第5章―2

 ぽつりぽつりと雨が土のグラウンドを濡らし始めたため、一年E組のリレーメンバーは早めに練習を切り上げて帰宅しようという流れになった。

 そうしてえっちゃんと吉田が帰り、モモは空手部がまだ練習をやっている時間だからと格技場へ向かい、自分一人だけがまだ帰りもせずに、校舎とグラウンドを区切る階段に腰かけている。

 あの子のクラスの練習が終わるのを待っていた。雨が降ろうがそんなことはどうだってよくて、それよりもあたしはあの子に聞かなければならないことがあった。

 きっと知っているはずだ。あの子なら、古武さんなら。誰よりも鮫島さんのことを知っている古武さんなら、きっと、そう。えっちゃんと吉田の会話に出てきた男の人のことも知っているはずなのだ。

 さっきは拒絶していた。もうなにも考えたくないと思っていた、だけどそれじゃあいけないとあたしは思った。考えたくないと思っても、考えてしまう。結局考えて考えて考えて、そうしてあたしが辿り着いた答えが『このままにしておくのはいけない』と、そういうものだった。

 あたしのせいで。あたしのせいで鮫島さんが、そういうことをしているのであれば。ならばそれはあたしがやめさせなきゃいけないのだ。それしかない。そうしないと。

 E組が練習を終えてから十五分ほどが経った頃、ようやくA組も練習を切り上げることにしたようだった。

 古武さんは格技場には向かわずに、練習が終わるや否やこちらへとまっすぐに向かってきた。

 あたしも古武さんのもとへ向かう。しとしとと、冷たい雨が降り落ちる中。


「気づいてたんだね、あたしが見てたこと」


 互いの距離が一メートルほどになったところで、どちらからともなく足を止めて。

 先に口を開いたのは、あたしの方だった。


「雨が降っているのに傘も差さず、自分たちの練習を見ている人がいたらね。大体の人が気になるものだと思うけど」

「そっか」


 そこでいったん、会話が途切れる。

 沈黙が生まれて、けれど雨音がそれを埋めていく。


「目崎」


 次に言葉を紡いだのは、古武さんだ。


「私に、なにか用?」


 鋭く吊り上がった、猛禽類を思わせる双眸。そして右の眉尻辺りにある、一筋の傷痕――それを見据えつつあたしは頷き、そして問うた。


「鮫島さんは、元気かな」

「どうして私にそれを聞くの? それは私じゃなくて、雫に直接聞けばいい」


 ああ。もっともな言葉だと、それはあたしも思う。


「クリスマス・イブのこと。もしかしなくても、目崎はまだ気にしてる?」

「逆に聞くけどさあ、古武さん。気にしてないように見える?」

「いいや、私にはそう見えない」

「うん、それが正解。無理に決まってるじゃん、普通になんて振る舞えないよ。あんなことがあったんだから」


 すると古武さんが瞳を細めた。


「それでも。普通に接してくれた方が、雫にとっても楽なんだ」

「楽だって言われても、あたしが鮫島さんを傷つけたことには変わらない。そう簡単に割り切れるわけないじゃん。古武さんはあたしの立場だったら割り切れる?」


 無理、でしょう?

 一瞬ではあったけれど、古武さんがあたしから目を逸らしたのを、あたしは見逃さなかった。

 再び沈黙。強まる、雨音。冬の雨は、本当に冷たい。――と、


「なあに?」


 声が出る。

 古武さんが、この状況で笑みみたいなものを洩らすから。


「いや。思った以上に目崎は優しいのかもしれないなって、そう思ったらさ」

「はあ? なにそれ、意味わかんない」


 だって。優しい、なんてさ。あたしとはまるっきり正反対の言葉じゃんか。

 古武さんのペースに傾き始めているように感じて、これじゃあいつまで経っても聞かなきゃいけないことが聞けやしないとも思った。

 だから、あたしは本題に入る。「鮫島さんは、元気かな」なんて。まるであたしらしくない、回りくどい聞き方だったのだ。


「ねえ、古武さん。古武さんは前に言ってたよね? 鮫島さんがこれ以上傷つく姿は見たくないんだ、って。じゃあ、今。鮫島さんは大丈夫?」


 瞬間、古武さんの顔から笑みが消えた。


「大丈夫っていうのは、どういうこと?」

「……うん。つまり、さ。たとえばの話。大人の愛情に鮫島さんが飢えていて、なにかさ、だから……変なことに、手を出したりとか」

「変なことって、なに?」


 古武さんの声は静かだったけれど、その中には獰猛な響きを持つなにかが秘められているようで、あたしはそれ以上言葉を続けることができなかった。

 古武さんは、えっちゃんと吉田が言っていた男の人のことを知らないのだろうか。

 もしも、もしも知らないのであるとすれば。古武さんは誰よりも鮫島さんのことを心配していて、大切に思っているのに、だったらこれを伝えることは、古武さんを傷つけるということに繋がってしまうんじゃないか。――であれば、言ってはいけない。くだんの人のことを、古武さんには伝えちゃいけない。

 一歩、あたしは後退りした。そしてさっきの古武さんのように笑みを浮かべてみせると、こう言った。


「やっぱり、なァんでもない。っていうか、雨キツくなってきたし。そろそろあたし帰るね」

「……そう」

「うん」


 引き止められるかと思ったけれど、意外にも古武さんは引き止めてこなかった。

 だからあたしはくるりと古武さんに背を向けると、一目散に走り出す。

 泥が跳ねた。靴やジャージのズボンがあっという間に汚れていった。別に構わなかった。

 行かないと。あたし、あの子のところに行かないと。

 向かう先は、自分の家なんかじゃなかった。

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