第4章―3
◇◇◇
あたしとモモは、音広駅の前にあるねっこ通りに来ていた。養蚕が特に盛んだったのがこの辺りで、昔は
「やっぱり人、多いなあ」
木造の古い建物が並ぶ通りを多くの人が行き交っている。その光景に、ため息混じりに言葉を落としたのはモモ。
モモはもう泣きそうな顔などしていなくて、さっきのあれが嘘みたいにけろっとしている。だからあたしもそのことについては触れず、いつも通りに振る舞うことにした。
「多いっていうか、多すぎない? 冬休みだから?」
「更紗。おまえ、冬休みもそうだけどさ。それ以外にもあるだろ、人が多い理由」
「うーん。なあに? なんだかやたらクリスマスムードでカップルが多いみたいだけど」
「それだよ、それ! 今日はクリスマス・イブなの!」
モモの言葉に何度か瞬きをする。それから改めて通りに目をやって、次に制服の胸ポケットに手を突っ込んだ。そこから携帯を引っ張り出して、日付の確認。
――うん、ホントだ。今日はクリスマス・イブなんだねえ。へーえ。
「今気づいた」
「おまえ、絶対ヤバいって」
そんなこと言われてもしょうがない。だってイブだからあたしの周りで特別すごいことが起こるのかっていうと、そうじゃないし。別になにも変わんないし。街がイルミネーションでキラキラするだけ。そう、ただそれだけなんだから。
けれど、モモはあたしとは違う考えを持っているようだった。
「イブだぞ? 更紗、イブだ。ケーキが食べられる特別な日!」
「ケーキなんていつだって買えるじゃん。甘いからあたしはいらないけど」
「サンタさんからプレゼントがもらえる!」
「サンタクロースのこと、まだ信じてるの?」
「街にカップルがめちゃくちゃ多い!」
「モモ、にゃか女じゃなくて違う学校行って彼氏つくった方がよかったじゃん。それか古武さんか。なんであたしとねっこ通り歩いてるの?」
あ。モモが拗ねた。唇を尖らせて、いじけたみたいな顔をしている。
「とりあえずさあ、歩く?」
あたしが問うと、モモは返事もせずにずんずんと通りを歩き始めた。
「ちょっとモモ、ねえ、ぶつかりすぎ!」
モモのあとをすぐに追うけれど、そのモモはご機嫌ナナメになってしまっていて、とにかく人にぶつかるぶつかる。人通りは確かに多い。だけど気をつけたらぶつかる回数はもうちょっと減らすことができるはずで、ああ、そんなにむやみやたらとぶつかっていたら――
「ッてー」
ほらね。こういうことになるんだよ。
あたしたちよりも年上っぽい茶髪の男の人が振り向いてモモを見下ろす。大学生ぐらいだろうか、自分にぶつかってきたモモを見てむっとした表情を浮かべていた。
「ごっ、ごめんなさ――」
「なに? どしたん、グッチ」
「やー、なんかすげえ勢いで小学生にぶつかられたんだけど」
「マジかよ」
けらけらけら。笑い声。
茶髪の隣には金髪の男の人もいた。男二人でイブを過ごしているのか、それとも今から彼女と待ち合わせか。
くだらないことを考えていたら、
「違います」
不機嫌さを丸出しにした声で、モモが否定の言葉を口にした。
「は? なにが違うの?」
茶髪が笑うのをやめて再びモモに目を向ける。
ああ、モモってば言わせておけばいいのに。どうしてこう、状況をわざわざ面倒な方向に持っていこうとするかなあ。
ため息が、洩れた。しかしあたしがため息を洩らしたことに、多分モモは気づいていない。気づいていないから、モモは刺々しさを孕んだ声で意見するのだ。
「あの、ぶつかったのはすみません。わたしが悪かったし、それは謝ります。……けど、わたし小学生じゃないです」
もう一度、ため息を零す。
すでに面倒な状況に陥っているけれど、これ以上ひどくなる前に、なにか適当に謝ってこの場を終わらせる必要がある。
自分の肩にかかっていたブロンドの髪を手の甲で払い、背中に流す。それからあたしは息を吸って、モモの隣に並んだ。口を開く。声を発しようとして――
「え、なに? 隣の子、友達? 可愛くね?」
「マジだ。可愛いじゃん、中津ヶ谷の制服?」
なぜだか二人があたしに興味津々になっていた。ていうかにゃか女の制服を知っているならモモも制服着てるんだから、その時点で気づくものじゃないの?
そんなツッコミを心の中で入れているうちに、男二人があたしたちへとじりじり距離を詰めてくる。
「ね、もう冬休みでしょ。制服着てるってことは部活帰りかなんか? 奢るからさー、ちょっと遊んでかね?」
「な。クリスマスなのにオレら暇なんだよ。そっちも彼氏とかいないんだったらさ」
わお、なんだかもう露骨に二人の目がギラギラしている。
「そっ、その、わたしたち! あの、小学生なんで!」
と、ここでモモが隣であわあわしながら口走った。いやいやいや。
「さっき自分で言ってたっしょ、小学生じゃありませんって」
そうだよねえ。それはちょっとさすがにあたしも茶髪と同意見。
「さ、更紗ぁ……どうしよ」
「いや、どうするもなにも」
そんなの、普通に断るしかないでしょ。
「えっと。友達がどうもすみませんでした。もうこんなことのないように気をつけますので、それじゃあ失礼します。……さあ、行こう。モモ」
「いや、ちょっと待ってよ」
ぐっと手首をつかまれた。ひぇっ、とモモが声を洩らす。モモはまだ手をつかまれているわけじゃないみたいで、まあそこは安心したけれど。それにしても本当に、ねえ。これはめちゃくちゃ面倒なタイプだ。
「失礼しますじゃなくてさ、奢るから一緒に遊ぼうぜって。こういう出会いも大事にしないともったいねえよ、絶対」
「そーそー」
二人がなにかそれっぽいことを言っているけど、どうでもいいことに違いはない。
さて、どうしようかと周りに目を走らせたところで、あたしはようやく気づいた。いつの間にかあたしたちの周りだけちょっとしたスペースができていて、イブの日にトラブルに巻き込まれるのはごめんだとばかりに通りを歩く人々が視線を落とし、あたしたちを避けるようにして歩いている。
「ま、普通はそうだよね」
「ふぇ? なっ、なに言ってんだよぅ、更紗ぁ」
「しょうがないか。お兄さんたち、じゃあ、十分だけなら付き合います」
「更紗!?」
茶髪と金髪がにやにやと口許を歪めて顔を見合わせた。その瞬間、あたしの手首をつかむ茶髪の手の力がふっと緩んで、あたしも口端をきゅっと吊り上げる。ねえ、モモ。今のだよ、今の。油断させちゃえばなんてことないんだって。
手を振り切って、モモの手を引っつかんで、それから人混みに紛れよう――あたしの頭の中にはそんな逃走計画があって、それはきっと成功するだろうと思い込んでいた。
だけど、だ。それよりも早く、状況が変化する。
「「ふげっ」」
茶髪と金髪が急に間抜けな声を出したと思ったら、次にはもう二人の足が地面から浮いていた。
「なあぁ……!?」
モモが口をあんぐりと開ける。モモほどじゃないだろうけど、あたしの口もぽっかりと丸く開いているに違いない。だって、二人の男の首根っこをつかんで持ち上げるだなんて。一体どんな怪力なんだか。
――が。
「ナンパは別に構わないけれど、嫌がられた時点で身を引かないと。そうじゃなければみっともないだけだ」
言いながら二人の間からぬっと顔を出したその人のことを、あたしもモモもよぉーく知っていて。今度はあたしもモモと同じぐらい、大きく口を開いてしまった。
「ウッソ。実は男の子だったんだ……」
「いや、違うから」
猛禽類みたいな瞳があたしを捉えた――かと思えば首を横に振り、あたしの言葉を否定する。
だけど、ジャージではなくカーキのモッズコートに身を包んだ今日のその子は、ますます男の子にしか見えない。
古武朔弥。よくよく考えてみると、朔弥っていう名前もやっぱり女の子っぽくないし、なにか事情があってにゃか女に女の子として通っているとか。ねえ、そういうのあるんじゃないの?
「す、すんませ……っ」
「オレらみっともないですよね、マジで!」
古武さんの性別についてあたしがぐるぐると思考している一方で、茶髪と金髪はガタガタと震え、それこそみっともない姿をあたしたちの前に晒していた。
古武さん(古武くんかもしれないけれど)は二人を地面におろすと、深みのある落ち着いた声で彼らに告げる。
「もうこの二人には声をかけないでほしい」
ああ。これはお願いなんかじゃない。
古武さんの声が、瞳が、彼らにそう警告している。冷たいなにかを孕んでいる。
二人はこくこくと頷くと、逃げるように人混みの中に身を投じていった。
うーん、すごい。これは素直にすごいや。恐るべし、古武朔弥。
「ふっ、ふふふるふるふるる」
「モモ、落ち着いて。なんかそれ前にもあったよね?」
「だっ! だって、だって!」
「二人とも、大丈夫?」
「ひゃい!」
モモが絶対に大丈夫じゃない声を出したけど、古武さんは表情を緩めると「よかった」と呟いた。
「中津ヶ谷の制服を着た人が絡まれているのが見えて、それで来たんだ。……だけど、二人ともどうして制服を着ているの?」
「そ、それは……あの、その……」
「今日着る服はどれにしようかなって思ったときに、ぱっと目についたのが制服だったから。それだけだよ」
「なるほど」
「違っ! 古武さん、わたしは更紗と同じ理由じゃ――」
「それよりも、さ」
あたしはモモの言葉を遮った。
モモは確かにあたしと同じ理由で制服を着ているわけじゃないけれど、じゃあ『部活があると思って一度学校に行きました』という理由は恥ずかしくないのか? と考えてみたとき、それはあたしのと大してレベルは変わらないだろうと思ったのだ。
それよりも。古武さんはさっき一度否定したけれど、念のためにもう一度確認しておかなきゃいけないことがある。そっちの方がよっぽど大事だ。
「ねえ、古武さん。さっきはありがとう、なんだけどさ。ホントに男の子じゃないの?」
「今度、一緒に銭湯に行っても構わないけど」
「ふうん、なるほど。じゃあ女の子だね」
「更紗、おまえ失礼すぎるだろ!」
「だって男の人の首根っこをつかまえて持ち上げるなんて、普通の女の子じゃできないじゃん」
「おまっ……おまえは……!」
「いいよ、向笠さん。確かに、あれは私の方が普通じゃないから」
「で、でも……」
モモが眉尻を下げて申し訳ないという表情を浮かべていた。きっとそういう顔をしなきゃいけないのはあたしの方なのだと思うけど、本人も普通じゃないって認めているのだから、やっぱりあたしはモモみたいな顔をしなくてもいいんじゃないかという気になる。――と、
「雫。雫はどう思う? さっきの私のこと」
古武さんがあたしとモモから視線を外し、振り返りつつ誰かに尋ねる。
瞬間、跳ね上がったのは自分の心臓だった。どくん、どくん、と鼓動が速まり、急速に口の中が乾いていく。
さっき茶髪に手首をつかまれたとき、あたしの心臓はこんなふうにはならなかった。状況を切り抜けるにはどうしたらいいかと考えて、冷静に周りを見る余裕だってあったのに。古武さんの口から出てきた名前を聞いただけで、いや、その人がこの場にいるのだと思っただけで、もうなにも考えられなくなる。
結論が、まだ出ていないのだ。その人とどう接すればいいのか、そもそもあたしが彼女に関わってもいいのだろうかと、迷っているのに。わからないのに。
だけど、彼女は古武さんの背後から姿を現した。あたしの答えが出るまで待っていてくれるなんて、そんなことは当然あるわけがないのだから。
ネイビーのチェスターコートと細身のパンツ。にゃか女の制服姿ではない彼女を見るのは、初めてのこと。
鮫島雫。
彼女は古武さんの問いかけには答えずに、あたしを見据えていた。
黒く、濡れた瞳。世界を諦めてしまったかのような、そんな夜空の瞳で。
これから永遠にも似た沈黙の時が始まろうとしていると、あたしは予感する。
声を発することのできないあたしと、声を発しようとしない彼女。
一瞬、忘れてしまっていた。この世界に、あたしと彼女の二人だけだと――他の人間の存在を、あたしはすべて忘れてしまっていて。
だから、
「目崎も、向笠さんも。昼ごはんは食べた?」
あたしのものでもなく、鮫島さんのものでもない声を聴覚が捉えたとき、あたしは心の底から驚いた。
「目崎?」
古武さんだ。古武さんが、緩く首を傾けながら名前を呼んでくる。
だけど、あたしはうまく声を出すことができない。
「わ、わたしはまだだったな! ごはん。更紗はどっちなんだ? 食べた? 食べてない?」
ああ、今のモモの聞き方だったら、声が出なくても首を縦か横に振るだけで答えることができる。
あたしはゆっくりと首を横に振った。すると、
「そっか。それならちょうどよかった、私と雫もまだなんだ。蕎麦を食べようって話になっていたんだけど、二人はアレルギーとか大丈夫? 大丈夫だったら一緒に食べに行こう」
そんなことを、古武さんが言ってきた。
いやいやいや。一体この子はなにを考えているのだろう、と両の瞳を思わず細めてしまう。
モモも驚いているみたいで、声もなく瞳を見開いている。
そしてあたしたちだけじゃなく、どうやら鮫島さんもあたしやモモと同じ心境らしい。
「朔弥」
どうして? と、その声にはそう問いたげな響きがあった。
けれど、ただ一人。古武さんだけは穏やかに笑い、ゆったりとした速度で歩き始める。
あたしたちはなにがどうなっているのかよくわからないまま、だけど古武さんのあとを追う他なかった。
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