降り来よ、愛の夜
いつも一人ぼっちで眠っている寝台に、今宵は女神が座している。
緊張のあまり、ハリーの胸はムカムカし通しだった。これから始まることを考えるとあまりに恐ろしい。
初めて交易船に乗ったときだって、こんなにもひどい吐き気を覚えたりしなかった。激しい嵐に遭遇しても、こんなに恐怖を感じたりしなかった。
ヴィオレットに、ほんのわずかでも失望されたくない。『手順』を誤って、ヴィオレットに嫌われることがあったらどうしよう。
キスだって、どうやっていいのかわからなくなった。額からしたらいいのか、瞼か、頬か。彼女の蠱惑的なくちびるには、いつ、どんなふうに口づけたらいいのか。
もうなにもかもがわからない。
だからハリーは、寝室から逃げ出して来てしまった。ヴィオレットを放置して。
居間の中をうろうろと歩き回り、意味もなくカーテンを開けて星空を眺めてみたりした。
星座になった英雄たちも、愛しい女との初夜には身を
――もしかして、途中で
そう思い至った瞬間、さぁっと血の気が引いた。そんな事態になったら、一生立ち直れないし、ヴィオレットに合わせる顔がない。
「どうしたのハリー」
唐突に声を掛けられ、ハリーは
平静を装って振り返ってみれば、ヴィオレットが寝室の扉から頭を出していた。
彼女はひどく取り澄ました顔をしており、
先日言っていた、『善良でも貞淑でもない』とはそういうことだったのだ。
そう思うと、ハリーの緊張もだいぶ和らいだ。
「一人にしてすみません。戻ります」
紳士的に語り掛け、ヴィオレットを寝所へ押し戻した。
このまま強引に抱きすくめて、乱暴なキスをしても許されるかもしれない。そんな邪念が湧き上がってくるが、ヴィオレットを
ハリーは切望している。愛する者へ、最高位の礼儀を尽くしたいと。二度と忘れ得ぬ、とびきり素敵な夜にしたいと。
「ヴィオレット。一つ申し上げておきたい」
ヴィオレットを寝台に座らせると、その前に
「この部屋には誰も招いたことはありません。神に誓って」
何人ものご婦人が、なんとしてでもハリーの寝室へ入りたがったが、最後の砦は守ってきた。すべて、いつか現れる最愛のひとのため。
女々しい夢想だと思っていた。いつか運命のひとが現れるなんて、ロマンティックな乙女の夢のようだと。
けれど、ハリーの目の前に顕現した。運命という言葉を余すところなく体現した女が。
運命が、ひとの形を取って現れたのだ。
ハリーはうっとりとヴィオレットを見上げた。ヴィオレットもハリーを見つめてくれているが、なにかを思案しているようだった。
「……私も、この寝室と同じよ」
静かに紡がれたヴィオレットの言葉に、ハリーは大きく目を見開く。女の口元には、儚げな笑みが浮かんでいた。
「たくさんの男が、とびきり高価なプレゼントを
「それは……」
呆然としていると、ヴィオレットの指先がハリーの頬に触れた。彼女は、ほんの少しだけ眉尻を下げている。いつも傲然と笑んでいた女が、わずかな
「……信じてもらえるかはわからないけれど」
「信じます、我が運命のひと」
毅然と答えると、ヴィオレットは安心したように笑みを濃くする。緩やかな弧を描く紅色のくちびるは恐ろしく魅力的で、ただちに奪い取ってしまいたかった。
けれどハリーの心に、とある願いが湧いてきた。その願いはきっと、今この場でしか叶うことがないだろう。
「ヴィオレット。もう一つだけ、よろしいか」
「あら、ずいぶん
「それがお望みでしたか」
「いいえ。そんなことになったら、思い切り張り倒す準備ができていた、というだけの話よ」
「だと思った」
ハリーが口元を緩めると、ヴィオレットも顔を
「ヴィオレット、私はまだ、あなたから肝心の言葉を聞いていない」
「え?」
ヴィオレットはきょとんとして、目をまたたかせる。ハリーは女のひんやりとした手を強く握り、切実に訴えかけた。
「私はあなたを愛している。ではあなたは、私のことをどう思っていらっしゃいますか」
「それは……」
ヴィオレットは大きな目をそっと伏せた。長い睫毛が彼女の感情を覆い隠してしまい、ハリーは胸が潰れるような思いを味わった。
けれど気持ちを奮い立たせて、ひたすらに女の答えを求めた。
「その言葉を頂けなければ、私はあなたと先へ進むことができない。その勇気が出せない。惰弱だと罵られても、私は明確な言葉が欲しいのです」
室内に沈黙が満ちた。
静寂はハリーの心を締め付けたが、これ以上の催促は無粋に過ぎるだろう。覚悟を決めてヴィオレットの返答を待った。
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降り来よ、愛の夜:ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」より
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