第4章―5

「トイレに行きたい」


 蕎麦屋を出て、あたしたち四人はそこで別れるでもなく、なんとなくそのままねっこ通りを共に歩いていた。そうして十分ほどが経った頃、モモが妙にそわそわし始めたなと思ったら、背伸びしてあたしの耳元に唇を寄せ、そんなことを言ってきたのだ。


「トイレ?」

「声がおっきい、古武さんに聞こえるだろ!」


 リンゴほっぺをさらに赤く染めながらモモが怒る。

 でもね、モモ。


「呼んだ? 向笠さん」

「ひえっ」


 そう、あたしよりもモモの声の方が大きかった。

 結果、あたしたちの前を歩いていた古武さんが振り向き、モモはもう数秒後には倒れてしまうのではないかと心配になってしまうぐらい、顔を真っ赤にさせることとなる。


「あれ。向笠さん、もしかして熱でもある? なんだか顔が――」

「ち、違っ! そうじゃなくて!」


 慌てふためくモモ。ついでにもじもじし始めて、もう我慢とか言ってる場合じゃないように見える。

 トイレに行きたい自分を知られるのが恥ずかしいのか、トイレという単語を言うのが恥ずかしいのか、乙女心っていうのはいまいちよくわかんないけど、これ以上はモモの身体がきつそうだったので、オブラートに包んで古武さんに伝えることにした。


「さっき水を飲みすぎちゃったからねえ、モモは」

「更紗ぁ!」


 あ、これはトイレって単語よりもそこに行きたい自分っていうのが恥ずかしかったらしい。いや、もう人間なんだからそこはしょうがないじゃんね。

 古武さんはあたしの言葉の意味を読み取ってくれたらしく、頷くと周囲を見回した。


「あそこのお菓子屋の横にあるから、行こう。私も行くよ」

「ええ!?」


 ヤバい、これはモモがピンチか。色々と。


「いいよ、あたしがモモと一緒に行くし」

「いや、私も行きたかったんだ。雫と目崎はお菓子屋の中で待っていて」

「朔弥」

「え、ちょっと待って。古武さん!」

「あばばばば」


 行ってしまった。古武さんがモモの腕を引いて行ってしまった。モモ、あれちょっとトイレに行き着く前にダメになるんじゃ……『あばばばば』とか言ってたけど。

 いや、それよりも。それも確かに気にはなるんだけど、あたしはあたしでかなり窮地に追い込まれてしまった。鮫島さんと、二人になってしまうなんて。

 鮫島さんにそっと目をやると、彼女はまだ古武さんとモモの後ろ姿を見つめていた。が、あたしの視線に気づくとすうっと瞳を細め、肩にかかっていた濡れ羽色の髪を手の甲で払う。なんでもない動作、それなのに呼吸も忘れて見入ってしまうのはきっとあたしだけじゃない。


「行きましょう」


 その鮫島さんの声で、あたしは急速に現実へと引き戻される。

 さっさとお菓子屋の方に歩き始めてしまった鮫島さんのあとを、あたしは足早に追いかけた。

 ねっこ通りの人混みを掻きわけて店の前へ、そして店内へと足を踏み入れるなり視界に映り込んできたのは、木製の棚に所狭しと並べられた色とりどりのお菓子と、それを楽しそうに見て回る人たちの姿。

 考えなくたってわかる。お菓子が好きな人にとっては、ここは楽園のような場所なのだろうって。笑い声、「おいしそう」という声、そして甘ったるいにおいに満たされた空間。さぞかし幸せ、なんだろうね。


「目崎さん」

「うん?」


 名前を呼ばれて隣を見ると、鮫島さんが怪訝な顔であたしを見ていた。

 刹那。自分の心臓の音が、一気に大きくなる。

 あたし、鮫島さんとどんな感じで喋ったらいいんだろう――頭の中はそんなことでいっぱいになってしまう。

 だが、


「あなた、気分でも悪いの?」

「……うん?」


 鮫島さんの質問の意味がわからなくて、あたしの思考はそこでストップしてしまった。


「えっと。気分が悪いって、あたしのこと?」

「ええ、あなたのことよ。そういう顔をしているから」

「そういう顔って?」

「もう少しわかりやすく言えば、そうね。地獄に来た、みたいな顔かしら」

「ああ、なるほどね」


 それならわかる。


「お菓子とかそういう甘いものが昔からダメだから、あたし。そういう意味では地獄かな」

「……つまり、あなたは甘いものが嫌いなの?」

「うん、そういうこと」

「そう。それは随分と意外ね」


 意外って?

 そう聞こうと思ったけれど、聞くことはできなかった。代わりに自分の口から飛び出したのは「うっ」という声。

 鼻先だ。鼻先に甘ったるいにおいを放つ――これは多分チョコレートだと思うけど、棚から手にしたそれを、鮫島さんがあたしに突きつけたのだ。


「ちょっと待って、うぇー……ストップストップストップ!」

「想像以上に嫌いなのね」


 いやいや、声が冷静すぎるでしょ。

 鼻先にあるそれを手で押し退けると、その先には黒い夜空の瞳があった。


「ねえ、鮫島さん。一応聞くけど、今のってさあ、チョコレート?」

「ええ、そうね。チョコレートだわ」

「嫌がらせのつもりだった?」

「嫌いと言うからどの程度のものかと思ったのだけど、結果的には嫌がらせになるのでしょうね」


 チョコレート、おいしいのに――と付け足してから、鮫島さんはそれを元の場所に戻す。

 悪びれた様子もなく平然としている彼女の姿に、なんだか気が抜けてしまった。


「おいしいっていうかどろどろしてるだけじゃん、チョコレートなんて。いつまでも口の中にしつこく残っちゃってさあ、あんなの罪だよ」

「いつまでも甘いものに口の中が満たされるのよ。これってとても幸せなことだと思うけれど」

「なあにそれ、ホントに言ってる?」

「こんなことで嘘を吐く必要はないでしょう?」

「っふ……あっは!」


 そうだね。確かに、鮫島さんの言う通りだ。

 だけどさあ、だったらあたしと鮫島さんは、本当に全然違うんだね。境遇もそうだけど、好みだって。――ううん、そもそもそんなことは考えてみれば、いや、考えなくたって当たり前のことなのだ。当たり前のことだって、わかるはずなのに。


「バカだなあ、ホント」


 鮫島さんはあたしに似ているのかもしれないと、勝手に期待していたあたし。

 そのことを思い返すと、そう零さずにはいられなかった。


「あなた、なんのことを言っているの?」

「……ううん、別に。なんでもないよ」

「そういうのを嘘っていうのだけど。あなた、知ってる?」


 うん、そうだね。それはわかっているよ、あたしにだって。

 わかっているけれど、でも、今はわからないふりをした。


「あっ、そういえばさ。チョコレートで思い出した。この前ね、ナゴがあたしにチョコレートをくれたんだよ」

「ナゴが、チョコレートを?」


 鮫島さんが訝しげな視線を投げてくる。それを受けながら、あたしは言葉を続ける。


「そう、チョコレート。授業中に、あたしの教室にナゴが来たの。そのときにね、あたしに初めてプレゼントをくわえてきてくれたと思ったら、それがチョコレートだったってわけ」

「それは本当の話?」

「嘘じゃないよ。すっごく甘ったるいチョコでさあ、だからどうしてチョコなんて持ってきたんだって、ナゴに文句を言うためにあの日屋上に――」


 そこであたしは言葉を切った。

 先刻の、蕎麦屋での会話を思い出していた。

 あたしと鮫島さんの二人だけが知っている、ナゴの『いつもの場所』のこと。

 鮫島さんも同じことを考えているのだろうか。視線を落として思考に耽っているように見える。

 すると、あたしの中で『知りたい』という気持ちがむくむくと膨らんできた。

 どうしてなんだろう。どうしてこんなにも、あたしは鮫島さんのことが知りたいんだろう。

 そもそもあたしが鮫島さんに興味を持ったのは、鮫島さんのことを知りたいと思ったのは、彼女があたしと似ているかもしれないと、そう思ったからだ。それが理由だったのに。

 彼女とは全然、まったく似ているところなんてない。今はそれを理解しているのに、だったらなぜ、あたしはまだ彼女のことを知りたいと思うの?

 わからない。自分じゃない、他人のことをこんなにも強く知りたいと、理解したいと思うのは、自分にとって初めてのことで。色んな感情が自分の内側でぐちゃぐちゃに混ざり合っている。それをうまく処理することが、今の自分にはできなかった。

 だから。


「お待たせ、二人とも」


 横から古武さんの声が聞こえてきたとき、あたしはほっとしてしまった。

 ぐちゃぐちゃに、まぜこぜになった感情。鮫島さんと二人にならなければ、とりあえずはその感情のことを考えなくていい。見なくてもいい。そう思ったから。


「お待たせ、しました……」


 古武さんの隣にはモモもいた。リンゴほっぺを赤らめて、恥ずかしそうに背を丸めているモモの姿は、ますますちんまりとして見える。


「なあに? モモ、その顔。もしかして間に合わなかった?」

「そんなわけないだろ!」

「痛い痛い、冗談だってば!」


 ああ、ほら。これだよ。これがいつものあたしだ。いつもの、いつも通りの。

 だけど、


「雫と目崎は私たちがいない間、なにか話していたの?」

「え?」


 ああ、なんで。古武さん、なんでそういうことを聞いちゃうかな。

 自分の中にあるぐちゃぐちゃになった感情から、せっかく目を逸らすことができると思ったのに。

 そんなことを考えていたら、鮫島さんが古武さんの問いに短く答えた。


「ナゴのことで、少しね」

「またナゴのこと?」


 ええ、と鮫島さんが頷く。


「そっか。雫も目崎もナゴのことが好きだね。向笠さんも?」

「え。えっと、その……わ、わたしは……そうだ、ふっ、古武さんは!?」

「私? うーん、私の方は好きなんだけど。でも、向こうからは好かれないね。動物全般に言えることだけど」

「そうなんだ! あっ、じゃあラオネはどうだろ」

「ラオネ?」


 あれ、あたしが喋んなくても意外と会話が進んでいく。よかった、これなら――なんて思っていたら、うちの猫のラオネが話題に持ち上がった。飼い猫の名前が出てきてしまったら、飼い主が喋らないわけにもいかない。


「ああ、うちで飼ってる猫だよ。メインクーンの女の子で、ラオネって名前なんだ」

「メインクーンを飼っているの?」


 意外にも食いついてきたのは鮫島さんの方だった。


「長毛種よね、確か」

「うん、そう。すっごくもふもふしてる」

「更紗、ラオネの写メとか結構撮ってなかったっけ」

「へえ、写メがあるなら見たいかも」


 古武さんも食いついてきた。

 そんなわけで、お菓子屋にいるくせにお菓子を見ず、あたしたちはラオネの写メを見ることに。


「んーっと。ほら、これ。この子がラオネ。どう、可愛くない?」


 携帯を操作してラオネの写メを表示させると、あたしは三人にそれを見せる。


「そうね。あなたに全然似ていないわ」


 鮫島さんが開口一番、そんな感想を口にした。

 ていうかそれ、どういう意味かな。


「目崎。メインクーンって結構大きい猫なの?」

「うん? そうだねえ、『穏やかな巨人ジェントル・ジャイアント』って愛称があるし、それぐらい大きいよ」

「ねえ。写メ、スライドしていってもいいかしら?」

「ご自由にどーぞ」


 なんだろう。この感じ、多分周りから見たら普通に仲のいい女子高生四人組って感じじゃない? いや、一人男の子みたいな子はいるけどさ。それでも、なんだかいいなあと思えた。


 ――まあ、そんなに長くは続かなかったのだけど。


 あたしの携帯のパネルを指でスライドしていた鮫島さんが、不意に動きを止めた。

画面に新たに表示されたその写メに、鮫島さんの目が釘付けになっている。鮫島さんだけじゃない、古武さんやモモ、そしてあたしの視線も、鮫島さんと同じようにその写メへと注がれていた。

 今まではラオネだけが写った写メが画面に表示されていたのだけど、新たに表示された写メにはラオネ以外のものも写り込んでいて。それが、いけなかった。

 あたしのお父さんとお母さんだ。お母さんがラオネを抱いて、お父さんがラオネの頭をわしゃわしゃと撫でている、そんな一枚。

 確かそのとき、あたしはラオネの顔のドアップを撮ろうと思ったのだ。だけど二人が強引に画面の中に写り込んできて、まあ一枚ぐらい別にいいかと消去もせずに放置していたものなのだけど、まさかここでこんなことになるなんて。

 いや、違う。考えている場合じゃない。今はとにかく、だ。

 さっと手を伸ばして鮫島さんの手から携帯を取った。元々はあたしの携帯なんだから、文句は言わないだろう。だけど、それをもう見てしまったのだから記憶喪失にでもならない限り、なにが写っていたかをこの短時間で忘れるなんてことはまずありえない。


 ――ああ、やってしまった。


 時間が経つにつれて、そんな思いが強くなっていく。

 よりにもよって家族が写った写メを、家族がいないも同然の鮫島さんに見られてしまうなんて。こんなことになるとわかっていたなら、あたしは携帯を見せるなんてことはしなかったのに。この写メを、見られる前に消去していただろうに。


 ああ、なんで。なんで。なんで。

 ねえ、なんでこんなことになってしまったの?


 誰も、なにも言わなかった。

 空気が、とても重たかった。

 暖かい店内にいるはずなのに、あたしの身体は急速に熱を失っていく。

 そのうち、ダメだ、と。脳内に自分の声が響き始める。

 ダメだ。ダメだ、ダメだ、ダメだ。ダメだ。

 気がつけば、あたしは三人に背を向けていた。

 携帯を、制服の胸ポケットに突っ込んで。

 それから「ごめん」と一言呟き、逃げるようにその場をあとにする。

 いや、実際逃げていたのだ。あたしは、そう。鮫島さんから。

 だけど店を出る間際に聞こえた鮫島さんの声は、逃げてからも耳にこびりついて、いつまでも、いつまでも離れなかった。


 ――ああ、彼女。家族ととても、仲がいいのね。

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