第1章―2
◇◇◇
放課後。他の生徒が三階へと続く階段に向かう中、あたしはひとり屋上を目指していた。そこはナゴのお気に入りの場所だ。
タン、タン、と階段を踏みしめる。屋上に近づくにつれて、放課後の喧騒が遠のいていく。この感覚が、あたしはとても好き。
五限目は嫌いなチョコを口にしたせいでひどく苛立っていたものの、六限目と七限目を挟むとあたしの苛立ちもほとんどなくなっていた。だからチョコを持ってきたナゴに文句を言うほどでもないかな、とも思ったんだけど、まあやんわりと次からは持ってこないでねって言っておくぐらいはしておいた方がいいかな? とも思ったわけだ。
踊り場を通過すると、屋上への扉が見えてきた。
さて、ナゴはいるかな。寒いから別の場所にいるかな。どこかの教室とかさ。
「よ、……っと」
扉を押し開いて屋上に出ると、十二月半ばの寒風が容赦なく吹きつけてきた。
「さっむいなあ」
びゅうびゅうという風の音が、あたしの鼓膜を揺らす。ウェーブがかった自身のブロンドの髪が、風に流され視界を覆う。それを手で払い、背中に流すと視界に薄墨色の空が飛び込んできた。どうだろう、天気予報では曇りってなってたんだけど、雨とか雪とか降っちゃったりしてね。
鞄を肩にかけ直して、空から屋上へと視線を下げる。
多分、今ここにナゴはいないだろうと思った。屋上に出て、それはほとんど確信に変わった。
けれど、その代わりにあたしは見つけたのだ。
視線の先。あたしの背丈よりも高い縦格子のフェンスを前にして。制服であるダークグリーンのブレザーを、こんなにも寒いのに脱いでしまっている人の後ろ姿。
ゆえに。制服の、白シャツの姿だった。ブレザーは冷たいコンクリートの上に落ちている。
きっと普通であれば、ああ、なんだかおかしな人がいるんだなあと思う状況なのだろう。
だけど違う。彼女は、彼女だけはそんなことを思わせない。
風に靡く艶やかな濡れ羽色の髪の間から、嘘みたいに綺麗な彼女の横顔が覗く。
すぐにわかった。彼女は、その辺にいる普通の生徒じゃない。
――
この学校では有名な生徒。それはその美しい容貌もそうだけど、それだけじゃなくて。
成績優秀であり、スポーツ万能であり、だけどそれを鼻にかけるわけでは決してなくて。
それこそ完璧で、非の打ち所がない人なのだと。
実際そうなのだろう。彼女と同じクラスではないけれど、なんとなくそうなのだろうなと思わせるものを、彼女は持っている。
でも、そんなことはどうだっていい。それだけなら、あたしが彼女に興味を抱くことはなかった。
入学初日に、あたしは彼女を見つけた。そのときに見た夜空みたいな瞳の色と、そこに宿る、この世界を諦めてしまったかのような何かにこそ。あたしは引き込まれたのだ。
あたしが彼女に声をかけたのは、そのときだけ。だけど彼女から言葉が返ってくることはなかったから、もう声をかけることもなかった。
けれど、何度か廊下ですれ違って、その度にあの瞳が気になって。
やっぱり彼女はあたしに似ているんじゃないかって、その思いは確信にも似たものに変わっていって。
多分、心のどこかで彼女と言葉を交わすときを、あたしは待ち望んでいた。
だからこんなにも。今、あたしの胸は高鳴っているのだろう。
一歩、踏み出した。彼女との距離を、少しずつ少しずつ縮めていく。
胸の中心にある自分の心臓が、かつてないほどの速度でどくどくと音を立てている。
唇、その口角が吊り上がる。どうにもいつもの表情を保つことができそうにない。
――いや、だけど。それにしてもだ。
彼女との距離を詰めながら、あたしは考える。
どうして彼女は、鮫島雫はここにいるのだろう。放課後の屋上に、たったひとりで。
ナゴに会うために何度か放課後、ここに来たことはあるけれど。今まであたしは屋上にナゴ以外の人や猫がいるところを見たことがなかった。
彼女もあたしと同じでナゴに会いにきた? ここがナゴのお気に入りの場所だって、彼女も知っていた? それとも。もっとなにか、別のことでここにいる?
あたしは足を止めた。
彼女が動いた。フェンスの、角柱のひとつを左手でつかむ。彼女の視線が、自身の左腕へと向けられる。そのまま、左上腕――肩に程近い部分へと顔を寄せていき。
――一体、なにをするつもり?
答えは、その直後。
「……っ」
息を、呑んだ。
噛んだのだ。自分の腕を。彼女が、あの鮫島雫が。
布越しではある。けれど、確かに歯を立てて。ひたすら、ひたすら噛み続ける。
その姿は、まるで獣のように見えた。飢えた獣。
それなのに、ああ、どうして、そんな姿までも綺麗なものに見えてしまうのか。
眺めていた。その場に突っ立って、あたしはずっとずっと、鮫島雫のその姿を眺めていた。
けれどもだ。どうしたって物事には終わりが訪れるもので、鮫島雫の行為にだって、当然それはやってくる。
黒く濡れた瞳。その瞳が、こちらを捉えた気がした。いや、事実捉えたのだ。
腕を、噛むのをやめる。そうしてゆっくりと、彼女が身体をこちらに向ける。
夜空の瞳だ。それがまっすぐにあたしを見据えて、途端に自分の身体が熱くなる。
期待、していた。彼女と言葉を交わすときがきたのだと。
ゆったりとした足取りで、彼女がこちらに向かってくる。途中、自身のブレザーを流れるような動作で拾い上げ、それからまた何事もなかったかのように歩を進めて。
あと、三メートルほどの距離。
笑みが零れてしまう。だって彼女と話せるのだ。
さあ、なにを話そう?
どうしてここにいるの?
あたしのことは覚えている?
ねえ、なんで腕を噛んでいたの?
あなたはいつから、そんな感じになったの?
手を伸ばせば、もう触れることのできる距離。
視線は変わらず交わっていて、夜空の瞳にはあたしの姿が映り込んでいる。
普段は気だるさを醸し出した琥珀色の瞳をしているのに、今、この瞬間の自分の瞳は強い光を帯びていた。
口を開く。
あなた、鮫島さんだよね? あたしのこと、覚えてる?
そう問おうとした、刹那。
ひときわ強く、風が吹いた。
髪がまた、視界を覆う。
それを手で振り払って、そうしたら。
もう、彼女はあたしの視界から消えていた。
振り返る。すると目に飛び込んできたのは、彼女の後ろ姿。
「鮫島さん!」
ほとんど叫ぶように名前を呼んで、だけど彼女が振り返ることはなくて。
あたしはまた、ひとりになる。ひとり取り残されてしまう。
でも、だ。それでもあたしが不機嫌になることはなかった。
面白いと思った。なんだかあの子、あたしを避けてるみたいだなって。そう思ったら、ひどくおかしくて。
ああ、あたし。あの子のことを知りたい。知りたくて知りたくて、たまらない。
それは欲求のようだった。次から次へと止め処なく『知りたい』が溢れてくる。
「っふ……く……ふふ、あは、……あははっ!」
お腹に手をやって。
そしてあたしは笑った。たくさんたくさん笑った。
こんなに笑ったのはいつぶりだろう? そう思うぐらいに、笑った。
結局屋上にナゴはいなかったけど。
今日、ここに来てよかったなと、心からそう思った。
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