第5章―4

 濡れ鼠になっていたあたしに、鮫島さんはまず家のお風呂を貸してくれた。

 シャワーだけじゃ身体が温まらず風邪をひくからと、わざわざ浴槽にお湯を張ってくれて、それにあたしが浸かっている間にあたしの濡れたジャージや下着をすべて洗濯。

 さらに、その合間に夕食の準備も進め、あたしが全身ほかほかでお風呂からあがったときにはカレーのいいにおいで部屋が満たされていた。


「すっごぉーい!」


 思わずそんな声が零れてしまう。

 一人暮らしをしているのだからできて当然、なのかもしれない。だけどあたしは家事なんてからっきしで、だからテキパキとそれをこなせてしまう同い年の鮫島さんに、素直に感激していた。


「あたしのジャージ、それから下着まで洗濯してくれてる!」

「さすがにこの短時間では乾かないから、今日のうちに持って帰るならなにか袋を用意するわ。家に帰ってからまた洗い直すなり干すなりしてちょうだい」

「うん、ありがとう。あとこれ、鮫島さんのジャージとか新しい下着、借りちゃってごめん。帰るときは自分の制服に着替えるから、そのときにジャージは返すとして――」

「下着はあげるわ。それほど高いものでもなかったし」

「あー、ううん。違う違う。サイズがさあ、ほら」

「……あなた、Bじゃないの?」

「残念、Cでした。そんなわけで下はまあ平気なんだけど、上がキツ――」

「下はあげるから、上は洗濯していつか返して」

「あれ。鮫島さん、なんか怒ってる?」

「気のせいでしょう」

「そう、かなあ」

「……そんなことはどうでもいいわ。あなた、それよりもどうしてずぶ濡れで部屋の前にいたの? 私、まだ理由を聞いていなかったと思うのだけど」

「あー……うん、そうだね。確かにまだ言ってなかったや」


 濡れた髪をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、あたしは部屋の真ん中に位置するローテーブルの前に腰をおろした。テーブルを挟んだ向かい側には鮫島さんが座っている。あたしたちはこうして向かい合わせの形になる。

 暫し、お互いに口を開くことなく黙り込んでいた。ゆえに室内には、あたしが髪をタオルで拭く音と、廊下にある小さなキッチンで、鍋の中のカレーがぐつぐつと煮える音。それから外では今でも雨が降りしきっているらしく、そのざあざあという雨音が響くだけ。――と、


「目崎さん」


 瞬きをする以外は微動だにしなかった鮫島さんが、催促するようにあたしの名前を呼んできた。呼んだあとで、自分の携帯に触れてちらりとなにかを確認するような仕草。続いて廊下の方を――いや、その先にある玄関の扉を確認するような目の動き。よくよく見てみると、鮫島さんの表情が先刻よりも硬くなっているように思えて、あたしは両の瞳をすうっと細める。

 あたしがなにを言うつもりなのかということを気にしている? いや、というよりももっと別のなにかに意識が向いているような。なんだろう。なにを気にしているんだろう。

 一瞬、思考を巡らせて。だけどすぐにひとつだけ、もしかしたらというものに思い至った。

 それはあたしがここに来た理由にも繋がるもので、思わずタオルを握る手に力が入る。


「誰か、ここに来るの?」


 あたしの問いかけに、鮫島さんが息を詰めたのがわかった。

 すなわち、それが答え。


「誰?」

「なぜそんなことが気になるの? あなたには関係ないわ」


 関係ない、か。


「そうだったらよかったんだけど、ね。本当に」


 訝しげに、鮫島さんが瞳を細めた。


「その言い方だと、目崎さん。あなたがここに来た理由と、なにか関係している……とでも言いたそうだけど」

「うん。まったくその通りだよ」


 刹那、鮫島さんの眉間にうっすらと皺が刻まれる。


「朔弥が……あなたに言ったの?」


 今度はあたしが眉根を寄せる番だった。

 鮫島さんの言葉の意味を理解するのに、ほんの僅か時間を要して。そして問う。


「古武さんが、あたしになにを?」

「なにを? ……あなた、朔弥からなにも聞いていないの?」

「どういう意味?」


 すると鮫島さんの表情が和らいだ。


「いいえ、なんでもないわ。あなたは気にしないで」

「気にしないで、って」

「ああ。そうね、ならあなたにひとつだけ教えてあげる。あなたがなにを見たのか、それともなにを聞いたのかはわからないけれど。あなたの考えていることは、きっと正解じゃないわ。それだけ」


 なにそれ。正解じゃないって、どうしてわかるの?

 それに、だ。


「でも、それじゃあ! 今から誰がここに来るの? どうしてそれが言えないの?」

「それはもうあなたには関係ないと言っているのよ」


 冷ややかな声だった。


「目崎さん、髪を乾かしたらもう帰ってくれないかしら。洗濯物を入れる袋と、それから帰るときに傘がないと困るでしょう。ビニール傘がうちにあるから、それを使って――」


 鮫島さんの声が、不意に途切れた。いや、途切れたというよりは掻き消されたと言った方が正しいのかもしれない。

 誰かが、この家のドアホンを鳴らしている。鮫島さんの表情が瞬時に強張ったのがわかった。


「七時ぐらいだと思っていたのに」


 鮫島さんがぽつりと零す。

 どういう意味? そういえば、今は何時?


「鮫島さん」

「少し、どこかで待っていてもらうわ」


 早口にそう言うと、鮫島さんはもうあたしには目もくれずに素早く立ち上がり、それから玄関の方へと向かった。

 カチャリ、扉の鍵を開ける音。ざあざあという雨音が先刻よりも強まって、今、鮫島さんの向こう側には誰かが立っている。

 あたしはタオルを放り出すと立ち上がった。玄関へと向かう。フローリングの床をギシギシと軋ませて、大股に。握り拳をつくりつつ。

 あたしに背を向けて誰かと話していた鮫島さんだったけど、音で気づいたのだろうか。それともあたしの気配か。ぱっとこちらを振り向いて、目を見開いた。そして首を横に振る。何度も、何度も、何度も振って、


「あなたは部屋に戻って!」


 ほとんど叫ぶみたいな声だった。

 無視して鮫島さんを押し退ける。そうしたら、立っていた。180センチを、おそらく超えている。そんな長身の男の人が。

 あたしは見上げる。あたしや鮫島さんよりも、古武さんよりも大きなその人を。


 ――これが、えっちゃんと吉田の会話に出てきた人か。


 なんだか値段の高そうなダークグレーのスーツに身を包んだその人は、見たところ四十代後半ぐらいの年齢だろうか。手足がすらりと伸びていて、俳優ですと言われても違和感のない体型と、そして柔和な顔を持っていた。

 吉田曰くおじさんとのこと。でも、おじさんはおじさんでもそこら辺にいるような普通のおじさんじゃなくて、ハイレベルなおじさんだとあたしは思う。あたしが想像していたおじさんよりも遥かにレベルが高い。言葉のニュアンス的にはおじさまの方が合ってそう。


「雫ちゃんの友達かい?」


 あたしの登場におじさまは驚いた顔をしていたけれど、やがて柔らかな笑顔を浮かべると落ち着いた声で尋ねてきた。


「友達、っていうか……」


 答えようとして、言葉に詰まる。

 鮫島さんの、あたしは友達なのだろうか。考えてみて、だけど友達というのはなにか違うような気がした。だったらなんだと聞かれれば、顔見知りか、それとも。


「あなたは鮫島さんの、なに?」


 おじさまの問いかけに答えることができなくて、あたしは質問に質問で返した。

それでもおじさまは笑顔を崩すことなく、ゆったりと言葉を紡いだのだ。


「ああ、失礼。挨拶が遅れてしまったね。僕は鮫島孝介――鮫島雫の、父親です」

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