第7章―4

 そして現在、あたしは駆けている。200メートルトラック、その乾いた地面をひたすら蹴り、二月の冷たい空気を掻きわけて。

 追いかけている。あたしの前方、何メートルも先を走る、A組のアンカー。鮫島さんの背中を。

 つまり、吉田がモモにバトンを渡す時点ではE組がトップだった。けれどモモがあたしにバトンを繋ぐときには、E組はA組にトップを奪われていたということだ。

 モモの足が遅かったわけでは決してない。ただ、古武さんが速すぎた。それだけのことなのだから、じゃあここであたしが鮫島さんを抜かせばいいじゃんって、そんなふうに軽く考えていたのだけど。


 ――鮫島さんもまた随分速いねえ。


 いざ走ってみてあたしが思うのは、そんなことだった。

 一応少しずつ距離を詰めることはできている。だけど、このままじゃトップを奪い返すのはちょっと、っていうかかなり厳しめっぽくて。アンカーまかせて、なんてモモに言った手前、せめて横並びとかそういう展開ぐらいには持ち込みたいところだけど。リレーの勝負を他人に挑むだけのことはあるね、なんて。こういう状況にもかかわらず、なんだか他人事みたいに考えてしまう自分がいる。モモに知られたら絶対に怒られるパターンだ。

 さて、どうしようか。どうしようもない気はするけど、でも、これってどうしたらいい?

 前を走る彼女の腰元で、濡れ羽色の髪がゆらりゆらりと揺れている。陽の光で時折白く煌めくそれを眺めているうちに、あたしはとうとう100メートルを走ってしまった。残り100メートル、鮫島さんはすでに最終コーナーへ差しかかろうとしていて、直線を走るあたしとの距離はまだ五メートル以上もある。

 やっぱり、うん。これはいくらなんでもどうしようもないでしょ。

 あたしの中で冷静な声が響いたのと、ぐん、と彼女の背中が近づいたような。そんな気がしたのは、ほとんど同時のことだった。

 冷気で目がしょぼしょぼしかけていたのを我慢、それから両目にぐっと力を入れる。

 すると。彼女の背中が近づいたように見えたのは、どうも錯覚とかそういう類のものじゃないらしく。

 間違いない。じわりじわりと距離を詰めている状態だったのが、ぐんぐんと距離を詰めている状態へとレベルアップしている。

 どうして? あたしがいきなり速くなったとか――ううん、違うね。普通に考えれば、そんなことはありえない。だから考えられるのは、鮫島さんのスピードが落ちたってこと。スタミナ切れとか、足を痛めたとか、考えられるのはその辺りだけど――

 あれ? ねえ、ちょっと待って。

 いよいよあたしも最終コーナーに差しかかり、鮫島さんとの距離はさらに縮まっていて。そんなとき、鮫島さんの姿に加えてもうひとつ。視界に映り込んだ姿があった。

 最終コーナーを走りきったら、あとはもう直線を走ってゴールテープを切るだけだ。そしてその、最終コーナーと直線のちょうど境目辺り。そこにオレンジ色のもふもふとした何かが、ごろーんと。うん。寝そべっている。

 鮫島さんのスピードが落ちたのは、きっとそのせい。前方に寝そべるもふもふに――というかナゴに気を取られて、意識的か無意識か、その辺りはわからないけど、とにかくスピードを落としてしまったのだ。

 いい仕事するじゃん、ナゴ。あとで思いっきり喉をかりかりしてあげなきゃね。――と、あたしが思ったのも束の間。

 のっそりとナゴが起き上がる。そして宝石みたいなグリーンの瞳をまずは鮫島さんに、次にあたしへ向けると、ゆらりと尻尾を動かして、それからトラックを走り出す。

 少し走ってはちらとこちらを振り返り、また少し走ってはこっちを見る。まるであたしと鮫島さんがちゃんと自分についてきているかを確認するみたいな、そんな仕草。


 なんだろう。

 ナゴ、おまえは一体何がしたいの?


 気がつけば、あたしはもう鮫島さんの横に並んでいた。

 鮫島さんが息を呑む音。それからスピードを上げようと地面をより強く蹴る音が聞こえてきて、あたしの方はもうかなり足が重たくなっているのだけど、そんなことも言ってられなくて。ただひたすら、がむしゃらにあたしも腕を振り、足を動かす。

 コーナーを、抜けた。あとはもう直線。ゴールまで何メートルかは……ああ、わかんないや。

 とにかく鮫島さんに負けないように。そして、ナゴのあとを追って。

 走って。走って、走って、走って。

 ナゴがまた、振り返る。あたしたちを見て、グリーンの瞳を糸みたいに細める。

 その仕草に、あたしはふと思う。


『おまえたち、そのままおれについてくるんだぞ』


 もしかしたら、ナゴはそんなことを言ってるんじゃないかって。

 もしもさ、本当にナゴがそう言っているのだとしたら。それってとっても面白いよねって、あたしはそんなことを思うわけだ。

 あたしたちをどこに連れていくつもりなのか。そういうの、あたしはすごく興味があるよ。知りたくて知りたくてたまらない。

 だからついていこうと決めた。

 ゴールテープはもうすでに用意されている。

 けれど、それを切っても止まらずに、そのまま走ってさ。

 ナゴが向かう先に行くの。あたしは。あたしたちは。

 もうすぐリレーが終わっちゃう?

 あっは、そんなことはわかってるよ。

 でもね。わかってるんだけどさ。


 ――あたしはまだ、あたしたちのリレーを終わらせるつもりなんてないんだよ。


 ぐっ、と歯を食いしばって。

 腕を大きく振る。

 重たくなってしまった足を、それでもとにかく前へ運んで。

 そうして少しだけ。ほんの少しだけ、鮫島さんよりも前に出る。

 顔を左に向ける。

 鮫島さんの顔を見る。

 悔しそうな顔。

 でもそれ以上に、苦しそうな顔。

 走りながら、あたしは手を伸ばした。

 バトンを持っていない左手を、これでもかってぐらい伸ばして。

 ぎゅっとつかんだ。強く握った。鮫島さんの、右手。

 鮫島さんが両の瞳を見開いた。

 濡れた黒の瞳。

 揺れる、黒の瞳。

 そしてあたしは前を向く。

 駆ける。駆ける。駆ける。駆ける。

 そうして風も、ゴールテープさえも切ってしまって。

 それでもまだ、あたしは止まらない。

 決して止まったりなんかせずに、まだまだグラウンドを突っ走る。


「ちょっと!」


 ほとんど叫ぶように、鮫島さんが言葉を発した。


「あなた、……一体、どこへ行くつもり!?」


 びゅうびゅうと、耳元で風がうるさい。

 だから風の音に負けないように、鮫島さんに聞こえるように、


「ナゴについていくの!」


 そう、あたしは吼える。


「ナゴに、ついていくって……あなたねえ! ちょっと待って、このままだと――」

「しっかり握ってて、あたしの手! 今から応援席に突っ込むよ!」

「あなた、本気!?」

「本気に決まってる!」


 そう、本気だ。あたしは本気だよ。

 だってナゴが来校者用の応援スペースに飛び込んでいったんだ。

 だったらあたしたちも迷わずそこに飛び込まなきゃ、ナゴのことを見失ってしまう。


「おい、猫の次は生徒が突っ込んでくるぞ!」


 ブルーシートを敷いた応援スペースに、大人が、子供が、すでに立ち尽くしている。

 ナゴが勢いよく突っ込んだあとだったから、ナゴが通ったあとにはとりあえず人が通れるほどのスペースができていた。


「全員、そのまま動くなああああ――――っ!!」

「う……うわあああっ!」


 叫びながら、空いたスペースに飛び込んだ。

 ガサリガサリと音を立て、土足でブルーシートを踏みつけて。

 棒立ちになった人たちを横目に、あたしは鮫島さんの手を引いてそこを突っ切っていく。


「あなた、……はあっ、……っ、バカじゃないの!?」


 息を切らしながら、途切れ途切れに鮫島さんが零す。

 それに言葉を返そうとして、だけど不意に視界に飛び込んできた人の姿が、あたしの喉元まで出かかっていた言葉をせき止めた。

 あの人だ。あの人がいる。

 女の人。あの、おじさまの――鮫島さんの、お父さんの隣に。

 他の人たちと同じように棒立ちになって、あたしたちを見ている。

 鮫島さんが呻くように小さく声を洩らした。

 女の人の姿を、自分の母親の姿を、きっと鮫島さんも見つけたのだ。

 咄嗟に鮫島さんの手を握りなおす。

 ぎゅっと握って、それから鮫島さんの母親を、思いっきり睨めつける。

 そうしたら、その人が眉根を寄せてめちゃくちゃ不快そうな表情をつくるものだから。

 それに対抗するように。嫌いなヤツに子供がしてみせるように。

 あたしは歯をすべて剥き出して、それからその人に『いーっ』て顔をしてやった。

 するとキツめの化粧をしているにもかかわらず、その人の顔がみるみる真っ赤に染まっていく。

 怒っているのか。それとも大勢の人の前でターゲットにされたことが恥ずかしかったのか。

 まあ、どっちにしてもあたしにはどうでもいいことだけど。

 そうだ、最後にひとつだけ。あんたに言っておきたいことがあるんだ。


「渡さないよ!」


 ひゅ、と息を吸い込んで。

 それからあたしはその場にいる全員の耳に届くぐらい大きな声で、


「あんたなんかに、絶対絶対ぜぇーったい! 鮫島さんを、渡してやるもんか!」


 宣言してやった。

 怒りの方が強いかな。ぷるぷると身体を震わせているその人と、驚いたような顔をしたおじさまのすぐ横を駆け抜けて、あたしと鮫島さんはついに応援スペースを抜ける。

 視界がぱっと開けて。

 さあ、ナゴは今どこに――


「あはっ、……マジ?」


 いた。見つけた。

 あそこだ。校舎とグラウンドの境にあるコンクリートの階段を、オレンジ色のもふもふが猛スピードで駆けのぼっていく。つまり、ナゴが向かう先は校舎か。

 この階段を今のぼるのは正直言ってキツすぎるけれど、でも、そうも言っていられない。


「このまま行くよ!」


 あたしがそう叫んだら、ちょっとだけ。本当にちょっとだけ、鮫島さんがあたしの手を握り返してきたような。そんな気がしなくもなかったけれど、もうあたしには余裕なんてちっともなくて、とにかくナゴの姿を見失うまいと必死に階段をのぼり始めるのだった。

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