第6章―2
◇◇◇
「吉田ちゃん、そういえば今日って日直じゃなかったっけ」
「ぅえ? あー、ああー、忘れちまってた。えっちゃんヘルプ」
「いいですよー」
「あっ、じゃあわたしと更紗は先にグラウンド行って、リレー練習の場所取りやっておくよ!」
「おー、向笠っち助かる。……って言ってもうちのクラス、帰りのホームルームが長引いたからもう練習のスペースとかあんまりなさそうだけど。なかったらないでまたなにか考えよう」
「おう! それじゃあ行くぞ、更紗!」
「ああ、うん。行くからさあ、モモ。ジャージ引っ張んないでよ」
あたしの言葉を完全に無視して、モモがジャージの袖をぐいぐいと引っ張っていく。その力に負け、引きずられるようにして教室から放課後の廊下に出ると、そこにはすでに他のクラスの生徒の姿は見えなくて、しんと静まり返っていた。
「モモ、ジャージ引っ張るのやめてってば。伸びるじゃん」
「こっち」
「なにがこっち?」
モモがまたジャージをぐいっと引っ張る。
廊下にあたしとモモ、二人分の足音がタン、タン、と響く。
そうして屋上と三階に繋がる階段の前に到着すると、モモはようやくあたしのジャージを引っ張るのをやめて、同時に足も止めた。
あたしをまっすぐに見上げてくる。なぜだか真剣な顔をしていて、あたしは一瞬モモから目を逸らしてしまう。
「なあ、更紗」
「……なあに? いきなり。マジメな顔しちゃってさ」
「おまえ、またなにか悩んでるのか? わたしの知らないことで」
「知らないこと、って?」
今度はモモが一瞬だけ、視線を落とした。なにか、迷いを見せるように。
しかしぐっと目を瞑り、再びあたしへと視線を注ぐと躊躇うことなく言い切った。
「最近、おまえだけじゃなくて古武さんも同じような顔してる。なんだか悩んでるような、そんな顔。二人して、さ。わたしの知らないことで、なにか考えなきゃいけないことがあるのか? ……たとえば、鮫島さんのこととかさ」
あたしは答えなかった。意識がモモにではなく、まったく別の方へと向いていた。
――古武さんも。鮫島さんの今のお父さんが、頻繁に訪ねてきていることを知っている?
タン、タン、タン、とどこか遠くから音が響いてくる。階段をのぼっていくような、或いはおりていくような、そんな音が。
近づいてくる。こちらに向かって、それは近づいてきて。
――タン。
止まった。
あたしもモモも、音の方に目をやった。
すると、いた。屋上へと続く階段、その踊り場の位置に。
あたしたちを、見下ろしていた。
あたしたちは、見上げていた。
静寂。
どこまでも静かなこの空間を、音で破ったのは。踊り場に立つ彼女の方だった。
階段を、くだり始める。
タン、タン、タン、と音が響く。
そうして彼女とあたしたちの距離が縮まっていき――
だけどまた、彼女は足を止めたのだ。階段の、下から五段目の位置で。
「……鮫島さん」
モモが、彼女の名をぽつりと洩らした。
次いで問う。
「屋上に、用事?」
「まあ、そういうところかしら」
一瞬だけ、鮫島さんがあたしを見た気がした。
「会えた?」
今度はあたしが問う。
鮫島さんは、黙って頷いた。
「会えたって、誰に?」
モモは知らない。茶トラのナゴが、屋上をお気に入りの場所としていることを。
これは、あたしと鮫島さんの二人だけが知っていることなのだ。
あたしは言葉を続けた。鮫島さんの、冬の夜空みたいな瞳を見据えて。疑問に思ったことを口にする。
「会えたなら、どうしてそんなにも暗い顔をしているの?」
鮫島さんは答えずに、ただ瞼を伏せる。
だけどそんなことをしたって、あたしは先刻の鮫島さんの瞳を忘れることができそうにない。
まるで、寂しい、と。訴えるような。そんなふうに揺れていた、瞳のことを。
「ねえ。今になって、どうして鮫島さんに会いに来るわけ?」
気がつけば、あたしは尋ねていた。ナゴのことではない。
名前を口にはしなかったけれど、あたしがこの一週間、ずっとずうっと考え続けていたこと。
「こっちに来ないか、って。そう言われているの」
鮫島さんは、すんなりとあたしに告げた。
あたしは息を呑む。でも、すぐに両の瞳を細めると、あたしたちの会話の意味がわからずに目を見開いているモモの傍をゆっくりと離れて。そして階段をのぼり始めた。
鮫島さんと、同じ位置に立つ。肩と肩とが触れ合うほどの距離。
あたしの右側に立つ鮫島さんの、その耳元に唇を寄せて。囁きかけるように、言葉を流し込むように、あたしは問いかけた。
「どうして、お父さんだけが会いに来るの? 鮫島さんのお母さんは?」
刹那、鮫島さんが自身の唇を強く噛む。ぎゅっと、そこから血が滲むほどに。
だから、あたしはほとんど確信した。
「こっちに来ないか、っていうのはさ。きっと、お父さんの意見なんだね。お父さんだけの」
鮫島さんが、あたしを見る。微かに震えているようだった。
ああ、やっぱり。そうなんだ。そういうことなんだね。
つまり、さっきの言葉を言い換えれば。お父さんは鮫島さんとも一緒に暮らすことを望んでいるけれど、お母さんはそうじゃない。それを望んではいないということ。望んでいるならば、お父さんと一緒に鮫島さんに会いに来るはずだ。そう、一度ぐらいは。
鮫島さんのお母さんは、鮫島さんのことを疎んでいたと、それは古武さんから前に聞いていたことだったけれど。ここにそれが、如実にあらわれて――
「あなたはなにが言いたいの? なにを言おうとしているの?」
ぱっと顔を上げた。いつの間にか、あたしは俯いていたらしかった。
視界に鮫島さんの顔が映り込む。鮫島さんはもう震えてなんかいなくて、瞳をキツく
いけない――そう思ったときには、もう遅かった。
触れてはいけない部分に思いっきり爪を立てて。そうしてあたしは新たな傷を、鮫島さんに刻みつけていた。
「迷っていたのよ」
なにも言えなくなったあたしに、鮫島さんは言葉を放った。
「迷っていたの。目崎さん、あなた覚えているかしら? 私が前にあなたに話したこと。私の、母の話。母が私に自由になりたいのだと、そう言ってきたこと。その話を、あなたは覚えている?」
当然、覚えている。忘れるはずがなかった。
「その母も、私とまた一緒に暮らすことに同意したそうよ。でもね、私は迷っていた。まだ母は自由でいるべきなんじゃないかって。そうでない時間の方が長かったんだもの、そう思うのは当然でしょう。……けれど、そうね。私、今決めたわ。あなたの言葉を聞いて、そして今決めた。あの人たちと、私は暮らす。あなたのように面倒な解釈をする人が、これ以上出てこないように。そういうの、ねえ。とても迷惑なの」
震えていた。あたしの身体が、震えていて、止まらない。止まらない。
「さめ、じ――」
「今思えば目崎さん、あなた、最初はとても挑戦的だった。それなのにいつからかそうじゃなくなった――考えてみれば、それってあのときからね。あなたが私の住むアパートに初めて来たとき。話を聞いて、親がいないも同然の私をそのときから憐れんでいた。違う?」
「違っ、そうじゃ――」
「本当に不愉快だわ。あなたって、とても」
冬なのに。あたしの頬を、一筋。冷たい汗が伝っていった。
鮫島さんが階段をおりていく。タン、タン、タン、と規則正しいリズムを刻みながら。
遅れて、あたしは鮫島さんのあとを追った。一段飛ばしに階段を駆け下り、モモの前を通過して、
「待って!」
鮫島さんの横に並ぶと、あたしはほとんど叫ぶように呼びかける。
「待って、……待ってってば! 鮫島さん!」
しかし鮫島さんは待ってくれない。さっきよりも階段をおりる速度を速めていく。
ちょうど三階と二階の間にある踊り場に差しかかったところで、今度はモモがあたしたちに追いついた。
「二人とも、どういうことなんだよ! さっきの会話! あの人たちと暮らすとか、そういうの――」
「私のことはもう放っておいてちょうだい。赤の他人でしょう? そんなことよりも、あなたたち二人とも今から体育祭に向けてリレーの練習をするところだったんじゃないかしら。そういう格好をしているし、それに朔弥も言っていたわ。あなたたちがリレーに出場するって――」
ぴたり。そこで鮫島さんの言葉が途切れて、どういうわけか歩みも止まった。
「鮫島さん?」
あたしたちも足を止め、そして呼びかけてみる。すると鮫島さんの瞳があたしに向いて、
「そういえば、あなたってリレーに出場するのよね。4×200メートルで、朔弥と同じ。どのタイミングで走るのかしら。第一? それとも第二走者?」
「それは……アンカー、だけど」
「そう、わかったわ」
「ちょっと!」
よくわからない質問をしてきたと思ったら、鮫島さんはまた階段をおり始める。
あっという間に一階へ、そして靴箱へと到着すると、そこで上靴からローファーに履き替えることもなく、そのまま昇降口を通り抜けてしまう。
「え、なに? なんでだよ? なんで靴履き替えねえの!?」
そんなことはあたしにもわからなかった。わからなかったけど、ここで悠長に靴を履き替えていれば鮫島さんを見失ってしまうことだけはわかる。だからあたしも靴を履き替えずに、上靴のまま外に飛び出す。
分厚い雲に覆われた寒空の下、鮫島さんはずんずんと歩を進めていく。方向的に、鮫島さんは正門ではなく体育館やグラウンドの方を目指しているらしい。
やがて校舎とグラウンドを区切るように位置するコンクリートの階段へと差しかかると、そこでいったん鮫島さんは立ち止まって、グラウンドに視線を走らせる。
「鮫島さん、なにを――」
「いた」
「え?」
鮫島さんの視線を辿ってみる。するとそこにいたのは一年A組のリレーメンバーで、この階段をおりきってすぐのところに四人集まり、なにやら話し合っているようだった。
鮫島さんはそこに向かう。あたしと、それから遅れてやってきたモモには一切目もくれずに四人のもとへ歩み寄ると、開口一番こう告げた。
「早川さん、突然でごめんなさい。4×200メートルリレーのアンカーなのだけど、それ、私に代わってもらえないかしら」
「えっ、鮫島さんに?」
髪をおだんごにした子が目を丸くして鮫島さんに聞き返す。多分あの子が早川さんなのだと思うけど、きっと突然のことに驚いているに違いなかった。もちろん、それは早川さんだけじゃない。古武さんを含むA組のリレーメンバーや、あたしとモモだって、たった今目の前で起きた出来事に目を見開いている。
「雫、どうして急に?」
古武さんが尋ねるけれど、鮫島さんはそれには答えず、ゆっくりとあたしに瞳を向けた。
瞬間、あたしの喉が鳴る。ほとんど無意識のこと。
きっとバカみたいな顔をして、あたしは鮫島さんのことを眺めていた。そうして鮫島さんの唇から紡がれる言葉を、テレビ画面の向こう側のお話であるかのように、実感もなく聞いていた。
「あなたと関わるのは体育祭のリレーが最後。そこで私はあなたに勝つ。勝って、そして――あなたという不愉快な人間を綺麗に忘れて、それから私は家族と暮らすわ。ここを離れて、別の高校にも行くの」
どこかで猫が、にゃあと鳴いた。
人間共がどうやら騒いでいるらしいぞって、野性のなにかがそう感じ取ったのだろうか。
わからないけれど、きっとどこか遠くの方から、猫があたしたちを見ているに違いなかった。
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