私の心はあなたの声に開く 1
ハリーがヴィオレットと出会って、ちょうど二週間目の夜。観劇のあと、いつものようにホテルへ送ろうとしたとき。
ヴィオレットが、『あなたの部屋を見たい』と言ったため、ハリーは己の耳を疑った。あと数時間で日付が変わる時刻だ。
『今からですか』と尋ねると、女はなんでもないかのように微笑んで、『今から』と答えた。
気付いたときには、ヴィオレットともに自宅の門をくぐっていた。
いつの間に、どうやって帰ってきたのか、まったく記憶がなかった。
「良い趣味をなさっているのね」
ヴィオレットを居間へ通すと、並べられた調度品や家具を熱心に眺め始めた。
ハリーは、ヴィオレットの視線がこちらを向いていないのをいいことに、彼女の横顔を舐めるように凝視した。
長い睫毛の先端も、通った鼻梁も、薔薇色のくちびるも、どんな有名画家だってその美しさを十全に再現できるものか。
「自分で揃えたの?」
唐突に尋ねられ、ハリーはびくりと震えた。
ヴィオレットを部屋に招き入れ、すっかり有頂天になっていた心が
「い、いいえ……。すべて、私に良くしてくださっているご婦人方から頂いたものです」
適当な嘘を述べて誤魔化そうかとも考えたが、結局正直に答えることにした。
『良くしてくださっている』の文言をヴィオレットがどう解釈するかはわからない。どうか、その言葉に秘められた汚らわしい意味に気付かないで欲しい。
ヴィオレットは小さな笑声を立てた。
「私もなにか差し上げたいわ。けれど、必要なものは無さそうね」
目は笑っておらず、声は冷ややかだった。その
ヴィオレットの眼球がぐるりと動き、部屋中のものを視線で撫でる。
「いっそ、部屋のものをすべて一新してしまいましょうか」
酷烈な女の物言いに耐え切れず、ハリーはついにヴィオレットの足元へ
「あなたが望むのでしたら、私はここにある品すべてを返却してきます」
「あら。そんなことをしては、贈り主の方々に失礼でしょう」
ハリーを見下ろしながら、ヴィオレットはとぼけたように言った。
すかさずヴィオレットの手を取ったハリーは、白く滑らかな甲に己の額を押し当てる。
「それでも……あなた一人の不興を買う方が、私には辛い」
「私は別に、不興だとは言っていないわ。早とちりなさらないで」
突き放すような言葉のあと、ヴィオレットはハリーの手をさっと振り
あまりの絶望感に、ハリーの奥歯はカタカタと鳴った。今までの退廃的な行いを神に悔いたが、
ハリーに『
ちょっとした失敗を揶揄するかのような、くすっという笑声こそが赦しだった。
「まるで聖人のように祈って。健気なこと」
ヴィオレットはハリーの肩に手を乗せ、立つように促してきた。
女の求めるままに身を起こしたハリーは、間近でヴィオレットのかんばせを見つめた。いつ、どの角度から眺めても、この世のものとは思えないほど美しい。
たとえ、今のように嗜虐的に笑んでいても。
先ほどの絶望があまりに深くて、ハリーは安堵しつつも十全に立ち直れないでいた。血の気が引いた顔のまま、無理矢理に笑みを作る。
「ヴィオレット……。あなたはそうやっていつも私を弄ぶ……。その意地悪には慣れたつもりなのですが、やはり心臓が縮み上がります」
するとヴィオレットは口元に手をやって、ころころと笑った。
「私は、殿方の『心臓が縮み上がったときの顔』を見るのが好きよ。だから、この程度の意地悪、エドにだってしょっちゅう……」
「他の男の名を出すのも、意地悪ですか」
ハリーは低い声と共にヴィオレットへ迫った。女の華奢な肩を
さしものヴィオレットも、ハリーの強引な様子に驚きを隠せないようだった。大きな目を見開き、二度三度まばたきをした。
見え隠れする黒い瞳は、どんな高価なダイヤモンドよりも美しく煌めいていて、ハリーの心臓はどんどん鼓動を速めていく。
自分の部屋に愛しい女がいる。それだけのことが、ハリーの気を大きくさせた。そして心を昂らせた。
周囲には闇が満ちていて、二人を照らすのは蝋燭の淡い光のみ。女からは、流行の香水の香りが漂ってきている。
だから、胸の奥に押し込めていた気持ちを、直情的にぶつけてしまった。
「エドマンドからの求婚を断ったと聞きました。そのときはエドマンドに同情を覚えましたが、彼が去ってからは苦しくて仕方なかった。それからずっと、貴女と彼がそういった間柄だったと思うだけで、胸に黒い炎が灯ります」
暗い感情をぶつけると、ヴィオレットの表情から驚きが消えて、なにかを考え込むような素振りを見せた。
――きっと、しち面倒臭い男だと思われたに違いない。呆れ果て、今後の付き合いを考え直しているのだろう。
「すみません……醜い嫉妬を……」
ハリーは自己嫌悪に口元を押さえ、ヴィオレットから目を逸らす。ぐっと掴んでいた肩から、そっと手を放した。
「謝る必要はないわ。……ただ、『理由』を聞かせてくださる?」
ヴィオレットの声は優しかった。寛容だった。駄々っ子を
『え?』とハリーが再度視線を向けると、優雅に笑んでいた。
「ハリー。なぜあなたが私の幼馴染に嫉妬なさったのか、教えて」
「なぜって……」
眉根を寄せると、ヴィオレットはわずかに首をかしげた。
「私の記憶が正しければ、私たちは『ただのお友達』でしょう。友達が幼馴染に求婚された程度のことでそこまで嫉妬するなんて、おかしいわ。そうでしょう」
ハリーはようやくヴィオレットの言わんとしていることを理解し、息を呑んだ。
今のヴィオレットは、決してハリーを玩弄しているのではない。ハリーに、『機会』を与えてくれているのだ。
――『私のことが好きなら、そう言いなさい』と。
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私の心はあなたの声に開く:サン=サーンスのオペラ「サムソンとデリラ」より
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