第7章―3


     ◇◇◇


 先刻よりも寒さが和らいだような気がするのは、風がほとんど止んだからか。それとも空に青が広がり、陽の光が差し始めたからか。

 正午前、にゃか女のグラウンドでは体育祭〈午前の部〉のメイン種目、学年別4×200メートルリレーが始まろうとしていた。メインというだけあって、グラウンドはこれまで以上の熱気と歓声に包まれている。ああ、寒さが和らいだ理由にはこの熱気も含まれているのかもしれないね。


「今から自分も走るっていうのに、他人事みたいな顔してるな」


 グラウンドの校舎側――朝礼台や来校者用の応援スペースがある――に引かれたスタートラインに並ぶ六人の第一走者。一年A組からF組のその子たちを、グラウンドのトラック内側から体育座りで眺めていたら、モモに声をかけられた。

 リレーの前に髪とハチマキを直したモモは気合い充分、さっきぐじゅぐじゅな顔をして泣いていたのが嘘だったみたいに晴れやかな顔をしている。けれど、あたしはそんなモモに肩を竦めてみせることしかできなかった。

 さっきモモの涙を見たばかりなのだ。だから、あたしだってできることなら幼馴染に再び暗い顔をさせたくはないし、気を遣わせたくもないけれど。視界の端にちらちらと映り込んでくる、あの子――一年A組の鮫島雫にどうしたって意識が向いて。リレーが終わったら、そうしたらもう、鮫島さんとは終わり。そう考えたら自分が今から走るだとか、そんなことはもうどうでもよくて。それこそモモが言ったように、他人事みたいなものだったのだ。

 一瞬、光みたいなものは見えたんだけどね。あたしでも鮫島さんの傷を治すことができるのかもってさ。そう思ったけど、そうだ、もうなにをどうしたって鮫島さんは家族と暮らすって決めたんだから。それはもう変わらないんだから、だったらあたしにできることなんて何もないじゃないか。なぁんにも。


 ――ちくり。胸が、痛む。


 奥だ。胸の奥が、痛かった。

 行かせたくない。どうしようもないことだってわかっているのに、だけどそれでも、あたしは鮫島さんをあの母親のもとへ行かせたくなくて、その思いは強まる一方で。鮫島さんを諦めることができれば、胸の奥が痛むのだっていくらかマシになるのだろう。わかってはいるけれど、感情が全然いうことを聞いてくれない。鮫島さんを諦めることが、どうしてもできそうにない。

 そのうちスターターがピストルを高々と掲げ、スタートラインに並ぶ六人の第一走者がスタンディングスタートの構えをとった。あれほど沸いていたグラウンドは、水を打ったように静まり返り。


 ――始まる。始まってしまう。


 自分のジャージの胸元をぐっとつかんだのは、ほとんど無意識だった。

 どっ、どっ、と己の手の下で、胸の奥で、心臓が強く速く鼓動している。

 ああ。止まらない時間を、過ぎ行く時を、こんなにも、こんなにももどかしく思ったことが、今までにどれぐらいあっただろうか。

 思考する時間は無に等しくて。

 青が広がる空のもと。

 ピストルの音が。終わりの始まりを告げる音が。


 ――グラウンドに、今、高らかに響く。


 第一走者の六人が、一斉に地を蹴り走り出す。

 わあわあという地鳴りのような歓声が、疾走する六人を瞬く間に包み込んでいく。

 ぼんやりと、あたしはその光景を眺めている。ぼうっと、あたしはその歓声を聞いている。

 自分の胸元をつかんでいた手は、いつの間にかだらりと垂れていた。

 どうしてだろう。まるで、一切の感情が抜け落ちてしまったみたいな。

 なんだかすべてがどうでもよく思えてしまう。

 さっきまであんなにも感情を持て余してたっていうのにね。

 ピストルが、あの音が、あたしの感情を全部殺してしまったのかな。

 ふっ、と空を仰いだ。両の瞳は閉じた。

 瞼の裏は黒一色で、当たり前だけど空の青なんてちっとも見えやしない。

 なんだか自分の心の中を覗いているみたいだ。

 なんにもないの。そう、なんにも。

 今のあたしの、からっぽの心。

 ああ、ほら、ねえ。

 誰にも見えないに決まっているけど、あたしにはそんなふうに見えてくる。

 でも、だ。

 なんだろう。なんだろうね。

 こんなにも黒く暗いのに、あたしはこれよりも黒くて深い色をどこかで見たことがあるんだ。

 どこだったかな。ねえ、どこだった?

 黒。どこまでもどこまでも深く黒く、たとえるなら、そう。


 ――それは、冬の夜空のような。


 ゆっくりと、瞳を開いた。

 そうしたら、まず目に飛び込んできたのは第一走者が次々と第二走者にバトンを繋ぐ場面で。

 違う、そうじゃない。そうじゃなくて、今、あたしが見たいのはさ。あの子――


「おい、更紗?」


 モモがあたしの名前を呼ぶけれど、それに反応することなく、あたしは立ち上がり歩き始める。

 そうして目指す先は。視線の先にいるのは。冬の夜空みたいな瞳を持った、あの子。


「――鮫島さん」


 あたしの口から彼女の名前が零れていた。

 だけど彼女は、鮫島さんは。地面に腰を下ろしたまま、黙ってあたしを見上げている。嘘みたいに綺麗な、澄んだ黒い瞳で。

 もっと。もっと近くで、その黒を見たい。

 地面に片膝をつく。そうして鮫島さんに目線を合わせて、あたしは黒を覗き込む。すると黒の中に、あたしの顔が映り込んでいた。なんだか笑ってしまいたくなるぐらい、ひどくマジメな顔だった。

 けれどあたしは笑わない。マジメな顔をしたままで、そっと右手を彼女に伸ばす。

 指先が、彼女の左腕に触れそうになる。触れたらそのままつかんでしまって、あたしの方に引き寄せてしまいたい。それでね。引き寄せたら、もっと近くで濡れた黒を見たいんだ。

 鮫島さんの瞳に映るあたしの顔が、そのとき、ほんの少しだけ揺れたような。そんな気が、した。

 だからあたしは動きを止める。歯車が動かなくなったからくり人形のように、瞬きさえもできなくなって。ただ、静かに呼吸を繰り返しながら、鮫島さんの瞳を見つめている。

 そのうち、大地を揺らさんばかりだったわあわあという歓声が、なぜだか遠くなっていった。

 両手で耳を塞いだみたいに、ううん、それよりもっとずっと、すべての音が遠い。それはもう限りなくに近くて、なのに自分の心臓の音だけが、やけにうるさく聞こえてくる。

 予感、していたのだろうか。鮫島さんの桜色の唇から、零れ落ちる言葉を。あたしは。


「そこにあなたが触れないで」


 刹那、あたしの喉が鳴った。

 ぱっと手を引っ込める。


 ――そこにあなたが触れないで。


 ごちゃごちゃと思考がこんがらがった頭の中で、あたしは何度も鮫島さんの言葉を反芻する。

 そこに、あなたが触れないで。

 そこに、あなたが。

 あたしはどこに、触れようとしていた?

 それは確か、腕だった。腕。左腕。左腕の、肩に限りなく近いところ。

 ううん、違う。そういうことじゃない。

 左腕のさ。じゃあ、何に触れようとしていた?

 鮫島さんがあたしに触れてほしくなくて、あたしは決して触れちゃいけない何か――

 両の瞳を見開いて、それからあたしは息を詰める。

 ああ、そっか。そうだ、って。気づいたのだ。

 鮫島さんの左腕、肩に程近い部分。思い出した。そこは前に屋上で、鮫島さんが噛んでいたところ。ちょうど傷が存在するのであろうその部分に、あたしは触れようとしていたのだ。

 意識していたわけじゃない。とはいえ、それは言い訳に他ならなくて、絶対に触れてはいけない部分だというのに、あたしはまた鮫島さんの傷に爪を立てるつもりだったのか。外側の傷に、ではない。内側の、心の傷にだ。

 瞬間。じぃんと頭の中が、奥が、痺れていくような。そんな感覚があって。

 直後。あたしの胸の真ん中で、どっ、どっ、と力強く音を立てるのは心臓だった。

 どうしてかはわからない。けれど、あたしはこのうえなく高揚しているらしかった。

 体内を駆け巡る血が、まるで沸騰でもしているかのように、身体が熱い。とても熱くて。

 だけどそれが嫌じゃない。それどころか、心地好いとすら思えてしまう。

 どうして? ねえ、どうしてあたしは、鮫島さんを傷つけてしまうかもしれなかったのに、こんなにも弾むような気持ちでいるの?

 そう、自問したときだった。モモの声が、あたしの頭上から降ってきたのは。


「更紗!」


 ぐん、と。それが合図だったみたいに、あたしの世界にすべての音が戻ってくる。

 歓声が、先刻よりも大きくなっている気がした。


「リレー。そういえば今、どうなってる?」


 あたしのすぐ横に立つモモを、片膝をついたままの姿勢で見上げながら尋ねると、


「吉田がもうすぐトラック一周して戻ってくる! 次は第三走者! わたし! わたしが走ったら次は更紗だ! いいか、おまえアンカーだぞ? わかってんのかよ、こんにゃろう!」


 捲し立てるようにしてモモが答える。

 その様子から――吊り上がった細く短い眉なんかを見ても――モモの機嫌がよろしくないことは明らかで。


「なあに? 随分と不機嫌じゃん」


 だから少し茶化すようにして言葉を投げたら、


「当たり前だろ!」


 怒られてしまった。


「もうすぐリレーで走るっていうのに未だに他人事みたいな顔してるしさ! そりゃ不機嫌にもなるっていうか……ああ、もう! なんで人が怒ってるときに、そんな、そんな……楽しそうな顔してるんだよ、おまえは!」

「……楽しそうな、顔?」

「うん。してるよ、目崎。そういう顔」


 モモの声とは対照的な、落ち着いた深みのある声が返ってくる。それは鮫島さんのすぐ隣に座っている、古武さんが発したもので。


「あたし。そんな顔、……してる?」


 鮫島さんの心に存在する傷に、爪を立てかけたのに。

 そうして新たな傷を、刻みかけたっていうのに。


「あたし、……あたしは。そんな顔して、」

「あまりにもさ」

「え?」


 ぽつりと古武さんが言葉を零して、だけど古武さんが何を言おうとしているのか、あたしにはいまいちわからなくて。ゆえに声が出た。それはとても、間抜けな声。

 そんなあたしの声がおかしかったのか、古武さんが一瞬だけ笑う。それからまっすぐな瞳であたしを見据えると、先刻の言葉の続きを口にしていくのだ。


「あまりにも、目崎が楽しそうな顔をしているから。……ごめん。少しだけ、期待した。もしかしたら。もしかしたら目崎が、腕をつかんで走っていくのかもって。傷なんて、そんなものは怖がらずにさ。――だってお前には、きっとそれができる。ただ見守ることしかできない私とは、違うから」


 その瞬間だった。

 さっきの感覚だ。じぃんと頭の中が痺れていくような、そんな感覚。それをあたしは再び覚えて。

 そうして、すべて。すべてをきっと、あたしは正しく理解した。

 昇降口で古武さんと話した、さっきのことを思い出す。古武さんは、あたしのことを羨ましいと、そう言っていた。あたしなら鮫島さんの傷を治して、それから腕をつかんで、走ることだってできるんだって。こうも言っていた。

 その言葉は、一瞬とはいえあたしに光を見せた。その光を覚えていたから、だからあたしは鮫島さんを仮に傷つけてしまったとしても、それを自分が治すことができるのだと、無意識のうちに考えていたのだと思う。それで弾むような気持ちになっていた。自分にはそれができるんだって、その自信から楽しそうな顔になっていた。

 理解したら。そうしたら、自分のお腹の底からふつふつと。どうしようもないぐらいにこみ上げてくるものがあった。咄嗟にお腹に手をやって俯くけれど、でも、どうしたってそれを抑えることが、あたしにはできそうにない。だから、


「……目崎?」

「どうしたんだよ、更紗! お腹痛いのか?」


 心配そうに古武さんとモモが声をかけてくれるけれど、それに言葉を返すこともできずに。あたしは一人、笑ったのだ。

 お腹を抱えて、声をあげて。笑う、笑う、笑いまくる。

 古武さんも、モモも、それから鮫島さんも、わけがわかんないって顔であたしのことを見ているけれど。だけどあたしは、あたしだけは、おかしくておかしくてたまらなかった。

 だってさあ。ねえ。あたしって本当に諦めが悪すぎるよね、って。

 必死だよ。必死なんだ。あたしは鮫島さんのことを、こんなにも必死に考えている。

 こんなあたしも、あたしなのかな。他人のことをこんなに必死に考えてしまうあたしも、目崎更紗っていう人間の一部なのかな。

 知りたくなった。すごく、知りたくなった。

 色んなこと。あたしはもう、知りたくて知りたくてたまらない。

 諦めの悪いあたしを、もっと見てみたい。じゃあ、最後の最後まで足掻いてみようか。足掻いてみたら、もしかしたら。案外さ、この状況も変わっちゃうかもしれないよ?

 もちろん、そうしたら傷つけてしまうかもしれない。鮫島さんのこと。でも、そのときはあたしが消毒液を塗って、またその傷を治すから。だから手荒かもしれないけれど、少し痛いかもしれないけれど。


 ――ごめん。もう少しだけ我慢してよ。


「モモちゃん、古武さん!」


 切羽詰まったような声に思考を遮られたのは、そのときである。

 声の方に目をやると、そこにはうちのクラスのえっちゃんの姿があった。

 はっとしてグラウンドに視線を走らせる。するとトラックの最終コーナーをトップで突っ走っているのは、うちのクラスの吉田で。さらにその三メートルほど後ろを走っているのは、A組の子。

 つまり、だ。モモにも古武さんにも、もうここでグズグズしている時間なんてなくて。

 だったらと、腰をあげながらあたしが言い放ったのは。


「モモも古武さんも、あとのことはとりあえずあたしにまかせちゃってさ。今はとにかく行っておいでよ」


 と。そんな言葉だった。


「まかせろ……って、更紗、一体なにを?」

「なにをって。アンカーに決まってるじゃん、モモのは」

「いや、決まってるって言われても。わかんねえよ、そんなの」

「目崎。……私は? 私はなにを、お前にまかせたらいい?」

「うん?」


 モモがまだ言い終わらないうちに、急き込むように尋ねてきたのは古武さんだ。

 猛禽類みたいな彼女の双眸が、今、この瞬間ばかりは何か縋るように見開かれている。

 古武さんが今、一番欲しい言葉ってなんだろう。――否、それは考えるまでもなく、あたしにはわかっている。だから口端をきゅっと吊り上げて笑みをつくると、言葉にはしない代わりにそっと視線を送るのだ。古武さんが大切に思っていて、離れたくないと願う人に。

 それで充分だった。視界の端で古武さんが立ち上がるのが見えて、そちらへと視線を戻すと、


「あっは!」


 思わず笑ってしまう。

 だって、だ。まだ結果がどうなるかもわからないのに、それでも顔をくしゃくしゃにして、古武さんが笑っているから。ホントのホントに嬉しそうな顔を、古武さんがしているから。ねえ、そんなの、笑っちゃうに決まってるじゃんか。


「行こう、向笠さん」

「……へ?」


 一頻り笑ったあとで、古武さんがモモに言う。

 口を丸く開いて呆気にとられたみたいな表情をしていたモモは、すぐには古武さんが言った「行こう」の意味を呑み込めなかったようで、随分と気の抜けた声を洩らす。が、それもすぐに驚き一色の声へと変化して。


「う、ひゃあ!?」


 古武さんが、モモの手首を捉えていた。そしてあたしと鮫島さんに背を向けて、モモの手を引き歩き出す。

 古武さんが目指す先は、きっとバトンパスライン。第二走者からバトンを受け取るために、そしてアンカーへとそのバトンを繋ぐために、古武さんは第三走者として、迷いなく全力で走ることを決めたのだ。――と、


「……朔弥?」


 高々と、古武さんが拳を突き上げる。モモの手首をつかんでいない方。それは、右の拳。

 ああ。それが何を意味しているのか、あたしにはわかるよ。あたしにだけは。

 ぽつりと古武さんの名前を零したあの子さえ、その意味を理解してはいないのだろうけど。

 古武さんはさ。あたしにあの子のことをまかせてくれたんだよね。そうしてあたしのこと、全部、全部、信じてくれているんでしょ?

 息を思い切り吸い込んだ。もうこれ以上は無理ってなるぐらいまで吸い込んで、それから目一杯、グラウンドを包み込む歓声にも負けないぐらい声を張り上げて。あたしは古武さんの背に声を投げる。


「うん! あたし、まかされた!」


 古武さんが今、どんな顔をしているのか。それはここからじゃわからないけれど。

 でも多分、彼女は笑っているんだろうなって。あたしが考えるのは、そんなことだった。

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