私の心はあなたの声に開く 2

 この二週間、ハリーは初心うぶな少年のようにはしゃいでいただけだった。愛しい女の隣にいるだけで満足して、愛を囁くことなどしなかった。

 むしろ、怖れていた。愛を告げ、それを拒絶されることを。


 その怠慢と怯懦きょうだを、ヴィオレットは優しく叱咤しったしているのだ。


 ハリーはたまらずヴィオレットの前に膝をついた。

 先ほど赦しを請うたときのように、白魚のような手を取って、今度はくちびるを押し付ける。


「ああ、ヴィオレット。なんて慈悲深い方。こんなにも愚かしい男を許してくださるなんて」


 女を見上げると、至極満足そうだった。

 この二週間、ずっと愛の言葉を待っていてくれたのだと思うと、得も言われぬほどに光栄で、筆舌に尽くしがたいほどに幸福だった。


 だからこそ、微塵も躊躇ためらうことなく、実直な気持ちを告げる。


「私はあなたを愛している。劇場でその麗しい姿を見たときから、私の心はあなたのものです」

「……ハリー」

「――ですが」


 なにか言おうと口を開いたヴィオレットを、ハリーは毅然とした声で制止した。

 すっくと立ちあがり、きょとんとしているヴィオレットへ悲痛な眼差しを向ける。


「あなたと私では、これっぽっちも釣り合わない。だから……私の言葉は、あなたの胸の宝石箱にしまっておいてくださるだけで結構です」


 ヴィオレットの美しい眉が歪む。不快感によるものなのか、怒りなのか、はたまた悲しみなのかはハリーにはわからない。


「初めから無謀だった。美しい貴族のご令嬢に、たかだか貿易商の末息子が思いを寄せるなんて。エドマンドや他の友人たちが気さくに接してくれるから、たまに忘れてしまうのです、自分の身分を。あなたと私では住んでいる世界が違うと」


 ハリーはヴィオレットから離れ、ソファへと身を沈めた。うなだれ、自嘲にも似た笑みを浮かべる。


「この二週間、素晴らしい夢を見せて頂いた。そう思って、忘れてしまうべきなのでしょう……」


 今ならば、若かりし日の甘く苦い思い出として忘れられるはずだ。思いの丈を伝えることができた、それだけで十分だと思わなくては。

 さもなくば、いつか必ず、もっと辛い思いをする羽目になるだろう。


 初めからわかっていたのだ。とびきり豪奢ごうしゃに着飾って、リュテス市で一等高価なホテルへ長期滞在する女と、添い遂げることなどできはしないと。


「ハリー……」


 ヴィオレットが隣へやって来た。かぐわしい花の香りが漂う。


「愚かなひと」


 浴びせられたのは罵倒の言葉。しかし声音は、糖蜜のように甘やかだった。


「忘れられるものなら、忘れてごらんなさい」


 耳に吹き入れられた吐息は、媚薬のよう。

 ハリーは、心の奥から湧き上がる衝動を必死でこらえた。子どものようにヴィオレットの胸へすがって、大声で泣きわめきたいと。

 彼女の言う通り、忘れられるはずがないのだ。運命の女だと、一目見たとき確信したのだから。


 けれど『運命』なんて、厳然たる現実の前では無力なものだ。

 物語の中でも、多くの恋人たちが『現実』によって仲を引き裂かれてきた。それは大半の場合『死』だったが、『身分』や『立場』であることも多かった。


 己の身体をかき抱いて震えるハリーに、ヴィオレットの困ったような声が掛かった。


「私は、あなたが思っているほど、善良でも貞淑でもないわ」

「そんな……ことは」

「――ねぇハリー、私を見て」


 優しく促され、くしゃくしゃの顔のままヴィオレットを見遣る。女はあでやかにくちびるをつり上げつつも、目元を細めて、すっかり弱気になったハリーを案じてきていた。


 目線がぶつかると、ヴィオレットは右横の髪をかき上げて、耳を露出させる。


「私の耳飾りは、何色かしら」

「赤です。赤い薔薇の耳飾り」


 真珠のような耳たぶを、深紅の薔薇が彩っている。さぞ高価なものなのだろう、とぼんやり思った。


「ハリー」


 とびきり甘く名を呼ばれて、ハリーは思わずヴィオレットを抱き寄せていた。しかし女はハリーに身をゆだねることはなく、ぴくりとも動かない。

 けれど拒絶の色はなく、ハリーの温もりを堪能しているかのようだった。


 やがてヴィオレットの口元が動く。とびきりの内緒話をするように勿体もったいぶった囁きが、ハリーの耳をくすぐった。


「もし耳飾りの色が白に変わることがあったのなら……その日は、朝まで共にいてくださる?」


 その言葉の意味するところを瞬時に理解したハリーは、大きく目を見開いた。


 はやる気持ちを抑えるため、ごくりと唾を飲み込んでから、努めて平静に尋ねた。


「いつ、変わるのですか」


 ハリーの動揺など、ヴィオレットにはお見通しなのだろう。ハリーの腕の中でくすくすと笑い、突き放すように言った。


「それはわからないわ。変わるかさえもわからない。明日から耳飾りなんてつけてこないかも」

「それは……少なくとも明日は会ってくださるということですね」


 追い縋るように問うと、ヴィオレットは興味深そうに『あら』とこぼした。


「言葉尻を捕らえるのがお上手ね。ご褒美をあげるわ」


 ヴィオレットが身を乗り出し、ハリーの額に生暖かいものが押し付けられた。

 なにをされたのか理解した瞬間、ハリーを包む時の流れが停止する。がちがちに固まった腕の中から、ヴィオレットはするりと抜け出していった。


「今日は、部屋を見せてくれてありがとう。――送ってくださる?」


 ヴィオレットの耳飾りの色は、その三日後に変化した。純白の薔薇をあしらったものへと。

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