとした灰色の壁、そのさきにある、おそらくはカレーを口いっぱいに頬張りながら話しているこどもと、それをどこか遠慮がちに、それでも愛おしさに満ちてみつめているだろう母親の姿とを宗佑は思った。

 冷蔵庫を開ける。卵とハムをとりだしながら、好きなんてだれかに言われたことないな、ということにふと気づく。

 大学に入って以来、いや高校や中学校のときであっても、宗佑にはおよそ恋人というものがいたためしはない。人並みには異性の知り合いもおり、なかには休みを合わせて出かける相手もいた。ただ恋愛だとかそういったことに積極的になるのが気恥ずかしかった。そうしたものの考え方はなにも女性にかぎったことではなく、いわゆる親友という間柄の相手にも心あたりはない。家族との仲も似たようなもので、大学まで進学させてくれたことに感謝はしているものの、両親とのあいだにはいつも薄紙一枚隔てたような気おくれがある。

 自分がつまらない、情の薄い人間だといつもおもってきた。そんな人間に好意を寄せてくれる相手などいないとおもいこんでいた。そうした諦念はネットをのぞけばSNSだのなんだのに溢れかえっていて、たぶんいまどきめずらしくもない。

 だいすきなのよ、という声にふと心が軽くなる。たとえこどもの戯れ言であっても、口にされればそれなりに嬉しい。なにより他人にあけっぴろげに好意を表明できる姿勢が羨ましかった。

 それだけにいまのはるかの、そしてその母親の境遇にはつらいものがある。

「何か、できることないかな」

 隣には聞こえないようにちいさく呟く。

 流しの下からインスタントラーメンと片手鍋を取り出す。さてと鍋を火にかけたところで、ふたたびくぐもった声が耳に届いた。

「せんせいは、むかしから、やさしいのよ。あたらしくなっても、やさしいのよ」

 え、と手を止めふりかえる。カレンダーの貼られた、壁はそれきりなにを語ることもなくただ静かだった。

 


 よく晴れた日だった。

 駅前通りからすこし歩くと川にゆきあたる。大川という変哲もない名の、その岸には市民公園があった。川の流れに沿って遊歩道がつけられ、その両脇には芝生が敷かれている。川は隣の市との境界線の役割も果たしており、公園のさき、河川敷が続くかぎりにゲートボール場や野球場、サッカーグラウンドがある。

 遊歩道を車椅子の女性と介助の男性が行きすぎていく。女性のまとう更紗地のワンピースが目に涼しい。夫婦なのか、女性が口をひらくたび男性が嬉しげに顔を寄せる。歩道の脇のベンチに座り、宗佑はその光景を眺めていた。隣にははるかがいる。ミントグリーンの長袖Tシャツは丈が合っていないのかすこし裾が短い。

 すでに馴染んだ甘い匂いにまぎれて、草と水の気配が鼻先をかすめた。

 ベンチは川に背を向ける位置にある。トラックが一台、土手のうえを猛スピードで走っていった。ぶうん、とはるかが平板な声で言った。

 遊歩道と芝生のあいだで立ちつくしている幼児がいる。緊張した、きまじめな顔つきがちいさな体にそぐわない。こどものそばには若い女性が寄り添っていた。その光景を見るともなしみつめている、と、ふいと女性と目が合う。

「入れないんです」

 女性は静かにそう言った。

「土とか草とか、汚いから怖いんだそうです」

「そうですか」

 そう返すと、女性は笑み、やがてこどもの手をひいて歩いていった。

 このへんにそういう子いないもんな、という片山の言葉がふと耳によみがえる。そういう子ってなんだろなあととちいさくつぶやくと、はるかは何がなのよと大人ぶった口を聞く。

「なんだろなあ」

「せんせいはへんだなあ」

「変かね」

「せんせいはとってもへんだなあ」

 背をのけぞらせ、はるかは大声をあげる。両手をふりあげて万歳のような恰好をした。とたんベンチから転げ落ちそうになるのを宗佑はあわてて支える。なおもへんだなあと喚いているはるかの体越し、遊歩道をちかづいてくるひとの姿がふと目に映った。

「こんにちは」

 はるかを右手に抱えたまま、宗佑は相手に笑みを向ける。

岸本はこちらから数メートル離れたところでぺこりと頭をさげた。学校帰りらしい、茶色のジャケットに臙脂色のリボンタイ、格子縞のスカートといったいでたちをしている。周明高校と書かれたスクールバッグからは今日もマスコットがじゃらじゃらとのぞいていた。

 ベンチは三人掛けだった。さしまねけば、岸本は宗佑の隣に腰をおろす。

 三時を過ぎて、日はまだ高くにある。みっつの影がベンチのしたにわだかまっている。草いきれと川風が交じり合い、ぬるく肌にまつわる。

 昨日バイトの交替時間に岸本に声をかけた。明日すこし時間があるかと聞けば、岸本はなにを問うこともなくありますとだけ答えた。宗佑が指定した場所に、指定した時間きっかりに現れた岸本はこの場にはるかがいることに驚くそぶりも見せなかった。

 宗佑はちいさく息をつく。そうしてゆっくりと口を開いた。

「わざとじゃなかったんだよな」

 ほそい膝、そこに置かれた手が震えた。それに気づかないふりをして、宗佑は先を続ける。

「はるかがあのコンビニにひとりで行けるはずないんだ。あそこはラグビー部の学生がうじゃうじゃいるんだから、でかい男が苦手なはるかには鬼門でしかないはずだ。だからだれかに連れていってもらったんだろうなっておもったんだ」

 岸本はうつむいたきり、黒髪がさらりとその肩先を流れた。

「はるかのお母さんに聞いたよ。はるかの父親はつい最近まで駅前の塾の講師をしていた。明星塾だっけ。そこで高校受験コースを受け持っていた。あそこはコース名が星座にちなんでつけられてるんだってね。中学進学はレオコース、国立大学はライブラコース、そして高校受験はヴァルゴコース、乙女座だ」

 学校指定の鞄からのぞく、赤い星のマスコットをさししめす。乙女上等という縫い取りはところどころすりきれていた。よく見れば、縫い取りの下にはさよと黒いインクで書かれている。仲のいい塾生らが揃って作ったのだろう、高校二年生になっていまだにつけているところを見れば、彼女にとっての受験期がいかに楽しかったかがうかがえた。

「塾とおなじビルのなかには学童保育がある。はるかは低学年の頃からそこに預けられていた。いまは辞めてしまったそうだけどね。はるかは小学校の普通学級に通っているけど、学校の学童よりも父親の職場のそばのほうがなにかと安心だったんだろうね。仕事が終われば一緒に帰れるし、」

 それに、と続けようとして宗佑は口ごもる。咳払いをし、話の矛先を変えた。

「岸本さんははるかの父親の教え子だったんだね」

 ちいさな頭がこくりと頷く。しばらくして、かすれた声が耳にした。

「あたしだってって思ったんです」

 ほそい指が膝のうえで拳をつくる。

「あたし中一のときから明星塾行ってて、野崎先生に教わってて、先生優しかったし、はるかちゃんもよく塾のまえで先生待ってて、可愛くて、みんなで遊んであげたりしてました」

 野崎という名にはるかがふりむく。けれどなにを言うこともなく、宗佑の肩に頭を乗せる。どこか湿ったあたたかみがシャツの布越しにした。

「あたしずっと、はるかちゃんの面倒見てたんです。先生がなかなか仕事終わらなくて、うちのお母さんが迎えにくるの遅いときとか、よく一緒にお菓子食べて待ってました。……チョコとか」

 はるかがコンビニエンスストアで手にしたという商品の名を岸本はあげた。黒髪がその横顔を覆う。花に似た、シャンプーの香りがふいとした。

「障害のある子に興味があるのなんて言うだけで優しいとか素敵だとかほめてもらえるなら、あたしならもっとって、思って、それで」

 拳がほどけた。その指が髪のなかに隠れる。岸本は掌に顔をうずめ、しばらくそのままでいた。

 岸本が言葉にできずにいるものを、宗佑もまた口にすることはせずにおく。

 おそらく岸本は藤沢に好意を寄せているのだった。片山の友人としてバイト先に現れた際に見初めたものか、それとも高校の近所にあるコンビニエンスストアに通ううち恋心を抱くようになったか、それは宗佑などの知るよしもない。片山のざれごとめいた言葉を聞いた岸本は、ならば友人である藤沢もそう考えるのではないかと、はるかをコンビニエンスストアに連れていくことで自分をアピールしようとした。

「はるかちゃん、素直についてきてくれたんです。あたしのこと覚えてくれてた。小学校に迎えにいって、門のところで待ってたらさよちゃんって、はるかちゃんのほうから近づいてきてくれた。でもあたし、高校受かって塾も辞めたし、だから二年くらいはるかちゃんに会ってなくて、はるかちゃんあたしが知ってたときより体もおおきくなってて、コンビニまでは一緒にいけたけどお菓子売り場ではしゃいじゃってそしたらあたしじゃ抑えきれなくなって」

 掌に面を伏せたまま、岸本は身をかがめる。まるでこの場から消えてしまいたいとでもいうように、小柄な体がいっそうのことちぢこまる。

「藤沢が勘違いして張り切っちゃったんだね」

「店長さんが警察呼ぶとか言いだして、あたしもうどうしたらいいかわからなくなって、怖くなって逃げたんです。あたしがはるかちゃん連れていったのに。はるかちゃんのこと見捨てて逃げたんです」

 ごめんなさい、とか細い声がする。その横顔にいつか見た新田の姿が重なりそうになるのを、宗佑はかぶりをふってないものとする。それはまた別の話だった。

「あたしだってっておもったんです。あたしだって、あたしだってもっと優しいんだって。はるかちゃんにちょっと興味持ったくらいでほめてもらえるならあたしなんてもっとって」

 上擦った声が何度もおなじことをくりかえす。細い肩先が震えていた。かすかな泣き声が髪に隠された奥からする。

 いつのまにかはるかが岸本のまえに立っていた。

「わるいことをしたの」

 平板な声がそう言った。

啜り泣きが途切れて、すうと深く息を吸う気配がした。それから、はい、とちいさな応えがした。

「ひどいことをしたの」

「……うん、したの。はるかちゃんにとってもひどいことをしたの」

「おこられるの」

「うん」

 はるかは岸本の膝に手をのせた。その目はうろうろと落ち着かなげにさまよっている。

「さよちゃんはわるいことをしたの。さよちゃんはたたかれるの。さよちゃんはおゆをかけられるの」

 岸本の肩がびくりと震える。ミントグリーンのTシャツの裾からのぞくわき腹にかすかな赤い痕があった。宗佑はその腕をとり、ほそい体を引き寄せる。はるかはされるがまま、こちらの膝のあいだにすっぽりとおさまった。

 こどもの汗と熱が腕のなかにある。宗佑は目を伏せ、その体を抱きしめた。

「そんなことはされない。だれも、岸本さんも、おまえも、もう絶対だれにもされないから」

 含めるようにそう言えば、はるかはこちらと目を合わせることなくかぶりをふる。

「せんせいは、おおせんせいがおれをおこるのはおれのためだっていっていたよ。おゆをかけるのも、たたくのも、おれのためなのよ」

 新田にあらためて尋ねたところ、中学校校長だった義父ははるかに自分を大先生、父親を先生と呼ぶように躾けていたという。そばにありながら子に父とも祖父とも呼ばせない、その心は宗佑にははかりかねた。ただその事実を知ったときには腹の底が熱くなった。周囲と距離をとって生きてきた自分にもこれほどの怒りを抱くことがあるのだと、宗佑はむしろその事実に驚いた。

 はるかの父親はその暴虐を食い止めることができなかった。ただはるかを学童保育に入れ、はるかを家にひとりにしないよう努めていた。

 ベンチの足元に置いた緑色のショルダーバッグを見やる。はるかの父親はこれとおなじものを使っていたのだと新田は言った。急に母親に引き取られることとなり、環境の変化についていけずにいたはるかは日々脱走をくりかえしていた。とりわけかつて父親と過ごした思い出のある駅前通りにその足は向いた。しかし偶然家の隣でこの鞄を見かけたことで以前の生活との繋がりを得、ゆえに隣家の住人を先生と呼び、懐いた。

 哀れなような、むなしいような、名づけようのない感情に従い宗佑ははるかを抱く手に力をこめる。はるかがくるしいよと暴れて身をよじるのであわてて離した。警戒してか、はるかはふらふらと芝生まで出ていった。

 その姿を追って、岸本がゆっくりと顔をあげる。茫然とした、その目は涙に濡れていた。

「あたし知らなかった。はるかちゃんがそんなめに遭ってるなんて知らなかった。知らなかったんです。あたしいい子のふりして、なんにも知らなかった。なんにも知らないのに、かわいそうな子に親切にしてあげてるんだって得意になってた。優しくない。あたし全然優しくない。最低だ。全然気づけなかった。助けてあげられなかった。なのにはるかちゃんのこと二年も経っておもいだして利用しようとした。そんなんで好きになってもらおうとかおこがましい、最低、最低だ」

 ふたたび額が膝につくほど体を折り曲げて、岸本は言葉を重ねてゆく。どうすればいいのかわからずに、宗佑はただその肩のあたりでてのひらを泳がせた。

 と、不意に岸本が勢いよく身を起こす。反動で腕ごとはじかれ、宗佑はベンチから落っこちそうになる。そんなこちらを気にかけるでもなく、岸本は立ちあがるとそのままがばりと頭をさげた。

「ごめんなさい」

 はるかに、そうして宗佑にと空いっぱい響きわたる大声で謝罪する。なにごとかと集まる周囲の視線さえも知らぬげに、岸本はきまじめな顔つきで続けた。

「あたしみんなに謝ってきます。それでちゃんと自分のしたこと説明してきます。はるかちゃんのお母さんにも、コンビニの皆さんにも、藤沢さんにも」

 決意の固さを表すように、岸本はふんと鼻息も荒く言いはなつ。涙の跡もそのままに、決した眦が勇ましかった。腹を括った女子は強いと、そうした場合でもないのに宗佑はふとおかしくなってしまう。苦笑をおさえつつ、相手に問うてみる。

「ついていこうか」

「ありがとうございます。でもひとりで行きます。あたしが悪いんだもの。ちゃんと謝って、許してもらえなくても謝って、それから、絶対にもうこんなばかなことしません」

 ごめんなさい、とふたたびはるかに向かって頭をさげる。わかっているのかいないのか、はるかはぽかんとしてその場に立ちつくしていた。

 鞄を肩にかけ、走っていこうとする岸本の背に宗佑は声をかける。

「あのさ、藤沢のやつ彼女いないよ」

「そういうのいいですから! ひとの純粋な決意に水をささないでください!」

 間髪入れずに叱りの言葉が飛んでくるのに、宗佑は今度こそ笑ってしまう。岸本は肩をいからせ公園の出口まで進んでいくと、ふとふりかえってこちらを指さした。

「いまの嘘じゃないですよね!」

 返事のかわり片手をあげると、よしとばかりにおおきく頷いて岸本は去っていく。茶色の背が道路の向こうに消えたところで、はるかが戻ってきてベンチに腰かけた。ふわりとあまい、こどもの匂いがした。

「さよちゃんとまた遊ぶのよ」

「ああ、そうだな」

 あの様子なら岸本はきっとまたはるかの元を訪れるに違いない。そのとき岸本の目に映るのはきっと、『ああいう子』のはるかではなく、ちいさなころに遊んだ『はるかちゃん』なのだろう。

 はるかはベンチの上でカーゴパンツの足をぶらぶらとさせている。癪なことにその長さはこちらとそう変わらない。 

はるかのまわりにはたくさんの物語がある。それらははるかそのものには届くことなく、あぶくのように音もなく増えていく。興味がある、不謹慎、あんな風、そうした言葉をはるかのまわりから、この世から、一掃してしまうことはきっとできない。

 緑色のショルダーバッグをはるかは熱心に撫でている。

はるかのなかにも物語がある。その物語のなかから出てきてほしいと願うのは、宗佑のわがままなのかもしれない。『先生』へのつながりが、まだはるかには必要なのかもしれない。でもいつか、と期待することははたして愚かなことだろうか。

「おまえって何なんだろうなあ」

 つぶやけば、はるかがまじめくさった顔で問い返してくる。

「せんせいはなんなのよ」

「何だろうなあ。とりあえず先生じゃねえなあ」

「せんせいはせんせいなのよ」

「俺は宗佑だよ。そうすけさん。ほら言ってみ」

「せんせいはせんせいなのよ」

「そうすけだよ」

「せんせいはせんせいなのよ」

 延々と続くかけ合いに、宗佑はどうしたものかと腕を組む。それからちいさく息をついた。

「ま、気長にやりますか」

 空を仰ぐ。問答に飽きたのか、はるかがごろりと膝のうえに頭をのせてくる。わき腹の傷も、『先生』の膝にためらわず甘えることも、どちらもはるかの昔にはあったのだと、そんなことを考えながら宗佑はその髪を撫でる。

 指にやわらかな、すこし汗ばんだ髪がからむ。甘いこどもの匂いが顕った。

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夢見るこどもたちのワルツ 羽太 @hanecco3

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