女を勝ち取る喜びは

 ある日の昼過ぎ。

 ヴィオレットをホテルへ送り届けたハリーは、行きつけのカフェへ寄り、遅めの食事をとっていた。

 耳にはヴィオレットの甘い声が、腕には体温が、くちびるにはくちびるの感触が残っている。

 そのすべてがハリーをしっとりと酔わせ、とてもいい気分だった。


 店内にいる誰よりも、通りを歩く誰よりも、ハリーは幸福なのだ。優越感と共に込み上げてきた笑みを必死でこらえた。油断すれば、一人でにやにやとしてしまう。


「なんて締まりのない顔をしているんだか」


 唐突に声を掛けられ、愉悦に浸っていたハリーは我に返った。

 いつの間にか、ハリーの向かいにエドマンドが立っていた。金色の目には呆れ返ったような色が浮かび、口元は固く引き結ばれ、明らかな不快感を示していた。


「……エド、マンド」


 呆然と友の名を呼んだが、返事はなかった。勝手に対面の席へ腰掛け、給仕になにかを頼んでいる。


 エドマンドがついぞ見たこともないような仏頂面をしている理由を、ハリーは即座に察した。ヴィオレットにのぼせて、仲介人である彼をずっと放置していたから――ではないだろう。


 ハリーが、ヴィオレットを我が物としたからだ。


 ヴィオレット本人から聞いたのか、はたまたハリーの態度を見て察したのかは定かでないが、なんとなく後者であるような気がした。


 エドマンドは以前、『君の恋路を応援する』と言ってくれたが、やはりわだかまりはあったようだ。

 ハリーは後ろめたさに目を伏せる。


 しかし直後に込み上げてきた感情は、まごうことなき優越感だった。

 『女を勝ち取る喜び』とはここまで強烈な快感なのかと、感動さえ覚えた。エドマンドに勝利宣言をして、敗北感にまみれた顔を拝してやろうかとさえ思った。


 ――私はなんと醜悪なことを考えて……。

 ハリーは己の思考を恥じた。自己嫌悪と罪悪感に深い息を吐き、エドマンドに視線を向ける。


「その……エドマンド」


 けれど、友人の顔に怒りはなかった。いつもの彼らしい柔和な目をして、ハリーを見つめ返してきている。


「ああハリー、まったく君ときたら。『自分は世界一の幸福者です』と言わんばかりの顔をして。こっちの調子が狂ってしまうよ」


 声音は穏やかで、胸裏に憎悪を隠しているようには思えない。

 ただ、瞳には一抹の寂寥せきりょうが浮かんでいて、それを必死で押し留めているようにも見えた。


「本音を言えばね、ぼくはヴィーのことが好きだ。ぼくに恋を教えてくれたのか彼女で、彼女のために一生を捧げてもいいと思っていた」


 エドマンドの物言いは寂然じゃくぜんとしていたが、ゆえにハリーの胸を打った。いや、突き刺した。それはエドマンドなりの反撃なのだろう。重石おもしであり、呪いであるのだろう。

 しかし、エドマンドの口元には穏やかな笑みが浮かんでいる。


「だから、彼女が幸せならばそれで構わないし、彼女に幸せを運んでくれる男がぼくの親友なら、願ってもない」

「……本当に、祝福してくれるのか」


 すがるように尋ねると、エドマンドはわずかに顔をしかめた。だがすぐに表情を緩め、おどけるように肩をすくめた。


「功労者には、褒賞が必要だろう? 期待しているよ」

「……ああ、必ずいつか、君に報いる」


 ハリーはエドマンドの懐の大きさに深い敬意を抱いた。恋人を得た代償に、気の良い友人を失うなんてあまりに悲し過ぎる。そうならなかったことを、神に深謝した。


「ところでエドマンド……。ヴィオレットは、何者なんだ?」


 ハリーは食事を再開しながらエドマンドに尋ねる。


「君の幼馴染ということは、同郷ということかな? 君の近親者なのか? 私などと遊び回っていて、問題ないのだろうか。奔放な女性だということはわかっているが、御両親、もしくは後見こうけんの方はどうお考えなのか……」


 胸の奥底に沈殿していた不安を次々にぶつけると、エドマンドは明らかな動揺を見せた。


「……ヴィーからは、なにも聞いていないのか?」


 戸惑いに満ちた声。ハリーの憂いはますます強くなり、強張った表情で頷く。


「何度か、尋ねようと思ったんだ。……けれど、彼女の美しい顔を見ていると、すべてがどうでもよくなって、いつも聞かず仕舞じまいになってしまう」


 そう、ヴィオレットの宝石のような黒瞳こくどうに見つめられると、頭がふわふわして、彼女の素性なんてどうでもいいから、今日も目一杯楽しもう、なんて気分になってしまう。


「そうか……」


 と、エドマンドは小さく息を吐いた。安堵の吐息であることは間違いなかった。

 相当な訳ありか、とハリーは気が気でない。

 不安は不安を呼び、エドマンドへと更なる懸念をぶつけてしまう。


「彼女といると、不思議なことが多いんだ。世界に二人といないような美女を連れ歩いているというのに、誰も私に注目しない。先日、二人でいるときにクレマンに声を掛けられたが、あの女好きは彼女に軽く挨拶しただけで、見惚れることさえしなかった」

「――ハリー」


 諭すように名を呼ばれ、ハリーは困惑しながらエドマンドを見た。彼は目を細め、困ったように微笑んでいる。

 なぜそんな表情をしているのか、ハリーは必死に友人の心の内を探ろうとした。彼の金色の瞳を真っ直ぐに見据えて、問い詰めようと口を開いたが……。


 ……気付いたときには、エドマンドと並んで大通りを歩いていた。

 いつの間に、と吃驚きっきょうして周囲を見回す。


「どうしたんだハリー」


 エドマンドが呆れたような声を掛けてくる。


「エドマンド、私はいつの間に食事を終えたのだ?」

「ああ、しっかりしてくれハリー。ヴィーのことがショックだったんだろう。でもそんなに深く悩むことはないさ。いつもと変わらず接してやってくれ」

「……うん? ……ああ」


 そういえばそうだった。エドマンドからヴィオレットの素性を聞いて、予想外のことに唖然としたのだった。


 ――妾腹の子だったのか。

 さる貴族の落胤らくいん。正妻に邪険にされている分、父親にはたいそう甘やかされているとか。


 しかし、話の内容を半分も覚えていない。どこの貴族なのかさえ記憶に残っていなかった。

 驚きはしたものの、そこまで衝撃を受ける話でもないような気がする。金持ちが愛人との間に子をこさえるなんて、そこら中に転がっているような話だ。


「なにも聞かなかったことにするという約束は守ってくれよ」


 エドマンドの苦い声が聞こえた瞬間、『まぁいいか』という気分になった。

 だからただ、


「ああ、わかった」


 とだけ答えたのだった。

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