誰も寝てはならぬ

「……嫌よ」


 ヴィオレットの口から発せられたのは、直接的な否定の言葉。あまりのショックに、ハリーの心は粉々に砕けてしまいそうだった。

 だが――。


「言わなくてもわかるでしょう。恥ずかしいわね……」


 次いで聞こえた、小虫の羽音のようにかすかな声。じっと見つめてみれば、形の良いくちびるは小刻みに震えていた。


 ――このひとは、照れているのか。

 さんざんハリーを玩弄がんろうしてきた女が、恥じらって身を縮めている。それに気付いたとき、胸の内から間欠泉のように感情があふれ出した。


 それは、春の日差しのように温かいのに、夏の太陽のように身を焦がす激情。千言万語せんげんばんごを費やしても表現し尽くせぬ愛慕。

 抑えきれぬ歓喜は、ハリーの顔に満面の笑みを浮かべさせた。


「ヴィオレット、言ってください」


 浮かれた声で急かすと、ヴィオレットは駄々をこねる子どものようにそっぽを向いた。


「いや!」

「では我慢比べといきましょう。私はこのままいつまででも、あなたが恥じらう顔を見ていられますよ」

「馬鹿じゃないの。帰るわ」

「帰しません。少なくとも、朝までは」


 ハリーはヴィオレットの耳朶へ触れた。そこにある白い耳飾り、三日前にヴィオレットが示した、無言の愛へと。

 愛撫するようにくすぐっていると、ヴィオレットは渋々といった様子でハリーへと向き直った。


「……朝までこのままというのも、時間の無駄ね。仕方ないから、言ってあげるわ」


 わざとらしい咳払いのあと、不機嫌そうに尖っていたくちびるが緩んでいく。


 やがてヴィオレットの口元に宿ったのは、聖母のような笑み。大きな目は、緑児みどりこを眺めるように細められた。

 ハリーに高名画家ほどの絵心があれば、ただちに筆を執って、眼前の女の肖像を描出びょうしゅつしていただろう。それが叶わなかったこと、まことに口惜しい。


「ハリー……」


 囁かれた名は、蕩けそうなほどに甘い。

 こちらを真っ直ぐに見つめるヴィオレットの瞳は、吸い込まれそうなほど美しく、愛と慈しみに満ちていた。


「私も、あなたを愛している……。一目見たとき、運命だと思ったの」


 直後、ハリーの胸に光があふれた。


 神が『光あれ』と唱えたときでさえ、ここまで美しく清々しい光が地を満たしただろうか。

 神は光と闇を分けたが、ハリーの胸にはほんのわずかな闇さえなかった。

 神は光を昼と呼んだが、ハリーの胸にあるのは幸福と勝利の光だった。


 世にはばかる有象無象の男たち。彼らの誰か一人でも、ここまで強く眩しく、無垢な光を感じることがあっただろうか。

 ハリーは確信した。今この瞬間、己こそが世界一の幸福者だと。すべての男の上に立つ勝利者だと。


「ああ、ヴィオレット!」


 ハリーはヴィオレットを抱すくめると、顔中にキスを散らした。

 額だの瞼だの、いろいろと『順番』を考えていたはずだが、もはやそんなことどうでもよかった。ただ思うがまま、女に愛を伝えた。


 最後に薔薇色のくちびるを奪う。薄い花弁をつまむように、優しく、なよやかに。やがて互いのずいが先端を探り当て、様子見のように突き合ったあと、深く絡め合う。


 しばらく夢中でキスをしていた。

 ふと我に返ったとき、ハリーは身体の下にヴィオレットを敷いていた。

 ヴィオレットは寝台に背を預け、ぼんやりとハリーを見上げて来ている。それは、男にすべてをゆだねることを決意した、無防備な女の姿だった。


 しとねの上には女の長い緑髪くろかみが広がっており、まるで黒い翼のよう。こんな天使に導かれるのなら、愛欲者の地獄へ堕ちても構わない。


 再び、激情に駆られるままにキスをした。今度は首筋やデコルテ、心臓を守るささやかな膨らみへも。


「……カーテンが開けっぱなしよ」


 不意にヴィオレットがつぶやいた。寝台脇の窓を見遣れば、確かに開いたまま。

 けれどハリーにとって、カーテンを閉じる数秒程度の手間が惜しかった。二人がはなばなれになるほんのわずかの時間が惜しかった。


「このままでもいいですか?」


 囁きで耳をくすぐると、ヴィオレットは小さく身を捩ってから言った。


「いいけれど……星が見ているわ」

「構いません。星座になった英雄たちに見せつけるのも悪くない」


 するとヴィオレットは呆れたように苦笑した。


「あなたってたまに……いいえ、しばしば、すごく酔ったようなことを言うわね。――でも、耳に心地よいわ」

「ならば、あなたが飽きるまで言い続けます」


 しかし、これ以上の言葉が交わされることはなかった。ハリーはヴィオレットの身体の隅々を堪能するのに忙しく、おしゃべりすることをすっかり忘れてしまった。


 代わりに目を見開いて、耳をそばだてる。

 薄暗い部屋の中、女の白い肌は発光しているのではないかと思うほどにまばゆく、ハリーの脳裏に焼き付いた。

 しんとした空間に響く声は赤子のようにいとけなく、いつまでも耳の奥に残った。


 もう一つ、記憶にこびりついたのは、『神秘』の優しい温もり。

 太古、無花果いちじくの葉によって隠されていた神秘。それは今宵、天鵞絨ベルベットのように滑らかな漆黒のヴェールで覆われていた。


 ベルベットの蕩けるような手触りを、神秘を通じて伝わる体温を、ハリーは一生忘れないだろうと思った。




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誰も寝てはならぬ:プッチーニ「トゥーランドット」より。勝利を確信した男が歌うアリア。

CMだけでなく、フィギュアスケートでも多くの選手が使用しているため、おそらく一度は耳にしたことがあるかと思います。ご存知の方は、脳内で再生しながらお読みください。



愛欲者の地獄:地獄の第二圏。愛欲に溺れた者が、荒れ狂う嵐にさらされる。

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