第7章―2
誰もいない、猫さえもいない昇降口には、グラウンドの喧騒が微かに聞こえてくる以外には音がない。
古武さんはそこでようやくあたしを下ろすと、人を一人担いできたというのに疲れた様子を見せることもなく、平気な顔で口を開いた。
「人に担がれるのって、結構疲れない? リレーの前なのにごめん」
いやいやいや。
「それ言ったらさあ、担がれるより担ぐ方が疲れるじゃん、普通。古武さんこそ疲れてないの?」
「私は大丈夫。部活で鍛えてるし」
「それ、女の子が言うセリフじゃないから。古武さんってやっぱり男の子でしょ」
「今ここで上を脱いでもいいけど」
「ああ、やめて。見てるこっちが寒くなるんだもん」
「私は別に――」
「古武さん。鮫島さんのことで話があるんだよね?」
前にもこんな感じのやり取りがあったなあ、なんて思いながらあたしは切り出す。古武さんの性別よりもなによりも、今は彼女の用件の方が大切だった。
「鋭いね、目崎は」
「鮫島さんのこと、あたしが
元々マジメな顔をしていた古武さんだったけど、瞳を細めてさらに真剣な表情をつくると、深みのある落ち着いた声であたしに問うてきた。
「二年生になったら別の学校に行くって、雫がそう言ってたよ。それから家族と暮らすんだ、とも。そう決心したのは目崎の言葉があったかららしいけど、それ以上はなにも教えてくれなかった。目崎はさ、雫になにを言ったの? それがすごく、気になった」
あたしはすぐには口を開くことができずに、古武さんの瞳から逃れるように視線を落とす。
古武さんの問いかけをはぐらかすつもりはない。ただ、古武さんが鮫島さんのことを大事に思っていて、そして気にかけていることをあたしは知っている。だからすぐには教えることができなかった。鮫島さんが家族と暮らすことを決めるキッカケになった言葉――それを古武さんに伝えるというのはとても勇気のいることで、ガラにもなくあたしの心臓はどくどくと大きな音を立てている。
「ごめん」
やがてあたしの口から零れ落ちたのは、そんな謝罪の言葉だった。
相変わらず古武さんを見ることができなくて、自分の足元を見つめながら、あたしは言葉を続けた。
「古武さんもさ、きっと知ってたんでしょ? 鮫島さんの今のお父さんが、鮫島さんに一緒に暮らさないかって。そう持ちかけてきたこと。それこそあたしが知るよりも前から。……あたしね、言っちゃったんだ。鮫島さんに、言っちゃった。鮫島さんに会いにくるのは、そのお父さんだけ。じゃあお母さんは? って考えてみて、それでね。鮫島さんと一緒に暮らしたいと願っているのは、お父さんだけなんだねって。考えなしだった、今ならそんなことわかるのに。それを、あのときのバカなあたしは鮫島さんに言っちゃったんだよ」
瞬間、息を呑む音。それはあたしの前に立つ古武さんが発したもので、あたしの心臓の鼓動よりも、グラウンドから聞こえてくる歓声よりも、もっと確かな音だった。古武さんが受けた衝撃の大きさと、それから、あたしが鮫島さんに放った言葉がどれだけ鋭利なものだったのかを、その音がすべて物語っているといえよう。
自分の身体が、とても熱くなっていた。頭の中も普段じゃありえないぐらいにぐらぐらと煮立っていて、あたしは我知らず矢継ぎ早に言葉を紡いでいた。
「さっき、鮫島さんと鮫島さんのお父さんを見かけたんだ。それでね、そこには女の人もいた。多分、あれが鮫島さんのお母さんだったんだろうね。でもさ、お母さんは鮫島さんのこと、すっごく冷めた目で見てた。だからやっぱりあたしの考えは間違ってなかったんだって、そう思った。……思ったけど、そんなの鮫島さんはとっくにわかっていて、本当は家族と一緒に暮らしたいけど、お母さんのことを考えるとそうしない方がいいのかもって。鮫島さんはそれで悩んでたのかもしれない。それなのにあたしが、あんなこと、……お父さんだけが鮫島さんとも一緒に暮らしたいと思ってるんだね、なんて。そんなこと言ったから。だからあたしは鮫島さんを傷つけて、駆り立てて――」
「そうか」
「え?」
言葉の途中で古武さんが静かに洩らした声に、あたしは思わず視線をあげて古武さんを見ていた。
彼女の表情は洩らされた声同様、とても落ち着いたもので、そこにはあたしへの怒りだとか、そういったものは含まれていないように見えた。
口をぽっかりと開けてバカみたいな顔をしているであろうあたしに古武さんは瞳を向けると、やっぱり落ち着いた静かな声で、言葉を紡ぎ始める。
「一緒に暮らさないか、って。家族にそう言われたって話は私も雫から聞いていたよ。この話を私が聞いたのが冬休みの終わり頃だった。年が明けてすぐに家族が会いにきて、そう持ちかけてきたんだって。……雫は家族が、としか言ってなかったから。だから私は、あの人も……雫の母親もそれに同意したものだと思ってた。驚いたけど、でも嬉しくはあったよ。雫と離れているうちに、母親も寂しくなったのかなって。心変わりしたのかなって、勝手にそう考えて。うん、嬉しかった。……だけど私は雫に嘘を吐いた。口先だけでよかったねって、雫にそう言った」
「どういうこと?」
あたしが問うと、古武さんは薄く笑った。自分自身を嘲るような、それはそんな笑顔のように、あたしには見えた。
「雫の今のお父さんは、ここからふたつ隣の県に住んでいるんだ。つまり雫が家族と暮らすってことは、
「古武さん」
「目崎は雫のことをよく見ているよ。最初はさ、私、お前を雫に近づけたくなかった。悪戯に雫のことを傷つけるヤツだって、そう思ってたのに。……多分、お前が雫の家族のことを知ったときから。お前は雫のことをよく考えてくれるようになった。よく考えてくれているって、私がそう思うようになってたんだ」
「違う」
古武さんの言葉を遮って、あたしは首を横に振る。
だって、ねえ、違うんだよ。本当にあたしが鮫島さんのことをよく考えているのなら、
「傷つけるはずが、ない」
あたしの声は、情けないぐらい震えていた。
「ねえ、古武さん。あたしは鮫島さんのことを傷つけてばっかりなんだよ。家族のことを知らなかったときも、知ってからも、あたしは言葉で、行動で。あの子を傷つけてばっかりいるんだ。本当にあたしが鮫島さんのことをよく考えているなら、傷つけたりしない。傷つけるはずがない。古武さんみたいにさ、見守って、それで鮫島さんが傷つきそうなときはそうならないようにって。そうするのがきっと正解なの」
「確かに私は雫のことを見守ってきた。だけどそれだけなんだよ。見守ってきただけで、なにひとつ行動はできていない。だから私は、行動できる目崎のことが羨ましかった」
羨ましい? どうして。
「その結果がこれなんだよ。鮫島さんを傷つけることになってるだけじゃん。それが羨ましいの?」
語調が強くなる。
けれど古武さんがたじろぐことはなくて、猛禽類みたいな瞳をまっすぐにあたしの方へ向けながら、迷いなんて一切ない声で、言葉をあたしにぶつけてきた。
「私は怪我をして動けなくなった雫に、大丈夫? って声をかけることしかできない。消毒液を塗ったときに痛いと声をあげられることが怖くて、そうやって声をかけることしかできないんだ。だけど目崎は違う。できた傷に消毒液を塗ることができる。痛いと言って泣く雫に、それさえも怖がらずに。そうして雫の傷を治して、雫の腕をつかんで、また走ることだって。きっと目崎にはできるんだ。だから私は、そんなお前が羨ましいよ。本当に」
あたしは目を見開いていた。
だって、そんなふうに考えたことがなかった。
消毒液を、傷口に塗ることができる。
そうして鮫島さんの傷を、あたしは、あたしが、治すことができるのか。
本当に? 本当に、あたしが治せるの?
じぃんと頭の中が、奥が、痺れているようだった。
心臓の鼓動が、速くて、そして。
すごく、すごく、力強い。
――と、
「ナゴ」
古武さんが声を発した。
古武さんの足元に視線を落とすと、そこには確かにオレンジの毛を持つ茶トラのナゴがちょこんと座っていて。
「おまえ、いつの間に――」
言いかけて、あたしはふと思い出す。
「逃げないんだね、ナゴ。古武さんから」
そう。古武さんは昔から動物にあまり好かれないらしいのだけど、ナゴは古武さんを見ても別段逃げたり威嚇することもなく、平然とそこにいるのだ。
しばらく思考を巡らせるように古武さんは視線を上にやっていた。が、やがて小さく声を洩らしたかと思うと、ジャージのポケットをごそごそとまさぐり始める。
「あった」
探していたものが見つかったらしい。
古武さんがポケットから引っ張り出したそれを見て声を洩らしたのは、今度はあたしの方だった。
まぁるい形。宝石のようなグリーンの包み紙に包まれたそれを、あたしは過去に二度、目にしたことがある。
「ねえ、それって――」
「猫ってさ、チョコレートがダメだろう?」
ナゴに目線を合わせるように、屈みながら古武さんがあたしに言う。
「でもね、ナゴは私がこれを持っているときだけ傍に来るんだ。においが好きなのかな。それでこうしてチョコレートをあげると、ほら」
古武さんの掌にある、まぁるいそれをナゴがくわえる。するともう用なんてないと言わんばかりに素早く飛び退り、そうしてナゴは昇降口から走り去ってしまった。
あとに残ったのは、あたしと古武さんだけ。それ以外には誰も、猫さえもいなくて。
「あのチョコレート、ナゴはいつもどこに持っていくんだろうね」
古武さんがゆっくりと腰をあげる。
あたしは古武さんを見上げて、けれどなにも言えなかった。言葉が出てこなかった。
「さあ、そろそろリレーの時間かな。行こう、目崎。色々言ったけど、もうなにをどうしたって雫と一緒に体育祭を過ごせるのはこれが最後なんだ。リレーでは勝たせてもらうよ。……って、どうしても目崎に言っておきたかった」
あたしの目の前に、確かに古武さんがいるはずなのに。その声はどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。
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