つまらない世界からの贈り物。

杜奏みなや

プロローグ

プロローグ

 なんだかさあ、みぃんなキラキラした顔してるねえ。

 今日からあたしは高校生です。真新しい制服に身を包んで、ちょっと大人っぽくなって、同じ中学だった子は周りにあんまりいなくて、新しい友達ができるかもしれなくて。だからドキドキワクワクしています。うん、そんな感じ?


「いいねえ。とっても楽しそうだねえ」


 あたしが零した言葉にはまるで感情というものが籠もっていなかったけど、まあ別にいいよね。間違いなく誰の耳にも届いていないんだし。

 なぜって、みぃんな自分のことで頭がいっぱいになっている。早い子は今日、入学初日にして新しい友達ができていて、その子と仲良くなるために必死。まだ友達ができていない子はこれからどうやってクラスに馴染もうか、なんて考えつつ、頭の片隅ではこれからできるであろう新しい友達と笑い合っている自分の姿を忙しなく想像しているのだ。

 誰も彼もがそうしてこれからのことにキラキラと目を輝かせてるっていうのにね。そんな中で、きっとあたしだけがつまらなそうな顔をしてるんだろうな。


 ――まあ事実、つまんないんだけど。


 ふうっと息を吐いて、上を向く。するとバチッと目が合った。宝石のような、グリーンの瞳。


「……へえ。やったじゃん」


 自分の唇、その両端がきゅっと吊り上がる感覚。

 ここは中津ヶ谷なかつがや女子大学附属高校――その校舎の四階だ。四階は一年生の教室が六クラスと、それから女子トイレのみで構成されている。いや、のみってことはないか。屋上へと続く階段がある。ついでに言うと、三階に続く階段も。そしてあたしは今、屋上に続く階段、その下から五段目の位置に腰を下ろしているわけだけど。

 見つけた。まさか入学初日から会えるだなんて、そんなこと全然期待していなかったのに。


「おーい、こっちこっち」


 手すりからちょこんと顔と前足を出して、じぃっとあたしのことを見下ろしているその子に手招きしてみる。


『なぁーご』


 わお、可愛い顔して思ったよりも低い声。ていうかこっちに来てほしいんだけどな。


「ねえ、こっち。おいでってば。それからおまえ、名前はなんていうの?」

『なぁーごぅ』

「うん?」


 もふもふ、というよりは結構シュッとした顔立ちの子だ。男の子ならイケメン、女の子なら美人で間違いない。

 のその子に手を伸ばす。ここからじゃ届かないってわかっているけど、あたしはあなたに興味があるんだよって。そんな感じで、そう、伸ばしてみたら。はもう一度低い声で鳴くと、グリーンの瞳を糸のように細めてみせた。

 相手は猫である。オレンジの体毛に、茶色のトラみたいな縞模様を持つ、茶トラ猫。

 あたし、目崎めざき更紗さらさは人間だ。もちろん、猫の言葉なんてわからない。だけど、ひとつだけ。茶トラの態度から確信はした。


「そっか。おまえ、こっちに来る気はないか」


 気づくのが遅すぎるぞ、とでも言うように茶トラが鳴く。

 うーん、それならしょうがない。一応あたし、トイレに行った幼馴染のこと待ってる立場なんだけどね。絶対勝手に帰るなよ、っていうかここで待っとけよ、って散々釘を刺されたんだけどね。でもまあ、うん。しょうがない。あたしはそれよりも茶トラの方が気になるんだもん。

 腰を上げて、制服のスカートを幾度か手で払う。それから茶トラがいるところへ向かおうと身体の向きを変えかけたところで、また目が合った。


 グリーンの瞳じゃない。今度は、黒だ。そして人間だ。


 一瞬、呼吸を忘れてしまう。

 茶トラと話している姿を見られてしまったかもしれないだとか、そんなことはどうだっていい。どんなに周りに人がいようが、あたしは構わず猫には声をかける。そんな人間なのだから。


 なら、どうして?


 濡れ羽色というのだろうか。腰に届くぐらい長く艶やかな髪を持つその人は、とても綺麗な顔をしていた。髪とは対照的に、雪のように白い肌。すうっと通った鼻梁、桜色の薄い唇。そして長い睫毛と、黒く濡れた瞳。

 その、瞳だ。どこまでもどこまでも黒く、冬の夜空を思わせる瞳。それはとても澄んだ色をしているのに、だけどどこか憂いみたいなものを帯びていて、なんだかこの世界を諦めてしまったかのような。大袈裟なんかじゃなく、あたしにはそんなふうに感じられて。


 似ているのかもしれない、と。この僅かな時間で、そう考えた。

 この子は、もしかしたら。他の誰でもない、あたし自身に。だからきっと、一瞬とはいえ呼吸を忘れてしまった。


 階段の、下から五段目の位置に立つあたし。そのあたしを、下から見上げる彼女。

 他の生徒たちは、あたしのこともその子のことも見えていないかのように、三階に続く階段へと向かっていく。


 ――あたしたちだけが、まるでどこか別の世界に取り残されてしまったみたいだ。


 そんなことを考えると、少しだけおかしくなってきた。おかしくなって、そうしたら試したくなってしまって、


 ――だから、あたしはとんだ。


 ズダン、と音がした。

 決して軽くはない衝撃が、足に走った。

 でも、別に平気。だってそれだけのことだし。

 それよりも、だ。さっきまであたしたちのこと、誰も見てなかったのにね。急に視線が集まった。どこか別の世界にあたしたちが取り残されていたわけではなかったらしい。まあ、当たり前といえば当たり前なんだけど。

 あたしのことを見上げていた彼女は今、あたしの目の前にいる。背丈はほとんど変わらない、けど多分、少しだけ彼女の方が高いかな。

 あたしは瞳を細める。そうして笑みを浮かべてみせる。


「はじめまして」


 あたしの声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。

 けれど、目の前にいる彼女は笑みを返してくることもなく、視線を逸らすと歩き始める。あたしのことが見えなくなったみたいに、もう振り返ることもなく三階に続く階段へと向かってしまう。

 あたしと彼女の距離はあっという間に広がって、ついに彼女の姿が見えなくなった。

 視線が、あたしから散り始める。足を止めていた生徒たちが、再び歩き始める。


「もう。いいじゃん、ちょっとぐらいさあ」


 零した言葉はもう誰の耳にも届いていない。

 あーあ。またひとり。せっかくさ、似ているのかもしれないって。そんな人を見つけたのに。少しぐらい相手してくれたっていいじゃんねえ。

 まあ結局のところ、あたしが一方的にそう思ったに過ぎないってことなんだろうけど。


 ブロンドに染めた髪が、いつの間にか自分の胸元に垂れていた。緩いウェーブのかかったそれを一度手の甲で払い、背中に落としてから、あたしは今度こそ階段をのぼり始める。そうして茶トラのもとへ。

 タン、タン、と階段を踏みしめる音。踊り場をさっさと通過して、それからまた階段をのぼっていく。徐々に薄れていく、喧騒。

 程なくして、光が見えた。屋上に続く扉はすでに開ききっていて、そこから眩い陽光が差し込んでいるのだ。茶トラの姿は見えないから、もう屋上に飛び出していったのだろう。なんだか茶トラにさ、あたしが招かれてるみたい。

 あたしも光の中に飛び込んでいく。するとちくちくと光が目を刺してきて、思わず瞼を伏せる。


『なぁーご』


 あっ、茶トラの声。


「ごめん、まだ眩しいよ」


 だから目を開けられそうにないんだけど、茶トラはお構いなしに何度も鳴く。早く目を開けろと、まるで急かすみたいに。

 ゆっくりと、瞼を開く。やっぱりまだ少し眩しい――けど、さっきよりは幾分かマシか。

 茶トラはあたしの視線の先にいた。屋上の、あたしの背丈よりも高い縦格子のフェンスの上。そこに座り込み、細く長い尻尾をゆらゆらと動かして『なごーぅ』と鳴く。

 その茶トラの後ろには青い空が広がっていた。雲ひとつない、それは澄んだ、澄み切った青。


 ――違うね。澄んでいたけど、この空とあの子は全然違う。


 なぜだか思い出していた。さっきの、あの子のこと。

 違うのは当たり前。だって今、茶トラの後ろに広がるあの空は青い。あの子の瞳の色は、夜空みたいだった。青と黒じゃ全然違う。そんなこと、わかっているのに。


「……ん、」


 思考の海に溺れかけていたあたしを、現実に引き戻したのは茶トラだ。ひどく不機嫌そうな顔で、それから同じぐらい不機嫌そうな声で、鳴いている。


「ごめんごめん。せっかくさ、招待してくれたのにね。ここ、もしかしなくてもおまえのお気に入りの場所なんでしょ?」


 四月上旬、春の風はとても優しい。この世界はなんてつまらないんだろう、なんて思っているあたしのことも穏やかに撫でてくれるのだから。

 そんな優しい風に撫でられながら、あたしは茶トラへと歩み寄る。その距離が限りなくゼロに近づいても、茶トラは逃げずにそこでじっとあたしを見つめている。


「ねえ。これからもあたし、ここに来てもいい?」


 右手を、ゆっくりと茶トラに伸ばした。フェンスの上に座り込んだままで、けれど茶トラはあたしの右手に鼻を近づける。くんくん、と確かめるようににおいを嗅いで。そしてあたしの指を舐めた。ざらざらの、舌。


「ありがとう」


 喉元をかりかりと指で掻いてやる。するとゴロゴロと満足気に、茶トラは喉を鳴らすのだ。


 ――これはまだ、あたしが遠くばかり見ていた頃の話。

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