第5章
第5章―1
「一年のリレーはやっぱりA組が強いかなー。アンカーは帰宅部じゃないといけないって縛りあるじゃん、にゃか女って。しかしですね、ほら、あそこに髪をおだんごにしてる子がいるでしょ。A組のアンカーなんだけど、あの子中学のとき、確か陸部で副部長やってたんだよ。高校に入ってからは部活してないっぽいけど」
「うげっ、あのおだんごの子が? えっちゃんそれホントに言ってんのかよ」
「ホントホント、えっちゃん嘘吐きませんってば。基本的には」
「ああー、これは嘘であってほしいのに! 更紗ぁ、A組のあのおだんごの子、元陸部だったらしいぞ!」
「向笠っち、A組の第三走者はあの古武さんだけど、そこは大丈夫なんかい?」
「言うな、吉田。そのことは絶対に言うなあああ!」
「あっちゃー、向笠っちが壊れちった」
「モモちゃん、気を確かに!」
あたしの隣にいるモモやリレーメンバーのえっちゃん、吉田がとても賑やかだ。
そんな中、あたしだけは会話に加わらず、ボーッと薄墨色の空を眺めていた。
十二月が過ぎ去り、もう一月中旬になっていた。
にゃか女の冬休みもとっくに終わって、現在、あたしがいる場所というのが学校のグラウンドである。もっと正確に言えば、校舎とグラウンドを区切るようにあるコンクリートの階段に腰かけているのだけど、これはまあどうでもいいだろう。とにかくあたしは放課後である今、そこにいる。
体育の授業というわけでもなければ部活というわけでもないのに、どうして帰宅部のあたしがそこにいるのかというと、早い話が一ヶ月後の二月十四日――バレンタインデーだね――に、にゃか女で体育祭が行われるのだ。で、自分が出場することになってしまった4×200メートルリレーに向けて、リレーメンバー全員で放課後練習をしているからここにいると。いや、今は練習じゃなくて休憩中なんだけど、まあそういうことなのだ。
グラウンドにはあたしたち以外にも多くの生徒がいた。リレーのバトンパス練習をしているチーム、走る練習を行っているチーム、四人五脚の練習で冬なのに汗だくになっているチームなどなど。少なくともあたしが見る限りでは手を抜いているような子は見当たらない。
体育祭といえば多くの人が春だとか秋の行事っていうイメージを持っていて、しかしにゃか女は季節外れである冬にそれをやる。その物珍しさからにゃか女の体育祭は地元ではそこそこ有名で、寒いわりに結構一般の人が訪れるものだから(あたしも小さい頃に何度か見に来たことがある)、生徒たちも自然と体育祭という行事に熱が入るのだ。手を抜いている子が見当たらないのはそういう理由からだろう。
それなのにあたしは、あたしだけは他の人と違って特に熱が入るわけでもなく、呆けてしまっていた。
「おい、更紗」
「……うん? なあに、モモ」
「なあに、じゃないだろ。全然気合い入ってないじゃんか」
えっちゃんと吉田の二人の会話から抜けたモモが、あたしに声をかけてくる。ダークグリーンのジャージに身を包み、前髪をヘアゴムでちょんまげにしてぴょこぴょこと揺らすモモの姿は、制服を着ているときよりもさらに子供っぽく見える。
あたしは肩を竦めると、モモから視線を外してグラウンドに目を向けた。
「更紗」
「誰かさあ、あたしの代わりにリレーのアンカーやってくれる子いないかな」
「バカ。いねえよ、そんなの。だからアンカーが余ったんじゃんか。ああもう、そんなこと言うなら出場種目を決めるときにさっさと他の種目に手をあげておけばよかったのに、なんでおまえは――」
「ボーッとしてて話聞いてなかったんだもん。気づいたらアンカーになってたって感じ」
あたしがそう言うと、モモは息を吐いてからあたしへと距離を詰める。それから周りに聞こえないぐらいまで声を落としつつ、言葉を並べてきた。
「ばかやろー。あれからおまえ、魂がどっかにいっちゃったみたいだ。そりゃあさ、落ち込む……っていうか、そうなっちゃうのだってわかるよ。わかるけど、気にしないように、寧ろ普通にしててほしいって、あのあと古武さんも言ってたんだ」
ぴくり、と。多分、自身の眉が動いた。
モモにはきっと、見えていなかったと思うけれど。
「ねえ、モモ。モモはなんの話をしているの? モモが意味わかんない方に話を持っていくからさあ、あたしついていけない」
「おまえなあ、……もう」
モモの顔は見ていない。だから本当にそうしているかはわからないけど、なんとなく、今のモモはむっと唇を尖らせていそうだなと思う。それでもそれ以上はなにも言わず、出し抜けに立ち上がったと思ったら「ちょっとトイレに行ってくる」とあたしに告げて、駆け出していってしまった。
隣からえっちゃんと吉田の楽しそうに笑う声が聞こえてくる。それを聞きながら、あたしはひっそりと息を吐いた。
「気にしないように、寧ろ普通にしててほしい。……か」
モモのさっきの言葉を繰り返してみて、そうしたらなんだか笑えてしまった。
――だってさあ。そんなの、できるわけないじゃんね。
グラウンドを眺めていたら、ちょうどあの子の姿を見つけた。他の子よりもひときわ背が高くて、男の子みたいなあの子。モモのさっきの言葉は、元々はあの子が言ったものだ。そう、古武朔弥が。
思い出してしまう。古武さんの姿を見ると、あの日のことを。去年の、クリスマス・イブでの出来事を。
今、この場所にはいないらしい鮫島雫。あたしは彼女のことをあの日、傷つけてしまった。
故意に、ではない。ほとんど事故のようなものだと言われてしまえばそれまでなのだろう、だけどあたしにはそう簡単に片付けてしまうことができなくて。
――ああ、彼女。家族ととても、仲がいいのね。
あたしは鮫島さんから逃げた。でも、逃げてからも彼女のこの言葉が、耳に、頭の中に、こびりついて離れることはない。
あたしが最近、ずっとずうっと考えているのはあの出来事であり、この言葉だった。本当に、なかったことにできたらと。そんな後悔ばかり。
ゆえに古武さんに普通にしていろと言われたってそんなのは無理な話で、あたしはあの日以来、鮫島さんはもちろん、古武さんにも近づけずにいる。つまるところ、あたしはあの日から逃げ続けているのだ。
「古武さんっていえばさ、えっちゃん知ってるかい?」
「ん、なにを?」
思考に耽っていた。意識が自分の奥深くにまで入り込んでいた。にもかかわらず一瞬にして浮上したのは、古武さんという名前を聴覚が捉え、脳が認識したからだ。
吉田がその名前を口にしたらしかった。だからあたしは我知らず唾を飲み込み、吉田がなにを言おうとしているのかと耳をすませる。
「古武さんさ、いつも鮫島さんと一緒にいるっしょ」
どくん。心臓の音が、やけに大きくなる。
「その鮫島さんなんだけど、一昨日ぐらいだったかな。アタシ見ちゃったんさ。
男の、人。
真冬だというのに嫌な汗がじっとりと背中を伝っていく。
「おー、鮫島さん美人ですからねえ。他校の彼氏とか――」
「いや、違う違う。その男の人、かなり年上ってどころか普通におじさんだったし。彼氏じゃないっしょ。しかも鮫島さん、その人になんかよそよそしかったっていうか、お辞儀するみたいに頭下げたりとかしてたわけよ。これってさ、なんかこう……怪しい香りとかしないかい?」
「吉田ちゃん、それってまさか――」
「うむ」
それ以降の会話があたしの耳に入ってくることはなかった。
もうこれ以上は聞きたくないと脳が拒絶していたのかもしれないし、或いは頭の中に響く自分自身の声で、会話が聞こえなかったのかもしれない。
ああ、どうしよう。あたしのせいだ、あたしのせいだ、あたしのせいに違いない。
家族の写真を、鮫島さんに見られてしまったから。家族や大人の愛情に飢えている鮫島さんを、あたしが煽ってしまったんだ。
頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。目を、ぎゅっと瞑る。なにも、なんにも考えたくない。
膝を抱えて、そうしてあたしは意識を内に潜らせる。
自分を、守るように。
深く、深く。
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