春は目覚めて

 翌朝、ハリーはヴィオレットの身動みじろぎによって目覚めた。

 きつく抱いて寝ていたのだが、彼女にはそれが負担だったらしい。ハリーが腕を緩めると、するりと抜け出していった。それから身を起こして、猫のようにしなやかな伸びをする。


 ハリーは寝ぼけまなこを懸命に見開いて、女の肢体を凝視した。乱れた髪と気怠げな表情に昨夜の名残を感じ、一息で目が覚める。


 ――ああ、本当に彼女を抱いたのか。

 窓からは柔らかい朝日が差し込んできており、まるで祝福の光のようだった。


 ヴィオレットの大きな目は、いつもの三分の一程度に細められていたが、ゆっくりと動いてハリーを捉えた。目が合った瞬間、どちらからともなく微笑む。


「おはよう、ハリー」

「おはようございます、ヴィオレット。身体は大丈夫ですか」


 いろいろな意味を込めて尋ねると、女はくすりと笑う。


「あら、気遣ってくれるの。もう用済みだと言って追い払われたらどうしようと思っていたわ」

「そんな馬鹿な。むしろ、二度と帰さないと言って困らせてしまいたいくらいです」


 ハリーも上体を起こして、ヴィオレットを抱き締める。愛しい女の体温を堪能しながら、彼女に後悔の色がないことを悟って心底安堵した。

 間近で顔を見つめると、わずかにくちびるを突き出してくれたため、遠慮なくキスをした。


「ヴィオレット、昨夜は言うのを我慢しましたが、もう一つお願いがあるのです」


 目を見つめながら訴えると、女は『あら』と首をかしげる。


強突ごうつりね。言ってごらんなさい」

「……私に、『ヴィー』と呼ぶ権利をくださいませんか?」


 ヴィオレットは驚いたようにまばたきする。予想外の願いだったのだろう。


「あなたの幼馴染のように、あなたを親しげに呼びたい」


 未だ、エドマンドへの嫉妬が胸の中に在った。その願いが叶わなければ、ハリーは真の意味でヴィオレットを勝ち取ったとは言えない、そんなふうに考えていた。


「いいわよ」


 ヴィオレットはさも愉快そうに口角をつり上げる。しかし黒い瞳の中には、優しい光があった。


「律儀に許可を求めるなんて、可愛いひとね。でも正解よ。私の許しのない者から愛称で呼ばれるのは、大嫌いなの」


 おおよそ想定通りの答えが返ってきたため、ハリーは笑わずにいられなかった。


「そうでしょうとも。そうおっしゃると思っていた」

「なんですって」


 ヴィオレットはムッと口を尖らせ、ハリーの額を弾いた。細い指から繰り出された折檻せっかんは思いのほか強烈で、ハリーは患部を押さえて呻く羽目になった。

 犯人は、『してやったり』とばかりに笑んでいたが、やがて、脱力したようにハリーへしなだれかかる。


「私のことを愛称で呼ぶのなら、その堅苦しい話し方も改めてくれる?」


 『え?』と呆けた声を返すと、ヴィオレットは言葉を続けた。


「親しげに名を呼んで、親しげに話し掛けてちょうだい。……だって、その方が『私たちの関係』に相応しいでしょう?」


 と見上げられたが、まだ返事ができなかった。


「ハリー、あなたは私を愛していて、私もあなたを愛している。そして、一晩共に過ごした。こういう関係を、なんというのかしら」


 なまめかしい囁きと共に、ヴィオレットはハリーの胸板を指先でくすぐる。官能的な仕草にどうにかなってしまいそうだったが、ハリーは辛うじて理性を保ち、戸惑いつつも答えを口にした。


「……こ、恋人ですか」

「……そう、ね」


 ヴィオレットは望んだ答えを得てホッとしたようだった。そのさまがあまりにいじらしく、ハリーは衝動に任せて彼女をきつく抱き締める。


「ヴィー……本当に、私のような男を愛していると?」


 引き絞るような声で問うと、女は呆れたように笑った。


「そう言ったでしょう。いい年をした男がひざまずいて懇願するものだから、つい哀れんで嘘を言ったとでも思っているの?」

「あれが演技だったら、あなたは一流の女優になれる。……私だって、あなたを欲望のまま貪りたい一心で、その場しのぎの愛を囁いたに過ぎないかもしれない」


 今までの仕返しとして意地悪なことを言ってみたが、ヴィオレットは怒るどころか悲しげに眉を歪めた。


「……もしそうだったなら、私は川に身を投げるわ」

「ああヴィオレット……、ヴィー。すまない、残酷な言葉であなたを翻弄しようとした。愚かな私を許してくれ」


 懇願して頬を擦り寄せると、ヴィオレットは静かに微笑む。


「いいのよハリー。たまにはそういう戯れも必要だわ。いつも甘い言葉ばかりでは、胸焼けしてしまうもの」

「加減が難しいな」

「これから覚えて」


 そう言って与えられたキスがあまりに情熱的だったものだから、ハリーは昼過ぎまでヴィオレットを放さなかった。


***


 二人の蜜月が始まった。


 あれだけ気まぐれな態度でハリーを玩弄がんろうしたヴィオレットは、すっかり恋する乙女のようになり、ハリーに熱い眼差しを向けてくれるようになった。

 昼間からはばかることなく愛の言葉を囁いて、夜はそれを証明してくれた。


 そして、いろいろな『顔』を見せてくれた。

 少女のような無邪気さに、姫君のような淑やかさ。

 川辺に咲く野花を愛でる純真さ、街角の娼婦を哀れむ慈悲深さ。


 その一方で、子どものはしゃぐ声は耳障りだと顔をしかめ、靴に泥が跳ねたと言っては機嫌を損ねた。品のない冗談も好んだ。

 美貌を褒めると満足そうに笑うくせに、背の高さや線の細さに言及するとくちびるを尖らせた。


 居間の置時計の送り主をしつこく聞きたがり、とある貴族のご婦人からの貰い物だと知るや否や、事故を装って床に落とした。


 道端でハリーに声を掛けてきた女性の素性を事細かに知りたがり、『誓ってただの友人だ』と答えたが、翌日からはその道を避けて大回りすることになった。


 これこそがヴィオレットという女なのだろうと、ハリーはますます彼女を愛した。この熱い感情に上限などなかった。


 ハリーが今まで『愛』だと思っていたものは『愛』ではなかった。ヴィオレットが与えてくれるものこそが『愛』であり、ハリーがヴィオレットに注ぐものこそが『愛』だった。


 今日こそが人生で一番幸福な日だと思った翌日には、また同じことを思った。そのまた翌日には、同じことを思った。


 神がヴィオレットをこんなにも美しくお造りになったのは、ハリーのため。そんな大それたことさえ考えた。

 ヴィオレットのくちびるがあんなにも赤くふっくらしているのは、ハリーがキスするため。瞳が煌めいているのは、ハリーを映すため。指先がひんやりしているのは、ハリーが包み込んで温めるため。


 すべてが神の祝福に違いない、そんな傲慢な思考さえ、妄想ではなく真実なのではないかと思った。

 まさしく『我が世の春』だった。




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春は目覚めて:サン=サーンス「サムソンとデリラ」より

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