第1章

第1章―1

 いつも思うんだけどさ。あのおじいちゃんセンセー、絶対魔法とか使ってるよね。

 属性は、眠り。世界史の教科書を開いて読み上げている――と見せかけて、なにかの呪文を唱えている。こんな感じでしょ。

 まあね。昼休みが終わったばかりの五限目で、お腹がいっぱいっていうのはあるのかもしれない。十二月半ばで暖房の入った教室、ぬくぬくとちょうど心地好い空間にいるっていうのも、うん。あるのかもしれないけど。

 それでもだ。一年E組、今日は欠席の子がいないから教室にいるのは三十人。そしてそのうちの二十一人が夢の世界に旅立っているんだから、これはやっぱり魔法だよ。普通じゃないんだって。


「……んぅ」


 廊下側の最後列。あたしの現在の席がここだ。

 そして、今聞こえた間抜けともいえる声は、あたしの前に座るモモが眠りながら発したもの。

 向笠むかさ桃乃ももの、あたしの幼馴染。今でこそおじいちゃんセンセーの魔法にかかり、眠りについているけれど。150センチにも満たない小柄なこの子は中々荒っぽい性格をしている。幼稚園の頃は引っこみ思案だったはずなのに、小学校に入学してからこの性格になった。どうしてそうなったのかはわからない。


「んぁー……」


 ああ、また間抜けな声を出した。ついでにがくん、と揺れるモモの頭。

 おじいちゃんセンセーは生徒が寝ようが寝言を連発しようがお構いなしのタイプだけどさ、それにしたって随分と平和だよねえ。平和すぎて、こっちまで眠くなってくる。

 だからあたしはペンケースの中から消しゴムを取り出すと、それをモモの頭にぽーんと投げた。


「ッて!」


 よしよし、後頭部に命中。跳ね返った消しゴムは、そのままあたしの机の上に戻ってくる。


「おかえりー」

「おかえりじゃねえよ。わたしになにをぶつけたんだよ、おまえは……っ」

「んー?」


 後頭部を押さえ、わなわなと身を震わせながらモモが振り向いてくる。

 ぐっと吊り上がった細く短い眉。髪と同じ栗色の目は、普段とってもつぶらなのに、今は怒りで糸みたいに細められている。そしてモモなのにリンゴのように赤いほっぺ。まあこのほっぺは怒ってなくてもいつもこんな感じで赤いといえば赤いんだけど。とにかく、前髪をヘアゴムでちょんまげみたいにしているから、モモの怒った顔はよく見える。


「人の安眠を妨げておいて『んー?』はないだろ、『んー?』は。許せん……絶対絶対ぜーったいに許せん……!」

「えー。でもさあ、授業中に寝る方が悪くない?」

「うるさぁーい!」


 囁くように、こしょこしょと。けれど怒りはたっぷりと滲ませてモモが言葉を続ける。


「しょうがないじゃん、だって世界史だぞ? カタカナばっかりなんだぞ? あの先生だぞ? なあ、お経に聞こえるだろ? 聞こえるよな? わたし以外にもさ、みんな寝てるじゃん!」

「だから寝てもいいの?」


 うぐ、とモモが口ごもる。

 荒っぽい性格してるくせに、なァんか弱いんだよね。この子には負ける気がしない。

 モモはクセのないショートヘアの頭をぐしゃぐしゃと掻くと、「ううぅー」と唸りながら前を向いた。

 はい、あたしの勝ち。別に勝負をしていたわけでもないけど、まあいつも通りの展開か。


「ねえ、モモ」

「うるさい。今授業中だし」

「いいじゃん、別に。っていうかモモ、さっきまで寝てたくせに」

「黙れ」

「ねえ、つまんない。退屈。せっかく起きたんだからさ、なにか面白い話してよ」

「無茶ぶりしてくんなよ! 大体さ、更紗はわたしがなにしたって笑わないじゃんか」

「まあねー」

「……腹立つな、こんにゃろ」


 尻尾を踏まれた猫みたいな顔をして、モモが再びこちらを向く。


「腹が立つならさあ、ほら早く。あたしのこと笑わせてよ」

「ハイハイいいよ、わかったよ。こいつめ、絶対に笑わせてやるから覚悟して――」


 けれどモモがそこまで言ったとき、不意にかりかりとなにかを引っ掻くような音が耳に飛び込んできて、あたしはモモから視線を逸らしてしまう。

 右を見る。視線の先にあるのは窓のすりガラスだ。そして、そのガラスの向こうにはあの子がいた。かりかりと必死に爪でガラスを引っ掻いている。すりガラスのせいであの子の姿はぼやけているけど、でも間違いない。色合い的に、あの子以外の子ではない。


「うげっ」


 あいつ来やがった、みたいなモモの声が聞こえた。

 モモのことは見なくてもわかる。あたしと同じですりガラスの向こうにいるあの子を視界に捉えて、それから目を見開いているのだろう。モモはあの子のことが、とても苦手なのだ。


「更紗、頼むから窓開けんなよ。ホント、絶対に開けちゃダメだぞ」

「ええー」


 そんなこと言われても、ねえ。あたしはあの子のことが大好きなのに。

 自分の唇の端がきゅっと吊り上がるのを感じる。

 窓枠に、手をかけた。


「更紗!」

「大丈夫、あたしがしっかり抱いておくから」

「違う、そういう問題じゃ……わっ、わっ! うわっ!」


 残念、もうオープンしちゃった。

 あたしが開けた窓の隙間から、茶トラのあの子がするっと教室に入ってくる。その際、廊下の寒風も吹き込んできて、教室に少しだけ冷気が混じった。


「ああもう、ホンットにおまえってヤツは……!」


 モモの言葉を無視してひとまず窓を閉め、それからあたしは茶トラに向き直る。


「やっほー、ナゴ」


 あたしが中津ヶ谷なかつがや女子大学附属高校――通称に入学して、最初に見つけた猫がこの子だ。茶トラ猫、名前はナゴで男の子。四年ぐらい前にこの学校にひょっこり現れて、そのときから『なぁーご』って鳴いていたからナゴって呼ばれるようになったらしい。

 ナゴはあたしにとって特別な存在だ。まあ、この学校にとっては別段特別ってわけでもないのだけど。ナゴがくる前から何匹もの猫が学校に住み着いているのだから、猫が学校にいる光景はここでは当たり前なのである。だから、にゃか女。中津ヶ谷――なかつがや――にゃかつがや。

 少し話が逸れてしまったけれど、何匹か住み着いている猫の中で、最初に見つけたのがナゴだったからあたしにとっては特別な子なのだ。そしてそのナゴが今、あたしの太ももに乗っかっているのだけど。


「それ、なあに?」


 おじいちゃんセンセーの呪文に満たされた、教室という名の魔法空間。まだ大多数のクラスメイトが眠っている中で、あたしの目はしっかりバッチリ開いていて、ナゴの口許に釘付けになっていた。

 なんだろう。ナゴがなにかをくわえている。

 と、ナゴが喉を鳴らしてグリーンの瞳をすうっと細める。


「手、出した方がいい?」


 すると当たり前だろ、とでも言いたげにナゴが前足であたしのお腹を猫パンチしてきた。


「ごめんごめん、怒んないでよ。ほら、ナゴ」


 手を出す。掌にぽとり、とナゴがそれを落とす。落とされたそれを、あたしはまじまじと見つめる。


 ――なにこれ。ゴミ?


「いった!」


 あたしの表情から心情を読み取ったのだろうか、ナゴが手を引っ掻いてきた。


「ごめんってば! 違うよね、ゴミじゃないゴミじゃない。えっとー……アメ? チョコレート?」

『なぁーご』


 よくよく見ればそれは宝石みたいなグリーンの包み紙に包まれた、アメかガムかチョコレートか。中身はわからないけど、とにかくなにかのお菓子らしい。


「ナゴ、これ――」


 聞きたいことはたくさんあった。一体これはなんなのか。どこから持ってきたのか。これをどうしてあたしにくれるのか。

 けれどナゴはもう用事は終わったとばかりにあたしの太ももから机の上に飛び乗ると、窓をかりかり引っ掻きだす。

 ナゴはかなり気まぐれで、自分本位な子だ。ナゴのいうことを聞かなかったらどうなるのかを、あたしはよーく知っている。だからすぐに窓を開けて、ナゴの後ろ姿を見送った。

 さァて。残されたのはこの包み紙だ。ナゴの瞳みたいに綺麗なグリーンの。

 そっと開いていく。ナゴがプレゼントしてくれたものだから、破けてしまわないように、丁寧に。

 中身が露になる前に、ふわりと漂ってきたのは甘い香り。あたしにはちょっと、甘ったるすぎるくらいの。アメでもガムでもない。このにおいは、そう。


 ――チョコレートだ。


 まぁるいチョコレート。口に入れたらきっととても甘いのだろう。わかる。想像するだけで唾が出てくる。中にはなにが入っているのか。それともなにも入ってはいないのか。

 はーあ。まあ、どっちでもいいんだけどさ。あたし、その前にチョコレートがめちゃくちゃ嫌いなんだよねえ。甘いもの全般がもう昔からとにかくダメで、できれば口にも入れたくないんだけど。

 でも。でもだ。これはナゴのプレゼントなのである。ナゴと出会って半年以上になるけれど、今までナゴが――あの気まぐれで自分本位なナゴが――こういうプレゼントをしてくれたことは一度もない。一度だってなかったのに、その初めてのプレゼントを嫌いだからって理由で食べないわけにもいかない、と。うん、そんな気がするわけで。


「しょうがない、か」


 つまんだチョコレートをたっぷり十秒間見つめて。それから覚悟を決め、ぽん、と口の中に放り込んだ。

 瞬間。うっ、と息がつまりそうになる。

 甘い。口の中でどろっどろに溶けて、それがしっかりと味覚を支配してくる。

 ああ、なんて。なんて、甘いチョコレートなんだろう。

 泣きたくなる。顔をくしゃくしゃにして、泣きたくなる。

 もちろん、嬉しいからではない。どうしてよりにもよって、ナゴは初めてのプレゼントにチョコレートを選んだのか。なにこれ、実は嫌がらせだった? と、そんな思いからの涙だ。


「おい更紗、おまえ……なに食べてるんだよ。ナゴは?」


 ナゴがいる間、身を縮こまらせていたモモがそろりそろりと振り向いて、ナゴがいなくなったことを確認するなりそんなことを尋ねてきた。

 あたしは答えない。口の中にある甘ったるいチョコレートを胃の中に流し込もうと必死なのだ。もう、本当に必死。


「なあ、更紗ってば。っていうかこのにおい、えっ、なに? チョコレート? いや、そんなまさか、違うよな。だって更紗、チョコレートとか甘いの嫌いだし」

「うるっさいなあ、もう黙っててよ。あたしだってチョコなんか食べたくないし。でもナゴが持ってきたんだもん」

「ナゴが? えっ、どういうこと?」

「自分で考えてよ」

「はあ? 自分で、って」


 ああ、もう。口の中どろどろだし甘々だし最悪。ホンットに最悪だ。

 なんだかイライラしてきた。甘いものはイライラを抑える効果があるとかないとか、なにかのテレビ番組で見たことあるような気がするんだけど。あれ、絶対嘘じゃんね。

 やっぱりチョコなんて食べなきゃよかった。

 破けないように丁寧に開いたグリーンの包み紙。それを机の上からつまみあげると、あたしはぐしゃぐしゃに丸めてしまう。

 引っ掻かれてもいい。あとでナゴに文句を言いに行こう。

 そんなことを、考えながら。

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