第5章―3


     ◇◇◇


 雨は土砂降りになり、あたしは全身ずぶ濡れ。

 そんな状況にも負けず、自分の家の方角とは逆に向かって県道沿いの歩道をひた走ること十分、交差点の横断歩道を渡ってすぐ右に曲がり、見えたやや狭い路をひた走ること三分。

 ようやく到着した。すっかり息を切らしながら、あたしはあの薄汚れた二階建てアパートを見上げていた。

 確か、二〇五号室だっけ。鮫島さんは今、部屋にいるだろうか。いなかったら、帰ってくるまで部屋の前で待っておく? そうなると時間を持て余してしまうな。こういうときは猫と遊べればいいんだけど、この前、アパートの前にある郵便ポストの上にいた黒猫は、今日は見当たらない。まあこんな天気だし、黒猫どころか道中猫一匹見かけなかったか。そういえば。


「……ともかく、行ってみよう」


 そうしてあたしは二〇五号室へと向かった。が、いざ扉の前に到着すると、心臓が激しく暴れだす。もしかすると走っているときよりも鼓動が速いかもしれない。

 なんで? どうして?

 扉の前を、うろうろし始める。なにも知らない人がこの光景を見たら、きっと不審に思うのだろうけど。それでもうろうろをやめることができないのは、そうでもしなきゃ募る焦燥感に叫び出してしまいそうになるからだ。そっちの方がどう考えたって危ないに決まっている。

 結局五分経っても十分経っても、あたしは二〇五号室のドアホンを鳴らすことができずにいた。


「らしくないなあ」


 本当に、らしくない。状況が状況というのももちろんあるだろう。でも、それにしたってここまで消極的になってしまうなんて。

 ふと、古武さんを前にしたときのモモの姿が頭をよぎった。客観的に考えてみると、今のあたしはあの瞬間のモモにとてつもなく似ているのかもしれない。特定の人を前にすると、急にいつもの自分が消え失せてしまうあれだ。


「ホント、似てるんじゃないの?」


 一人零して、一人笑って、二〇五号室の扉横にもたれかかり。そうしたら、


 ――ズダン。


 雨に濡れて滑りやすくなっていたアパートの通路で、ものの見事にあたしは滑り、ひっくり返っていた。

 後頭部と背中を強く打ちつけ、走る衝撃、続いて猛烈な痛みに襲われる。あまりのショックに声が出なくて、目の前がチカチカするのを、あたしは目を瞬き唇を噛んで見ていることしかできない。

 そのまま、横たわっていた。それでじぃんとした痛みが治まることはなかったけれど、なんとか視界のチカチカが消えかかってきたとき、すぐ近くからキィと扉の開く音が聞こえて。見ず知らずの人にこんなところを見られたら色々とまずいなあ、なんて痛む頭で考える。

 だけど不幸中の幸いか、その声は知らない人のものではなかった。


「あなた、どうしてそこで寝ているの?」


 透き通るようなそれは、聞き慣れた彼女の声。

 あたしは廊下の天井に向かってゆっくりと手を伸ばすと、かすれた声でこう言った。


「立てない。……助けて」

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