第2章
第2章―1
「更紗さあ。なんかおまえ、どうしたんだよ?」
昨日と同じ、薄墨色の空が広がる寒い朝だった。
幼馴染のモモとにゃか女に登校するのはいつものことで、そこそこ大きな踏み切りを渡ってもうあと五分もしないうちに学校に到着するというところで、モモが出し抜けにそんなことを尋ねてきた。
「なあに? どうしたって、なんのこと?」
質問に質問で返す。
だってわからない。モモが一体なんのことを問うているのか。
「とぼけるなよ」
「とぼけるもなにも、ねえ? なにに対してのどうしたんだよ、なのかがわかんないんだもん。あたしさあ、エスパーじゃないんだけど」
「むっかつくな、こいつめ……おわぁ!?」
県道沿いにある歯科医院の横を通過すると、右手に車一台がやっと通れるほどの
そこに差し掛かった瞬間、猫が二匹、あたしたちの前に現れた。
どちらも三毛猫で、車がほとんど通らないためか、堂々と路の真ん中でごろんと横になっている――かと思えば、猫同士でじゃれ始めたり。
ご機嫌そうなこの子たちを前にして、けれどあたしの隣を歩くモモは上半身を仰け反らせていた。これでもかってぐらいに。
「モモってさ、ホントに猫ダメだよねえ。猫っていうかもう動物全般?」
「だって! 猫は引っ掻いてくるし犬は追いかけてくるし、カラスはなんか嘴で襲ってくるじゃんか!」
「それ全部経験あるんだっけ。動物ダメになるのはわかるけど、なんかすっごくかわいそう」
「かわいそうとか言うな! ああもう、早くここ通るぞ!」
「はいはい。……でもさあ、モモ。いつも思うんだけど」
「なんだよ?」
路の端っこをちょこまかと小走りに通るモモのあとを追いながら、常々思っていたことを口にしてみる。
「いやね? そんなんでよくこの街で生活できてるなーって思って」
「うるせえやい」
モモがむっとした顔で振り向いた。
ヘアゴムでちょんまげにした前髪がぴょこんと揺れて、なんだかモモの頭って噴水みたいだなーなんて思ってしまう。ていうかこの子の髪型、よくよく考えてみれば幼稚園の頃から変わらないような。
あたしの思考なんて知らずにモモが言葉を続ける。
「まったく、毎日毎日どれだけわたしが動物に悩んでいることか。動物っていうか主に猫」
「猫の街、
「そんな簡単に引っ越せるわけないだろ!」
「冗談だって。でも、そんなに猫ダメならどうして猫だらけのにゃか女に入学したわけ? 学校ぐらい猫のいないところに行けばよかったじゃん」
「それは……」
モモが急に口ごもった。視線をふらふらと彷徨わせて、だけど結局なにも言わずに前を向いてしまう。そして、それっきりだんまりになるモモ。
「モモー? なんで黙ってるのさ」
モモの隣に並んでから、顔を覗き込んでみる。するとリンゴほっぺが普段よりも赤くなっていて、そこからモモがなにかあたしに隠しているのだと悟った。多分、あたしに聞かれたら恥ずかしいこと。
「なあにー? 余計に気になるじゃん。っていうかさ、高校生になったら絶対彼氏つくるんだーとか言ってたモモが、なんで女子高? おかしくない?」
「おまえに関係ないだろ、もう!」
「えー、一応幼馴染じゃん。幼稚園の頃からの付き合いじゃん。気になるじゃん」
「だああああ! もうやめい、やめいやめいやめい! 今日のおまえ、いつもと違って機嫌いいなーとか思ってたらこれだよ!」
「機嫌いい?」
「そうだよ、だって機嫌いいだろ? いつもつまんなそうな顔してるのに、今日はそうじゃない。なんかこう、浮かれてるみたいな」
「ウソ。あたし、今日そんな感じ?」
「そんな感じだよ。だからどうしたんだ、って聞いたんだ」
ああ、なるほどね。さっきの『どうしたんだよ?』はそういう意味か。納得。
「……で?」
「うん?」
「いや、だから。なんで機嫌いいんだよ、更紗」
モモがじっとりとした視線を投げてくる。
けど、あたしは別に浮かれているつもりもなかったから、答えようがないわけで。
肩を竦めてみせるけれど、その瞬間、ひとつだけもしかしたらと思い当たるものが浮かんできた。
「なんだよ?」
それが顔に出たのか、目敏くモモが尋ねてくる。こういうときだけこの子は鋭い。
あたしは少しだけ迷った。心当たりがあるとすれば、それは昨日の出来事だ。
屋上で、鮫島雫と会ったこと。
お腹を抱えて笑ったのは、随分と久方振りだった。
別に彼女と言葉を交わしたわけではない。だけど昨日のことで、あたしが彼女にこれまで以上に強い興味を抱いたのは確かである。
考えれば考えるほど、やはりその出来事が関係しているように思えた。
だけど、そうなのであれば。それは自分だけの秘密にしておきたいと、あたしは考えるのである。
自分の腕を噛んでいた鮫島雫。
あたしだけが知っているから、ねえ、面白いんじゃないか。
「ごめん、やっぱりわかんないや」
「はあ? その顔はわかってるって顔じゃんか」
頬を膨らませ、唇を尖らせたモモはまるでフグみたいだ。
にゃか女の正門が、もう正面に見えている。フグなモモの気を逸らすのになにか適当な話題はないかと目を走らせて、そうしたらそのモモが「ぎゃっ」と声を上げた。そしてあたしの後ろに素早く身を隠す。
「なに? 猫?」
「違う!」
あたしの腕をぎゅっとつかむモモ。モモの気があたしから逸れたのはよかったんだけど、つかまれている部分がすっごく痛い。
「とりあえずさあ、もうちょっと優しくつかんでくんない? 痛いし」
言いながら、多分あたしの言葉なんて聞こえてないんだろうなあと思った。だってモモ、あうあう言ってる。
諦めてモモがこうなった原因を探そうとして、けれど探すまでもなくそれはすぐに見つかった。
ああ、なるほどね。間違いない、あの子が原因だ。
あたしから見て左手の路。そこから正門に向かって歩く、にゃか女のダークグリーンのジャージに身を包んだ生徒。
同じクラスではない。中学校や小学校が同じだったわけでもない。なのにどうして名前を知っているかというと、彼女、にゃか女では有名なのである。女の子にこれを言って褒め言葉になるのかどうかはわからないけれど、そんじょそこらの男よりも古武朔弥はイケメンなのだ。
170センチを超える長身。涼しげな短い黒髪。髪と同色の細く吊り上がった瞳には猛禽類を彷彿とさせる鋭さがあって、右の眉尻辺りにうっすらと見える一筋の傷痕が、鋭利な印象をより強めている。
さらにだ。古武朔弥は顔がいいだけじゃなく、性格もまたいいらしい。モモによると、それはそれはとても穏やかで紳士的で、同性とはいえ惚れない方がおかしいぐらいのレベルなのだそうだ。
モモはにゃか女に入学して早い段階で彼女に一目惚れした。それで彼女のあとを追いかけて空手部に入部したのだけど、そんな凄まじい行動力を持っているにもかかわらず、古武朔弥を前にするとこんなふうにあわあわしてしまう。そのせいで、同じ部活に入ったっていうのに喋ったことはほとんどないらしい。変なところで女の子なんだよね、この子。普段は荒っぽくてガサツなのに。
――いや、そうじゃない。ちょっと待って。
「うおっ、ちょ、まっ……更紗頼む、頼むからまだここにいて……!」
「ダメ、待てない」
「なんでだよ!」
だって。古武朔弥は大体いつもあの子と行動しているんだもん。
あたしの腕をつかんだままのモモを、引きずるようにして歩き出す。モモが騒いでいるけど、今はそれに構っている場合じゃなかった。
古武朔弥は誰かと一緒に登校していた。あたしがいる位置からじゃ死角になっていて、その誰かは見えないけれど。喋っている。顔を左に向けて、古武朔弥は確かに誰かと喋っている。
あたしの予想が外れていなければ、古武朔弥の隣にいるのはきっとあの子だ。学校の廊下ですれ違ったとき、あの子が大体隣にいるのをあたしは見てきた。だから――
「ほら、やっぱり」
「……更紗? おい、」
モモの手を振り切った。
そして、大股で、迷いなく、あたしはあの子のもとへ向かう。
心配しなくていいよ、モモ。あたし、古武さんのことはなんとも思っていないから。
――その隣にいる、鮫島さんに用があるんだ。
正門を抜けた二人の後ろ姿に、声をかけた。おはよう、と。それだけじゃ誰に声をかけたのかわからないだろうから、ちゃんと二人の名前も呼ぶ。
二人とも、振り向いた。最初は感情らしいものも特に見えない顔をしていたけど、でもすぐに鮫島さんの表情が変わる。変わるといってもほんの僅かなもので、油断していたらきっと見逃していた。それぐらい小さな変化だ。少しだけ、ほんの少しだけ両の瞳を見開く。そう、ただそれだけの。
「……おはよう」
長い沈黙だった。その末に返ってきた、深みのある落ち着いた声は古武さんのもの。
ああ、さすがって言うべきところかな。毎日名前も知らない女の子から、なにかしら声をかけられているのだろう。だからこうやって対応してくれる。
二人の傍まで歩み寄ると、あたしは唇の両端を吊り上げて笑みをつくった。すると鮫島さんの瞳があたしから逸らされる。ホント、なんていうかあたしのことどこまでも避けてる感じだね。ひょっとして、これ。同属嫌悪ってヤツなのかな。ちょっと違う?
「二人は知り合いなの?」
ここで古武さんがあたしに問うてきた。
鮫島さんから古武さんへと視線を移す。そこであたしの視界に映ったのは、訝しげに眉根を寄せた古武さんの顔。
「……っふ」
少し、笑ってしまった。
おかしいなあ。これってつまり、この一瞬で古武さんに警戒されてしまったと。そういうこと?
あれかな。鮫島さんの態度があんな感じだから、それを見てあたしのことヤバいかもって、古武さん思っちゃったとか?
わからないけど、とりあえずさっきの質問に答えておくことにする。
「知り合いといえば知り合いだと思うよ。ねえ、鮫島さん。鮫島さんはどう思う?」
ただ答えるだけじゃつまらない。だから鮫島さんの意見も求めてみる。
鮫島さんの瞳が再びあたしを捉えた――と思ったら、すぐに古武さんへと向けられてしまう。
でも、だ。
「さあ、どうだったかしら」
初めてだった。鮫島さんが、あたしの前で初めて声を発した。
清水のように透き通った声。それはなんでもない言葉を紡いだって、耳にとても心地好い。
ねえ。あたしさあ、もっと、鮫島さんの声を聞きたい。
「鮫じ――」
「すみません、ホンットにすみません! こいつ、意味わかんないヤツで!」
いやいやいや。待って待って、意味わかんないのはそっちじゃん。ホント待って。
声が聞こえて、腕を引かれて、だから視界がぐん、と揺れて。
引きずられる。ずるずると引きずられて、鮫島さんとの距離がどんどん離れていく。
モモだ。あたしをぐいぐいと引っ張っているのはモモ。小柄な身体のどこからそんな力が出てくるのだろうとか、考えないでもないけれど。いいや、今はそんなことを考えている場合じゃない。
「ちょっとモモ。せっかく鮫島さんと話してたのに、なんでそういうことするかなあ?」
「話してた? バカか、よくわかんないけどおまえ、完全に引かれてたじゃんか! 鮫島さんも古武さんも、なにこの子? みたいな顔してただろ! なにが知り合いだよ、いつどこで鮫島さんと知り合いになったんだよ!」
「それはモモに話す必要なくない?」
「だあーっ、こんにゃろうめ! わかった、じゃあ話さなくていい。いいけど、古武さんがいるところで不思議ちゃんになんないでくれ!」
「別に不思議ちゃんになったつもりもないし」
「ちょっともうおまえ黙ってろ!」
まだ登校していない生徒の方が多い時間帯であるとはいえ、それでもぽつりぽつりとあたしたちの前後を歩く生徒はいるわけで。朝っぱらから騒いでいるあたしたちに視線が集まるのは当然のこと。
「二人とも、ちょっと待って」
果ては呼び止められてしまった。あーあ、騒ぎすぎで怒られるんじゃないの?
モモとほとんど同じタイミングで声がした方に振り向いて、
「「あっ」」
と洩らしたのもほぼ同時。
「ふっ、古武さん!」
モモの声が裏返る。
そう、そこに立っていたのはジャージ姿の古武さんだった。
「おはよう、向笠さん」
「ひゃっ、ひゃい! おは、おはよっ!」
うわあ、それはヤバくない? モモ、古武さんとまともに会話できないレベルじゃん。
「ごめん、二人とも呼び止めて。……あのさ、少し話がしたいんだ」
「ええっ!?」
「あ、いや。ごめん、向笠さんじゃなくて」
「へぁ、」
「……あたし?」
「そう」
そうなのか。
モモががっくりと肩を落として、露骨に落ち込んでいる。その姿を見ると、さすがに申し訳ない気持ちになってしまう。別にあたしから話したいって言ったわけじゃないけれど。
「向笠さんと同じ、一年E組だよね」
「うん、そうだね」
「昼休み、ご飯を食べ終わったら教室に行くよ。構わない?」
「あたしは別にいいけど」
「ありがとう。それじゃあまた、昼休みに」
昼休みに、ねえ。
鮫島さんのもとへ戻っていく古武さんの後ろ姿を見送りながら、彼女があたしとなにを話したいのかと考えようとするけれど、それをモモが許してくれなかった。
唸っている。餌を横取りされた猫みたいに歯を剥き出して。
「なんだよう……おまえ、古武さんとなにを喋るんだ? っていうか寧ろ古武さんと知り合いだったのか?」
「違うってば。古武さんと喋ったのは今日が初めてだし」
「じゃあ、なんで!?」
「知らないってば」
あたしはただ鮫島さんと話したかっただけなのに。
どうしてこうなってしまったんだろう。
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