第7章
第7章―1
ところどころ青が覗く空が広がっているとはいえ、二月の空気は身を切るような冷たさである。それなのに、季節外れで珍しいといえどもにゃか女の体育祭をわざわざ見に来るような人間なんていうのは、一体なにを考えているのだろうか。たとえそれが生徒の保護者であったとしても、あたしには理解できない。唯一理解できる存在があるとすれば、それは寒さがまだへっちゃらな子供ぐらいだ。
あっという間に二月十四日、世間ではバレンタインデー、にゃか女では体育祭当日になっていた。
時刻は午前十一時。すでにいくつか競技が終わり、教師や生徒、そして体育祭を見に来た保護者や地元の人たちがかなり盛り上がっていた。それだけじゃなくて、にゃか女に住み着く猫たちや付近の野良猫、さらには飼い猫までもが集まるものだから、今、このグラウンドはクリスマス・イブのねっこ通りよりも賑わっている――というかそれを通り越して、騒がしいことになっている。
元々、今日は朝目覚めたときから気分がいいわけじゃなかった。それも重なってか、あたしがこの光景に覚えたのは苛立ちで。ああ、誰も彼もバカみたいに騒いじゃって楽しそうだねえ、なんて。
「なんだよう、全然盛り上がってねえじゃん。更紗」
一人になりたかった。だから一年E組の応援スペースを離れ、校舎とグラウンドの境にあるコンクリートの階段に一人ぽつんと座って騒がしいグラウンドを傍観していたら、ジャージ姿のモモがこっちにやってきた。
「そういうモモは盛り上がってそうだねえ」
E組のチームカラーである緑のハチマキをお祭りみたくねじり、頭に巻いているモモから視線を外すとあたしは呟くように言う。かなり皮肉っぽい声になっちゃったかな。まあ、別にいっか。実際皮肉みたいなものだし。というか、モモはいつだって楽しそうでとても羨ましい。悩みなんてなさそうでさ、モモみたいに生きることができたら毎日楽しいのかもしれないね。
「なあ、更紗。おまえにプレゼント、あげるよ」
あたしの心の内なんて知らずに、モモはなんの迷いごともなさそうな顔でそんなことを言うと、自分のジャージのポケットをごそごそと探り始めた。
「なにそれ、いきなりプレゼントとか。別にそういうのいらないんだけど」
「そんなこと言うなよ。ほら、今日バレンタインじゃんか」
「だからなに?」
「本命はおまえじゃないけど、それでも長い付き合いだから。だからこれ、義理だけど受け取れぃ!」
「はあ? ちょっ、いった!」
バラバラバラ。
あたしの頭上からサイコロのようななにかが降ってきて、それらが次々とあたしの頭を直撃する。そうして階段に散らばったそれらをよくよく見てみたら、それはどうやらあたしの大嫌いなチョコレートらしく。
「なにこれ最悪。あたしがチョコレートとか無理なの知ってるくせに。しかもこれさあ、あれでしょ? バレンタインだからってことで今日限定でにゃか女が生徒とか来校者にばらまいてるっていうか、配ってるヤツ。ますますいらないんだけど」
「まあそう言うなよ。どんなチョコだろうと、大事なのは気持ちじゃんか」
いや、そういうもの?
あたしは肩を竦めてみせるけれど、モモは構わず階段に散らばったチョコレートを拾い集めると、あたしのジャージのポケットにそれらを無理やり突っ込んできた。そして細く短い眉を吊り上げてから、強い口調で釘を刺してくる。
「どっかに捨てたり誰かにあげたりするんじゃねえぞ。これ、プレゼントなんだからな。絶対に、絶対に更紗が食べろよ!」
はーあ。こうなったらとりあえずでも同意しなきゃ、いつまでも状況が変わらないことは目に見えている。
ひとつため息を吐くと、あたしはひらひらと片手を振りながらモモに告げた。
「はいはい。わかったからさあ、もういいでしょ。用事はそれだけ? だったらみんなのところに戻りなよ。リレーの練習をするときになったらそっちに行くから、そのときにまた呼んで。それじゃ――」
けれど、だ。言い終わらないうちにモモがあたしの左隣に腰をおろして、
「更紗さ、一人になりたいのかもしれないけど。わたしはおまえと喋りたいからここにいるよ」
なんて言ってくるものだから、あたしは口をぽかんと開くしかなかった。
あたしが一人になりたいのをわかっているなら、だったら一人にさせてほしいのに。どうしてモモってこうなんだろう。
ヘアゴムでちょんまげにしたモモの前髪がひょんひょんと揺れるのを見ていると、バカみたいに騒いでいる人たち以上にモモのことが嫌になってくる。苛立ちが、募っていく。
「ねえ、モモ。マジメにさ。あたしのこと、今日だけでもいいから放っておいてくんない?」
そう、今日だけ。今日が終わってしまえば、いくらか気分もマシになるかもしれないって、そう思うのに。だけどモモはそうさせてはくれないらしく、
「やだね」
即答すると、寧ろ距離を詰めるように密着してきた。
瞬間、
「ウザい」
あたしの口から飛び出したのは、そんな言葉。
モモがあたしを見る。あたしもモモを見る。
そうしてお互いに視線を合わせて、あたしはなおも言い放つ。
「今日はもう構ってくんな」
モモが、栗色の瞳を零れ落ちそうになるぐらい見開いた。
ああ、傷つけたな。今のは絶対にモモのことを傷つけた。頭のどこかではそうわかっていたのに、だけどあたしはどうしても苛立ちを抑えることができなくて、「ごめん」の一言を口にすることもなく立ち上がる。ここからまたどこか一人になれる場所を探そう――ただそれだけを考えて、モモから目を背けて。そうしたら、『彼女』の姿を見つけてしまった。
この階段をおりてすぐのところに来校者用の応援スペースがある。彼女――鮫島雫はそこにいた。男の人と、それから女の人と一緒にいる。なにか喋っている。
男の人の方には見覚えがあった。古武さんよりも背が高い、おじさんというよりはおじさまと呼んだ方がしっくりくる感じの。あれは確か、鮫島さんの新しいお父さんだったはず。あたしがずぶ濡れになって鮫島さんの家に行った日に、あたしはあの人に会った。なら、もう一人。あの人の横にいるほっそりとした女の人が、鮫島さんのお母さんか。
目を凝らして、鮫島さんのお母さんらしき人を見た。鮫島さんと同じような背丈で、体型で、だけど似ているのはそれぐらい。髪も、顔立ちも、まったく鮫島さんとは似ていない。顔はキツめの化粧のせいかとも思ったけれど、いいや、化粧をとってもあの人は鮫島さんのような顔にはきっとならないだろう。
女の人は、鮫島さんのことをひどく冷めた瞳で眺めていた。あの人が鮫島さんのお母さんであるとして、実の娘に親があんなにも冷たい瞳を向けるものだろうか。なんだか薄汚いものでも見るようなその人の瞳に、肌がぞわりと粟立つ。
――ああ。
刹那、あたしは思い出していた。いつか古武さんが、あたしに言ったことを。
『雫を見るあの人の目は、いつだって――』
理解した。あの目だ。古武さんが言っていたのは、あの目のことだったんだ。
「……なによ、あれ」
あんな目を鮫島さんに向けている人が。また、鮫島さんと一緒に暮らすことを望んでいるとでもいうのだろうか。
朝、目が覚めたときから。いいや、それよりももっとずっと前――鮫島さんが、家族と一緒に暮らすと宣言したあのときから。あたしが鮫島さんをそうするように駆り立てたのだと、自分の放った言葉に後悔していた。鮫島さんに新たな傷を刻みつけてしまった、そんな自分に苛立っていた。
同時に、考えもした。だけどもしかしたら、鮫島さんにとっては家族と暮らすことが幸せに繋がるんじゃないかと。ならばこの結果は――鮫島さんが家族と暮らすことを選んだのは、寧ろよかったのかもしれないんじゃないかって、そんなことを少しだけ、頭のすみっこで考えもしたのだ。
けれど。けれどやっぱり、いけなかった。あの人の瞳を実際に見て、あたしは確信した。あんな目を向けてくる人と一緒に暮らすなんていうのは、鮫島さんの幸せじゃない。鮫島さんが家族と暮らしたいと強く願っているとして、だけどあの人の瞳に傷ついているのも事実でしょう? そうでなきゃ、ねえ、鮫島さんがあんなにも悲しそうな顔をするわけないじゃないか。
「行かなきゃ」
口走っていた。
そして階段をおりようとして、けれども手首をつかまれる。
モモだった。モモが立ち上がって、そうしてあたしの手首をぎゅっとつかんでいた。
「離して」
ほとんど命令に近い口調で言うけれど、モモは離してくれない。それどころか、あたしの手首を離すまいと指にますます力を込めてくるものだから。あたしの苛立ちは高まり、いまや全身が燃えるように熱くなっている。
「なんなの? ねえ、なあに? さっきからさあ。モモ、あたしの邪魔してばっかりじゃん」
「うん、知ってる」
知ってるなら、
「どうして。ねえ、どうして邪魔するの! モモの考えてること、さっきからあたしには全ッ然わかんないんだよ。わかんないからむかついてくる、イライラする! はっきり言ってあたし今、あんたのことすっごく――」
「鬱陶しくてしょうがないって、おまえそう言いたいんだろ」
「それもわかるんだったら!」
「わかるよ。わかるに決まってるじゃんか。バカじゃねえの?」
「はあ? バカ、って」
「おまえが思っている以上に、わたしはおまえのことわかってるよ。どうしてだか、おまえはわかるか?」
瞬間、あたしはなにも言えなくなってしまった。
目の前にいる幼馴染の瞳が、声が、真剣そのもので。なんだか自分の知らない人がそこにいるみたいだったから。
「これでもさ。わたしはずっと見てきたんだよ、おまえのこと」
やがて、ぽつりぽつりとモモが言葉を零していく。
あたしはなにも言わずに、なにも言えずに、ただ紡がれる言葉に耳を傾けていた。
「幼稚園の頃からだ。更紗はもう覚えてないかもしれないけど。あの頃のわたしはとにかく引っこみ思案で、最初なんて全然友達がいなかったんだ。いつも教室の中で絵本を読んだり、一人絵を描いたりして過ごしてた。そのわたしの手を引っつかんで、遊ぼうよって外に連れ出したのがおまえだった。……わたしにとってのさ、初めての友達だったんだよ。おまえ。太陽みたいにキラキラした顔で笑う、すっごく眩しい女の子だった。おまえのおかげで、わたしは少しずつ引っこみ思案じゃなくなっていったんだ。おまえみたいにさ、キラキラした眩しい女の子になりたいって。おまえと一緒にいるうちに、そう思うようになってたから。
だけど小学校の二年生ぐらいから、だったよな。おまえは笑わなくなったんだ。世の中つまんないみたいな、そんな顔をするようになった。わたしさ、不安になったんだよ。なんであんなにもつまんなそうな顔をしてるんだろう? それでさ、気になって気になってしょうがなくて、また笑ってほしくて、笑わせようとして。だけど全然上手くいかなくて。おまえの力になりたいのに。だけどわたしじゃ、全然ダメで」
そこで一度、モモが言葉を切る。ところどころ青が覗く空を見上げて、ひゅ、と息を吸い込んで。それからまた、あたしの姿を瞳に映すと口を開く。
「ダメすぎたんだ。わたしじゃおまえのこと、笑顔にはできないって。さすがに中学生になった頃にはもうわかってた。だから本当は中学を卒業したらさ、おまえとは別の高校に行くつもりだったんだよ。もうおまえを笑わせることはできない、諦めようって。そう思った。……いつだっけ、おまえ聞いてきたじゃんか。彼氏つくるとか言ってたヤツが、なんで女子高に来たんだって。猫がダメならなんでにゃか女に来たんだ? とも言ってたよな。……うん、そうやって諦めようとしたんだけど、やっぱりさ。わたしにはダメだったんだ。わたしってヤツは諦めがすっごく悪くて。結局おまえのことが放っておけなかった。わたしがにゃか女を選んだのはそういうことだよ」
「まさか――」
「嘘じゃねえ。彼氏つくるよりも猫がいるかどうかよりも、わたしにとってはおまえのことの方がやっぱり大事だった。……まあ、相変わらずわたしじゃおまえの力になることはできなかったけど。でもさ、更紗は高校に入って一時期だけ、生き生きした顔を見せるようになった。そんでさ、そうなったと思ったら、今度は他人のことで悩むようになった。つまんなそうな顔しかしなくなってた更紗をそういうふうに変えたのは。――あそこにいる、鮫島さんなんだろ」
栗色の、大きな瞳が濡れていく。
あれ、なんだっけ。こういうこと、前にもいつだったかあったなあ、なんて考えて。
ああ、と。理解した。
それはあのときのことだ。クリスマス・イブ、踏切を渡ったところで。ちょうど今みたいに、モモに手首をつかまれて。モモがなにかを言いかけたんだ。電車が通過して、なんにも聞こえなかったけれど。あのあとに、モモの瞳が濡れていったんだっけ。
あのときモモが言いたかったこと、今、なんとなく。わかったような気がした。
『おまえ、なんだかまたさ。つまらなそうな顔してる』
ああ、だとしたら。
あの日、モモが寒い中あたしの家の前に待機していた理由。それって、またそういう顔するようになったあたしのことを気にかけて、だったのかもしれない。――ううん、推測でしかないけれど。多分そうなのだろうなと思う。
モモがあたしの手首を離した。そうしてあたしを自由にして、あたしに背を向けて、多分モモは泣き始めた。鼻を啜る音が聞こえてくる。
「ごめん」
ぐじゅぐじゅの声で。モモが一言、そう言った。
「どうして謝るの」
「だって、わかってたんだ。わたし、……鮫島さんが、おまえを変えてくれたんだって、わかってたのに。悔しかった、……悔しかったんだよ。わたしじゃなくて、他の誰かがおまえのことを変えたんだって、そう思ったらさ。……悔しくて。だから、鮫島さんのために何かしなきゃ、なんとかしなきゃって、……そんなおまえを見てたらさ。わたし、鮫島さんのところにおまえを行かせたくないって、そう思って。だから、……ごめん。さっきから邪魔してばっかで、ごめ……う、わっ」
今度はあたしがモモの手首をつかんでいた。そうしてこっちを向かせたら、ああ、なんてひどい顔をしているんだろう。涙と鼻水でモモの顔はぐしゃぐしゃになっていて、リンゴほっぺは真っ赤で、あたしよりも十センチと少し背が低いものだから、モモのことが小さな子供みたいに見える。
「うわっ、わっ、見んな! もう、見んなってば、こんにゃろう!」
「ん。よしよし。よぉーしよしよし」
わしゃわしゃわしゃ。
猫を可愛がるみたいに、モモの頭をわしゃわしゃと撫でた。クセのない栗色のショートヘアが、あたしの手によってぐしゃぐしゃになっていく。ぐしゃぐしゃになった髪は頭に巻かれたねじりハチマキを覆っていって、あとで髪もハチマキもちゃんと直す必要があるだろうなあと思ったけど、今は頭を撫でる手を止めなかった。
「おっま……やめろってば! うがぁー、髪がぐしゃぐしゃになる! せっかく気合い入れてねじったハチマキがほどける! おい、ほどけるって言ってんだろ!」
「あとで直すの手伝ってあげるってば、ちゃんと。あっ、ちょんまげも崩れちゃった」
「うおお、前髪! 邪魔! 邪魔!」
「モモさあ、この際もう前髪おろしちゃったら? ちょんまげにしてると余計に子供っぽく見えるし。ほら、前も小学生だと思われたじゃん。大学生ぐらいの男の人にさ」
「あっ、あれは! あいつらの目が悪かったんだよ!」
「まあねえ、モモ、一応にゃか女の制服も着てたけど」
「ほら、そうだろ!?」
「まあ、別にそれはどうでもいいんだけどさ」
「いや、どうでもよくねえし!」
「今までごめんね」
「ごめ、……え?」
あたしはモモの頭を撫でる手を止めて、モモは暴れるのをやめる。
あたしとモモの視線が重なる。だけど、すぐに目を逸らしたのはあたしの方。
「更紗。……ごめん、って?」
あたしが唐突に言ったものだから、なにに対しての「ごめん」だったのかをモモは理解できなかったらしい。でも、あたしにはそっちの方がありがたかった。寧ろそうなってほしくて、あたしはこの言葉を告げるタイミングをわざとずらしたのだから。
「なあ、更紗ってば」
いくら聞かれたって、それをあたしからモモに教えるつもりはない。
モモがずっとあたしを気にかけていたこと、あたしは全然知らなかった。知らなくって、それでモモには悩みなんてなさそうだ、なんて。そんなバカなことを思っていた。
バカすぎて、恥ずかしすぎて。だからあたしはずるいとわかってはいたけれど、いつも通りのあたしを演じることに決めた。モモのことだから、きっと遅かれ早かれ今の「ごめん」の意味にも気づくと思う。だって、あたしのことをずっと見てきてくれたんだから。気づいたときに茶化すなりなんなりしてくれればいい。けれど今は、これがあたしの精一杯。
「それにしてもさあ、モモってあたしのこと大好きなんだねえ。ビックリしちゃった、愛の告白でもされてるみたいな気分になったじゃん。さっき」
「あい、……愛って、はあ!? 違っ、そんなんじゃねえし!」
慌てふためくモモの姿に、あたしはきゅっと唇の端を吊り上げる。
そうそう、それでいいの。さっきの「ごめん」の意味にさ、今は気づかなくていいんだ。
「おまえ、なに笑ってるんだよ! あっ、愛の告白とか! さっきのはそういうのじゃねえんだからな! くっそう、おまえだって知ってるくせにぃ……わたしの本命はおまえじゃなくて! ふるた――」
「目崎、向笠さんのこと泣かせたの?」
「ひゃう!」
モモみたいに声をあげることはなかったけれど、それでも驚きはした。
声がした方に顔を向けると、そこに立っていたのは猛禽類みたいな瞳を持つ古武さんで、今まさにモモがその名前を口にしようとしていたところだった。タイミングがいいというか悪いというか――まあ、モモのことを考えれば悪いってことになるのかな。
まだつかんだままでいたモモの手首を離すと、あたしはモモが涙やら鼻水やらで顔をぐしゃぐしゃにしている理由をどう説明したものかと思考を巡らせかける。が、その結論が出ないうちに勢いよく答えたのは、泣いていたモモ本人だった。
「ち、違うんだ! これはその、違うっていうか、あの、その! ちょっとこう……そう、更紗がバカなこといっぱい言うから、それでしょうがないなーって感じで笑ってただけで! 笑いすぎて、あの、こんなことに!」
「涙と一緒に鼻水が出るぐらい、目崎はバカなことを言ってたの?」
「あああああっ」
ぐしぐしとモモがジャージの袖で顔を擦る。ここでようやくモモの顔から涙も鼻水も取り払われたけれど、リンゴほっぺはこれ以上ないぐらいの赤に染まっていて、さすがにあたしがどうにかしないとって気になった。
「いくらなんでも笑いすぎだよねえ、涙と鼻水流しちゃうぐらい笑うなんてさ。っていうか、あたしの方はマジメに話してたのに……って、」
ついと、両足が地面から浮いた――と思ったら。視界には古武さんの背中と、それからコンクリートの階段のみが映って。モモの姿も、青が覗く空も、見えなくなってしまった。
米俵だ。どうやらあたしは古武さんに、米俵のように担がれているらしかった。前にも思ったけどこの子、ホントに怪力っていうか馬鹿力っていうか、やることが女の子じゃなくて男の子みたいだと思う。
「向笠さん」
あたしを肩に担いだままで、その古武さんがモモに言った。
「あんまりバカなことは言わないようにって、目崎にはよく言っておくよ。そのついでに目崎のこと、今から少し借りてもいいかな」
「……更紗、を?」
「うん」
古武さんがあたしになんの用だろう、と一瞬考えて、それからすぐに思い至る。
古武さんの背に手をやって上体を起こすと、先刻と同じ位置に鮫島さんが佇んでいるのが見えた。鮫島さんのお父さんとお母さんらしき人の姿はもうそこにはなくて、彼女は一人そこに立ち尽くしている。
きっと、多分、古武さんは鮫島さんのことであたしに話があるのだろう。ほとんど確信した瞬間、鮫島さんの瞳がこちらを向いた。古武さんに担がれているあたしの姿を、鮫島さんはそうして捉えて。両の瞳をすうっと細めたと思ったら、ただそれだけ。胸元に垂れていた濡れ羽色の髪を手で払って背中に流すと、あたしにはもう目もくれずに身を翻して生徒用の応援スペースへと向かっていった。
あたしは古武さんに担がれて、校舎の方へと連れて行かれる。
鮫島さんとの距離は、ますます遠くなっていった。
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