第3章―2

 アパートの二〇五号室、その扉のシリンダーに鮫島さんが鍵を差し込むと、カチャリと軽やかな音がした。

 扉が開く。「どうぞ」と鮫島さんが言う。ああ、鮫島さんは本当にここに住んでいるんだね、なんて頭の中でぼんやりと考えながら玄関の三和土に足を踏み入れると、すでに靴が一足置かれていた。


「誰かいるの?」

「いいえ、いないわ。私一人で住んでいるから」


 へえ、一人暮らしってわけね。にゃか女に入学してから始めたのかな。そうすると元々は鮫島さん、音広ねこうの人じゃないってこと? だって音広の人だったらにゃか女に入学するのにわざわざ一人暮らしなんてしないでしょ。地元なんだし。

 新たに聞きたいことが生まれて、この場で質問攻めにしたい衝動に駆られる。でも、ここはひとまず我慢した。まだ玄関先で、靴を脱いでもいなかったから。

 部屋はこの手のアパートによくある1Kタイプらしい。玄関、まな板を置くこともできないような小さなキッチンのある廊下、そして廊下の奥に一部屋。部屋はベッド、ローテーブル、テレビ、据えつけのクローゼットで構成されていて、なんというかとてもシンプルである。言い方を変えると、味気ない印象とも言えるけど。


「どこか適当な場所に座って、少し待っていてもらえないかしら」


 部屋の入り口で棒立ちになっていたあたしとモモに声をかけると、鮫島さんはまた玄関へと歩いていく。


「どうして? どこに行くの?」

「買い出しに行かないと、飲み物もお菓子もなにもないわ」

「いいよ別に。そんなものはいらないからさあ、あたし、鮫島さんと話したいんだって」


 モモの後ろに立つ古武さんの眉がぴくりと動いた気がしたけれど、それを無視して鮫島さんの反応を待つ。鮫島さんは特に表情を変えることもなく、肩にかかる濡れ羽色の髪を一度手の甲で払ってから頷いた。

 四人、ローテーブルを囲んで座るや否や、あたしは口を開いて鮫島さんへと質問を投げた。


「鮫島さんってさあ、音広の人じゃないの?」

「おい、更紗」


 早速質問をぶつけるあたしを窘めるみたいにモモが目を細めるけれど、多分モモも気になっていたみたいで、ちらちらと鮫島さんに視線を向けている。


「そうね、生まれた場所はここではないわ。そういう意味では音広の人間ではないと思うけれど」


 うーん、答えるには答えてくれたけど。なんだかいまいちすっきりしない感じである。


「じゃあさ、鮫島さんはいつから音広に来たの? 高校生になってから?」

「いいえ、三歳のときね」

「「三歳?」」


 あたしとモモの声が重なった。


「それってもうほとんど地元ってことじゃん。地元なのに、鮫島さんはわざわざ一人暮らししてにゃか女に通ってるの? 家族はこの辺りに住んでいるの?」

「目崎」


 二〇五号室に入ってからは一言も発していなかった古武さんが、ここにきてようやく声を発した――と思ったら、なんとも刺々しい声で。モモの肩がびくっと跳ねるのが視界の端に映った。


「なあに? 古武さん。随分怖いねえ、声も顔も」

「ぅおわあああああーっ!」

「モモうるさい」

「ねえ、目崎さん」


 モモの口を塞ごうと手を伸ばしかけたところで、鮫島さんがあたしの名を呼んだ。

 モモのように動揺するわけでも、古武さんのように刺を含んだ声を出すわけでもなく、なにも含まれていない、無色透明な声。

 わくわくする。なにを考えているのか、なにを言おうとしているのか。その先が読めなくて、だからあたしはその声にどうしようもなく心が躍る。

 鮫島さんは、言う。


「きっとあなたは、私に興味を抱いてくれているのね」

「うん、そうだよ。あたし、あなたにとても興味がある」


 そう、初めてあなたの瞳を見たあのときから。

 あたしはずっと、ずっとずっと、鮫島さんを知りたくて仕方なかった。


「あなたが知りたいと思うこと。全部、教えてあげようと思ったの。今、この場所で」


 ――全部?


 我知らず、喉が鳴る。


「雫、なにを――」

「いいのよ、朔弥。構わない。きっと目崎さんは私を知らないから興味を抱いているのでしょう? だったら全部教えてあげればいい。そうすれば、知らないことがなくなってしまえば、もう私からは興味を失うわ」


 小さく息を呑んだのは、モモだったのか。それともあたしの方だったのか。

 鮫島さんはなにもない空間を見つめる。そうして誰とも目を合わさずに、淡々と紡ぎ始めた。


「母親が、離婚したの。そうして私は三歳のときに音広に来た。前の父親の顔は覚えていないわ、私がまだ小さい頃だったから」


 モモがあたしを見る。首を、小刻みに横に振っているようにみえる。


「母は一人で私を育ててくれた。朝も昼も夜も働き詰めで、母は休む暇なんてなかった。体調を崩しても、生活するためには働かなければならなかった。いつもとてもつらそうだったわ。許されるのであれば、私も働きたいと。学校になんて行かずにそうしたいと思ったぐらい、母はやつれていった」

「鮫島さん、あの、」

「だけど、神様はそんな母をちゃんと見ていてくれた。私が中学生になって何ヶ月かが経ったとき、母は今の私の父に出会ったの。それまで苦労していたのが嘘みたいに生活は楽になって、母は毎日とても楽しそうに仕事に出かけるようになった」


 モモの言葉を遮り、鮫島さんは言葉を続けた。相変わらずそこに感情が見えることは、ない。


「目崎さん」


 不意に鮫島さんに呼びかけられて、返事をしようとしたけれど、うまく声が出なかった。


「母はとても苦労していた。母には自由に過ごせる時間なんて、今までなかったの。だからもう、母は自由になるべきだと私は思った。あなたが私の立場なら、どう思うかしら」

「そんなこと――」

「中学三年生の夏に、母は今の父と一緒になった。そして、ね。そのときに私に言ったのよ。母が。もう、自由になりたいんだって」


 鮫島さんの言葉を、頭の中で反芻する。

 だけどわからない。それって、どういう意味?


「母は自由になるべきだと私は思っていた。母は自由になりたいのだと、私に言ってきた。なら、迷う必要なんてないでしょう? 母は父のところに行って、そこで今、自由に暮らしている。やっと、やっと。苦しみから解放されたの」

「でも、それじゃあ、鮫島さんは?」


 モモが問うた。

 あたしがなにも喋らないからというよりは、多分、口をついて出た言葉。


「鮫島さん、だって、それじゃあ――」

「なにも困ることなんてないわ。お金は月に一度、充分生活していけるだけの金額が通帳に振り込まれてくるもの」

「違う、わたしが言いたいのはそういうことじゃなくて!」

「私が一人暮らしをしている理由はこんなところかしら。目崎さん、他に知りたいことがあればすべて答えるわ。……そうね、次は腕の話でもする? あなた多分、気になるでしょう」

「いらない」


 あたしの声はもう、弾んでなどいなかった。

 胸が高鳴るなんていうこともなくて、今はただ熱が引き、ぽっかりと身体の内側に穴でもあいているかのようで。


「それは遠慮しているのかしら。私に気でも遣っている? それとももう、飽きてしまった?」


 違う。違うのだ、そのどれでもない。――いや、どれでもないのかすらよくわかっていないのかもしれなくて。自分でも自分の感情が、わからない。

 ただ。ただ、ひとつだけ。


「鮫島さん。あとひとつだけ、いいかな。あなたに聞きたいこと。聞いておきたいことがある」

「更紗!」

「構わないわ、言って」

「うん、ありがとう。あのさ、鮫島さん」


 そこでいったん、言葉を切る。ひゅ、と息を吸い込んで。それからあたしは言葉を吐き出した。


「鮫島さんが自分のことを全部あたしに話してしまおうと思ったのは、鮫島さんに興味を持つあたしのことが、鬱陶しかったから?」


 鮫島さんが話す間、俯いて口を噤んでいた古武さんが、ゆっくりと顔をあげてあたしを見た。

 この場にいる三人の視線が、そうしてすべてあたしに注がれて。一瞬、空間から音が消える。

 あたしの胸の中心で暴れている心臓の、その鼓動が、ここにいる全員の耳に届いているんじゃないかと考え始めたとき、


 ――鮫島さんが、薄く、薄く、笑みを浮かべた。


「さっきも言った通りよ、目崎さん」


 鮫島さんが、ゆるりと腰をあげる。


「私のこと、すべて話してしまえば。そうすればあなたはもう、私から興味を失うでしょう? 失ってほしかったの、そんなものは。だから最初、私はあなたを相手にしなかったのに、あなたは私からいつまで経っても興味を失わない。だったら、ねえ。話すしかないでしょう?」


 あっは。

 それってさあ、鮫島さん。つまり、


「結局、鬱陶しかったってことじゃん」


 鮫島さんは答えなかった。


「やっぱり私、今から買い出しに行ってくるわ。目崎さん、向笠さん、好きなだけ部屋の中は見ていてくれて構わない。その間に私への質問を考えてくれても構わない。帰ってくれても、もちろん構わないわ。朔弥は、ごめんなさい。私が帰ってくるまで部屋に残っていてほしいのだけど」

「うん。構わないよ」

「ありがとう」


 鮫島さんが、あたしたちに背を向ける。そしてそれっきりこっちを見ることもなく、彼女は部屋をあとにした。


「帰ろう、更紗」


 二〇五号室の扉を施錠する音が聞こえた直後、モモがそう言って立ち上がった。今、モモがどんな表情をしているのかは見ていないからわからないけど、声がどことなく硬質で、笑顔ではないのだろうということだけはわかる。

 あたしはモモの言葉に従うつもりだった。頷いて、立ち上がろうとして、だけどそのあたしに、古武さんが声をかけた。目崎、と。それはなぜだか柔らかな声で。


「なあに? 古武さん」

「うん。……その前に、向笠さん」

「は、はい! えっと、なんでしょう?」

「ごめん。ちょっと、目崎と二人だけで話したいんだ」


 モモの栗色の瞳が、大きく大きく見開かれる。そしておそらくあたしの瞳も、モモほどではないだろうけど見開かれているに違いなかった。


「大丈夫、心配しないで。目崎のことを傷つけようとか、そういうつもりはないよ」

「そっ、それは! 古武さんがそんなことするような人じゃないって、わたしはその、わかっ……うん、そうだ、わかってる! だからその、わたしはあれだ。何十分でも何時間でも、更紗のこと外で待っておくから。あっ、そういえばアパートの前にあるポストの上に黒猫がいたっけ。あいつがまだいたらわたし、あいつと遊んで待っておく!」

「ちょっと、モモ!」


 止める間もなかった。自分の鞄を引っつかむと、モモはそのままバタバタと部屋を出て行き、あとに残されたのはあたしと古武さんだけ。


「もう」


 小さな声とため息が、あたしの口から零れ落ちた。

 そもそもあの子、猫とか全然ダメなくせに。


「向笠さんは、目崎のことをよく知っているんだろうね」


 そう言う古武さんの声には、どこか面白がるような響きがあった。

 なんだか言葉が思いつかず、答えないでいると、古武さんが問うてくる。


「向笠さんとは付き合い、長いの?」

「ああー……まあ、うん。そうだねえ。長いといえば長い、かな。なにしろ幼稚園の頃からの付き合いだし」

「そっか。それは長いね。……私はさ、小学生のときに雫と出会ったんだ」


 古武さんに目を向ける。すると視線が交わった。

 ああ、なんだろうな。いつもならそれほど考えなくても言葉が出てくるのに、今はなんにも浮かんでこないや。


「ふうん、そうなんだ」


 短くはない沈黙の末にあたしが口にしたのは、そんな味気ない言葉だった。

 それでも古武さんは別に気を悪くするでもなく、右の眉尻辺り――ちょうど傷痕がうっすらと残る部分を指で掻いてから口を開く。


「雫の左腕のこと。目崎はきっと、どこかで知ったんだね」


 あたしは答えなかった。

 古武さんも知っていたの? なんて質問が一瞬頭の中に浮かんだけれど、それを尋ねるのはきっと野暮なことだ。だって古武さんは、間違いなくあたしよりも鮫島さんのことを知っている。それは古武さんが鮫島さんと小学生の頃からの付き合いだからってだけじゃない。


「雫のあれは、昔からだよ。それこそ私と出会う、もっと前から」

「ふうん。……そう」

「傷ついているんだ」


 古武さんの声が、少し強くなった。

 あたしはなにも言わず、なにも言えず、彼女の言葉に耳を傾ける。


「雫は母親のことを決して悪くは言わないけれど。だけどあの人は、雫の母親は、雫のことを疎んでいた。小学生のときに何回か、あの人を見たことがある。雫を見るあの人の目は、いつだって――」


 古武さんの言葉が途切れる。

 その先はもう、聞かなくてもわかった。


「雫はなんとも思っていないふりをしているだけ。そうやってずっと、自分の心を守ってきた。私はそんな雫を子供の頃から見てきたんだ。だから、だからもう、これ以上雫が傷つく姿を見たくない」

「要するに。鮫島さんとはもう関わってくれるな……ってことだね。昼休みのときとは違って、命令じゃなくお願いってところかな」

「いや。関わるな、とはもう言わないよ」


 彼女のそれは、意外な返答だった。

 理由がわからなくて、だからあたしは彼女に尋ねる。


「どうして?」

「だってさ。目崎はもう、雫に好奇心だけで近づこうとは思わないだろう? そういう顔してるよ、今のお前は」


 そういう顔、ねえ。わかんないなあ、一体どんな顔なんだか。

 あたしが肩を竦めてみせると、一瞬だけ、古武さんが笑みみたいなものを零したような。そんな気が、した。

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