第2章―2
◇◇◇
「いつ来るんだろ。なあ更紗、いつ来ると思う?」
「もー、古武さんじゃないんだからわかるわけないじゃん」
「あと十分ぐらいかな? 十五分?」
「モモ。あたしの話、聞いてる?」
昼休みになっていた。朝から暖房がフル稼動しているため、教室は暖かいを通り越して暑い。だからクラスメイトのほとんどが制服のブレザーを脱ぎ、学校指定のベージュのカーディガン姿になっている。
あたしとモモも例に漏れずカーディガン姿になり、自分の席でお弁当を食べていた。――否、モモは食べるよりも教室の入り口にそわそわと目を向けることに集中しているのだけど。
「ねえ。とりあえずさあ、昼休みが始まってまだ五分しか経ってないんだから、先にお弁当食べちゃいなよ。さすがにこんなに早く教室には来ないって。っていうかモモが古武さんと話すわけでもないんだし――」
「勝者の余裕か」
「え、なに?」
「更紗は古武さんに声をかけられた。話がしたいんだって、そう言われた。更紗は勝者だ。だからそれは勝者の余裕なのか」
「うーん。モモ、よくわかんないけどさ。あたしは別に古武さんに興味があるわけじゃないんだし――」
「あっ、わわっ、ふわっ」
この短時間で二度、モモに言葉を遮られた。けど、二度目のこの反応は多分、あれだ。来たのだ、古武さんが。随分来るの早くない? 昼休みになってまだ五分しか経ってないんだけど、もうお弁当食べたの? それともまさか、食べてない?
モモの視線を辿って教室の入り口に目を向けると、やはりそこには古武さんの姿があった。少しだけスライドさせた扉の間から顔を覗かせ、室内に視線を巡らせている。
「古武さん!?」
あたしたち以外にも古武さんの姿に気づいたクラスメイトが声をあげる。すると途端に教室中の視線が古武さんへと集まり、キャーキャーと黄色い声があがり始め、古武さんはあっという間に何人ものクラスメイトに囲まれた。さすがにゃか女のイケメン、凄まじい人気。
「ささささらささらささらささらさら」
「モモ、おかしい。最後さらさらになってる」
「どうしよ、どうしよ! 古武さんが囲まれてる、囲まれてるよ!」
「わりといつも囲まれてる印象あるんだけど」
「更紗早く! 古武さん、おまえに話があるんだろ!? 他の子から早く古武さんを引き離してくれよ!」
「あたし、まだお弁当が」
「いいから早く!」
よくはないんだけど、鬼気迫るモモの表情に残念ながらあたしは負けてしまった。
渋々席を立って古武さんのもとへ向かう。他の子が古武さんを囲んでいるから話すことはできないと思うけど、なんて思っていたら、
「目崎さん」
古武さんの方から声をかけてきた。他の子より頭ひとつ大きいもんね。こういうときって背が高いのは便利なのかもしれない。
クラスメイトの視線が、今度はあたしへと集中する。古武さんとはどういう関係なのか? と。みんな、そんなふうに聞きたそうな目をしていた。といっても実際には聞いてこないから、あたしは視線を無視して古武さんに問いかける。
「随分来るのが早いねえ。お弁当、もう食べたの?」
「うん、食べた。目崎さんはまだだった?」
「半分も食べてないかな。でも古武さん、あたしに話があるんでしょう? 食べるのはそれを聞いてからにするよ、でなきゃモ……ううん、なんでもない」
危ない危ない、ここでモモの名前を出したらあとでどうなることか。普段は別にどうってことないんだけど、今は古武さん絡みだからねえ。
「食べる時間を削らせてしまってごめん。話はなるべく早く終わらせるつもりだけど、とりあえず場所を移動してもいいかな」
「うん、いいよ」
クラスメイトがざわめく中を突っ切って、あたしと古武さんは教室を出る。するとどこか廊下の窓が開いているのか、冷たい風が頬や首筋を撫でてきた。
ああ、失敗したな。ブレザーを椅子にかけたままで置いてきちゃった。
ブレザーのことは諦めて、自分の腕をさすりながら古武さんのあとについていく。一体どこに向かうんだろう。
四階から三階に下りて、そのまま二階、一階へと下りていった。右にも左にも曲がらずまっすぐに歩いていくと、少し広い空間に出る。左手には生徒の靴箱がずらりと並んでいて、右手は自販機コーナーだ。古武さんは自販機コーナーへと向かっていく。
あたしたち以外に生徒の姿はなかったけれど、小さな先客が自販機の前にごろんと寝そべっていた。
「イッキ。おまえ、夏はわかるけどさあ。今、冬だよ。そんなところに寝転んで寒くないの?」
古武さんがあたしのことを見ているけれど、別に構わない。グレーの毛を持つ猫、イッキに声をかけると『みゃーん』と可愛らしい声が返ってきた。
「目崎さんは猫が好きなの?」
「うん、すごく好き。人間と違ってさ、気まぐれでちっとも思い通りになんないところとか。一緒にいて全然飽きないんだもん。……なあに? 古武さん」
「うん?」
気のせい、だろうか。古武さんの瞳が一瞬、細められたような気がした。
そのことに意識が向かいかけて、けれど寝転んでいたイッキが唐突に唸り出したものだから、あたしはイッキへと目を向けてしまう。
「イッキ、どうしたの? ……あっ」
猛スピードでイッキが駆けていく。空間を突っ切り、生徒の靴箱が並ぶそこも駆け抜け、イッキは瞬く間に昇降口を飛び出していった。
「多分、私だ」
古武さんがぽつりと零す。
「昔から動物にあまり好かれないんだ。私は好きなんだけど」
へえ、そうなんだ。自分は好きなのに相手からは、……ってパターンね。なんだかそれって、ちょっと悲しくなりそう。
「なにか飲みたいもの、ある?」
それっきり古武さんはイッキのことには触れず、そんなことを尋ねてきた。だからあたしももうイッキの話はせずに、古武さんの問いかけに答える。
「んー……コーヒーとか? ブラックの冷たいヤツ」
「冷たいのでいいの?」
「うん。ホットはなんか、飲んだって気になんないし」
「そっか」
流れるように会話が進んでいってるけど、これって古武さんが奢ってくれる感じ?
自販機の前に立った古武さんを、その後ろから眺める。
――わお、マジじゃん。
ガコン、という音のあとで古武さんが自販機から取り出したのは缶コーヒーだった。無糖タイプで、多分ホットじゃなくて冷たいヤツ。
「いいの?」
「うん。目崎さんの時間をもらってるわけだし」
「奪われてるって感覚は別にないけど。でも、じゃあ遠慮なく。ありがとう」
「いいえ。……だけど本当に寒くない? というかブレザーは教室?」
「うん。着てくるの忘れちゃった」
「ちょっと待ってて」
なあに? いきなりジャージの上を脱ぎだしちゃって。
「これ、使って」
ああ、なるほど。なるほどねえ。うん、そうだね。この子、間違いなく紳士だ。
古武さんは上のジャージを脱いで半袖の白シャツ姿になると、脱いだジャージを当然のようにあたしに差し出してきた。これって多分、中々できないことだと思う。少なくともあたしが古武さんの立場だったら絶対にこんなことしてないもん。だって服貸したら自分は半袖でしょ? 寒いじゃん。あとこれさ、
「見てる方が寒くなってくる」
古武さんは瞳を見開いてきょとんとした顔をするけれど、でも実際そうなのだ。この時期に半袖のシャツ姿でいる人が視界に映ったら、半袖でいる本人はどうなのか知らないけど、見てる側は寒い。そう感じるのはきっとあたしだけじゃない。
「あたしのためにもそのジャージは古武さんが着ておいて。今すぐに」
「だけど、目崎さんは?」
「あたしは大丈夫だから、早く。……っていうか、ねえ、古武さん。今思ったんだけど、あたし、古武さんに名前教えたことあるっけ」
「いいや、ないよ」
ジャージに腕を通しながら古武さんが答える。その声がほんのちょっとだけ硬質なものに変わった気がして、缶コーヒーを握る手に少し力が入った。
別にこれといった根拠はない。でも、なんとなくその声は、さっきの古武さんの目を連想させた。猫が好きなのかと、彼女は先刻あたしに尋ねてきた。それに対するあたしの答えを聞いて、一瞬だけ細めた――そう、あの目。
「なら、どうして知ってるの? あたしの名前」
ジャージのファスナーを中ほどまで上げると、それから暫しの間、古武さんは俯いてしまう。
決して催促はしなかった。多分そんなことをしなくても、彼女は必ずあたしに話す。そしてきっとそのあとで、彼女は明かしてくれるはずだ。あたしをここに連れてきてまで話したかったこと。その本題を。
彼女の様子から、あたしはそう結論づける。
「気を悪くさせてしまうかもしれないけど」
そんな前置きをしてから、彼女は顔をあげた。
猛禽類のような鋭い双眸。そこからは穏やかなものを感じ取ることなんて一切できなくて、ああ、これも古武朔弥なのだろうなと頭の中でうっすら考える。穏やかなだけじゃない。彼女はその中に隠しているのだ。鋭く尖った鷹の爪を。
「いいよ、言っちゃって。多分あたし、怒んないから」
「そういうところだよ」
「そういうところって?」
まるで意味がわからなくて、首を傾ける。
「見かけが目立つっていうのもあるけれど。それに加えて目崎さんは、なにを考えているのかわからない。つかみどころがない。そういった意味で、名前はよく耳にするんだ」
ふうん、よくわかんないけど。それってつまり、
「不思議ちゃんってこと?」
彼女は肯定しなかったけれど、否定もしなかった。それが答えなのだろう。
なァんだ。それじゃああたし、元から古武さんには不思議ちゃんとして認識されてたってことじゃん。ごめん、モモ。なんか、そういうことみたい。
「本題に入るよ。今朝のこと。目崎さんはもしかして、雫に興味を持っている?」
「雫……ああ、鮫島さんだね。どうして?」
「なんとなくだけど。今朝のやり取りを見てそう思った」
「そっか。うーん、そうだねえ。じゃあさ、あたしが鮫島さんに興味を持っているって言ったら、古武さんはどうする?」
すると、彼女の瞳が揺れた。眉間には微かに皺が刻まれて、それだけで彼女の答えは容易に想像できる。
「ごめん。申し訳ないけど、雫のことはそっとしておいてくれないかな」
ほら。ほらほら。ねえ、やっぱり。想像通りすぎて笑っちゃったじゃん。
「ねえ、どうして?」
あたしは問うた。瞳を細めて、笑みを隠しもせずに、そうして古武さんに。
「どうして、ねえ。あなたがそんなことを言ってくるの? 鮫島さんがあなたにそう言えって頼んだのかな。それともこれは、あなた個人の考えでやってること?」
「ああ、その通りだよ。雫に頼まれたわけじゃない」
「あっは! だったらどうして? ねえ、古武さん。あなたは鮫島さんのなに? ただの友達でそんなおせっかいしてるの?」
ああ、
自分の口許がひくつくのがわかる。
「詳しく話すつもりはない。だけど、とにかく雫は傷ついている。私は昔からそんな雫を見てきて、だからこれ以上雫が傷つく姿を見たくないんだ。……頼むから、そっとしておいてほしい。雫を、傷つけないでほしい」
やがて彼女が押し殺したような声で紡いだ言葉は、表面的には懇願のようにもみえよう。けれどそうではないのだと、あたしは彼女の目を見て確信する。
「命令、だね? 古武さん」
否定しないことと、彼女の瞳に宿る冷たい光が肯定の証しだった。
普通であれば。そう、普通であれば。鮫島雫にはもう近づきませんと約束する場面なのだろうか。
――でもね、古武さん。
あたしは笑う。彼女は両の瞳を見開く。
だってさあ、ねえ。違うの。違うんだよ。そんなんじゃあたし、ますます鮫島さんに興味を持っちゃうじゃないか。
鮫島雫は傷ついている。じゃあ、どうして傷ついているの? 自分の左腕を噛んでいたことと関係があるのか。なにもかも諦めてしまったようなあの表情も、それが関係している?
知りたいよ。とっても知りたい。鮫島さんのこと。
あたしは別になにかに傷ついているわけじゃない。だけどさ、世の中はとてもつまらなくてくだらないものだって思ってる。
もしかしたら。そんなあたしだから、ちょっとは鮫島さんのことをわかってあげられるかもしれないよ?
「目崎さん!?」
あたしは走り出した。さっきのイッキみたいに、猛然と突っ走っていく。ただし向かう先は、昇降口じゃなくて階段だ。あたしが目指すのは校舎の四階。
「うわっ」
階段前に差し掛かったとき、左側の廊下からそんな声が聞こえてきた。足は止めない。視線だけを向けると、そこにはなぜかモモの姿が。
「ち、違っ……別になに話すんだろうとか、そういうのが気になって二人のあとを追いかけてきたわけじゃないし!」
なるほど、つまりそれが理由ってわけね。聞いてもないのにモモってばわかりやすいんだからさ。
いつもならここでなにか一言ぐらいはツッコミを入れたりするんだけど、今はそういうわけにもいかない。
後ろから聞こえてくる。あたしの他にもう一人、誰かが廊下を駆ける音。その誰かが誰なのか、振り向かなくたってそんなのわかる。そしてあたしは、今その子につかまるわけにはいかないんだ。
「おい、更紗? ……更紗!」
階段を一段飛ばしで駆けのぼる。身体の内側で熱が生まれ始めて、心臓が鼓動を速めていく。手に持っている缶コーヒーは、あたしが腕を振りまくっているせいでちゃぽちゃぽと絶え間なく音を立てている。まだ缶をあけてなくてよかった。あとこれ、炭酸じゃなくてホントによかった。
四階まで一気に駆けのぼると、運動は得意であるとはいえ、さすがに足は重たくなったし息も荒くなった。
けれどそんなことを言ってる暇もなくて、あたしが今からどこへ向かうつもりなのかをおそらく察している古武さんの足音が近づいてくる。
「目崎!」
目崎さんから目崎呼びになっていた。果たしてにゃか女にいる生徒の何人ぐらいが古武さんに名字で呼び捨てされているのだろうか。
廊下に出る。右に行けば一年D組、E組、F組の教室がある。でも、あたしはそうじゃなくて左を行った。廊下の一番奥にある教室――目指すのは、そこだ。
駆けて、駆けて、駆けて、それから教室の前に到着して、ちらりと振り返る。古武さんがこっちに走ってくる。よくよく見ると、その後ろにモモの姿もある。あたしは扉に手をかける。多分今、あたしは笑っているのだと思う。
扉を、勢いよくスライドさせた。けたたましい音、直後、向けられる視線、視線、視線。
そんな中で室内をぐるりと見回して、あの子を探す。見つける。ベランダ側、後ろから二列目の席。
そこへ向かおうと一歩踏み出したら、視界にオレンジ色のもふもふしたものが映り込んだ。教卓の上で丸くなって、グリーンの瞳をあたしに向けた茶トラのナゴ。
「おまえ、今日はここにいたの?」
教卓の側を通る際に短く問うたら、『なごぅ』と低い声が返ってきた。
今はとりあえずそれ以上声をかけることはしない。あの子――鮫島雫のもとへ行くこと。それがあたしの中での最優先事項だから。
「こんにちは、鮫島さん。今朝ぶりだねえ」
鮫島さんの前に立つ。そうして話しかけるのとほとんど同時に、古武さんが教室へと駆け込んできた。あたしはそれを見たわけじゃないけれど、
「目崎!」
あたしをそんなふうに呼ぶ人間は、この学校には古武さんしか存在しない。
「更紗!」
ああ、モモも到着ね。構わない。二人はそこで見てるといいよ。
缶コーヒーを持っていない、右手。ゆっくりと、その手を鮫島さんに伸ばした。
夜空の瞳があたしを見据えている。そこから感情を読み取ることはできない。この子は今、なにを考えているのだろう。
そっと、触れた。鮫島さんの左腕。ブレザー越しに、あたしは。昨日、鮫島さんが噛んでいたあの部分を。
鮫島さんの腕が一瞬、ぴくりと動いた。でも、表情は変わらない。
「いきなりさあ、ごめんね」
鮫島さんから瞳を逸らさない。そのままあたしは言葉を紡ぐ。
「別に今朝の時点ではそのつもりはなかったんだけど」
「ええ。なにかしら」
「うん。ちょっとね――」
唇の端を吊り上げる。一度、言葉を切って。
それからあたしはこう言った。
「今日さあ、あたし、鮫島さんの家に遊びに行ってもいいかな?」
いつの間にか、教室はしんと静まり返っていた。
時が止まってしまったようなその空間にやがて響いたのは、鮫島さんの透き通るような声。
曰く、
「あなたがそうしたいのなら、好きにすればいい」
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