乾いたくちびる、怯える舌
寝そべったまま芋虫のように丸まり、すんすんと
ラスティは傍らに腰を下ろし、乱れた
背を向けられている上、枕に顔をうずめているため、ヴィオレットがどんな表情をしているかはわからない。
「水を飲んだ方がいいんじゃないか」
ぽつりと尋ねるが、返事はなかった。
相当な水分が涙となって流出したはずだ。体内はカラカラに乾いているのではないだろうか。
不安だが、本人がなにも口にしたくないと望んでいるのなら、無理強いはできない。
「失望したでしょう」
枕に顔を押し付けたまま、ヴィオレットがつぶやく。
「大切な従者があんな姿になって帰ってきたのに、なにもできず泣くだけの女に、失望したでしょう」
「そんなことないよ」
すかさず否定したが、ヴィオレットの自省は止まらない。
「挙げ句、シェリルを手当てしてくれたグレナデンに当たり散らして……言い返されて……また泣いて……」
そこで言葉が途切れた。代わりに、ずずっと大きく鼻を鳴らす音が聞こえた。また涙が込み上げてきたのだろう。
ここまで弱り切ったヴィオレットを見るのは初めてだった。
だが、驚きや失望はない。切迫した状況において、我を忘れて取り乱すのは、ごく当たり前のことだ。
だから、努めて優しく言ってやる。
「自分を見失ってパニックになるくらい、シェリルが大事なんだろう。俺だって、もしあんたが半死半生で帰って来たら、わけがわからなくなって、その場にいる奴に殴りかかるかもしれない」
その場しのぎの嘘、というわけでもない。実際にヴィオレットが傷付けられたら、きっと平静ではいられない。
「俺だけじゃない。きっとみんなそうさ。エドマンドだって、シェリルだって、大切なひとが傷付けられたら絶対にそうなるよ」
すべて言ってから思い出した。ハリーという男を前にして、エドマンドとシェリルは激しく怒り、悲しみ……いつもの彼らからは想像できない姿をさらしていた。
それはひとえに、ヴィオレットを想うがゆえ。
――トム……、いや、ハリー……。
ラスティは、金髪を三つ編みにした美しい青年のことを想った。
本名はハリーだとわかっているが、初対面の際の印象が強く、彼の顔を思い出すと、どうしても『トム』という名が浮かんできてしまう。
ヴィオレットの元従者。すべての元凶。
眼帯の奥にあった煌めく
カルミラの民と従者が強固な繋がりを持ち、また深い愛情で結ばれていることは、なんとなく理解している。その従者に反逆され、片目を奪われるなど、当時のヴィオレットの心痛は
しかも、ハリーはシェリルの『姉』たちを惨殺したらしい。つまり、ヴィオレットの従者たちを。
唯一生き残ったシェリルが、今日再び奪われかけた。ヴィオレットが狂乱するのも当然だ。
「ラス……」
枯れた声で名を呼ばれたため、思考を中断して応じる。
「なんだ?」
「水を飲ませて」
「おお、わかった」
ヴィオレットがなにか口にする気になったことに、安堵の息が漏れた。
「ちょっと待ってろ」
一度退室し、ヴィオレットの寝室に置いたままの水差しとカップを持ってくる。
だが水を差し出しても、ヴィオレットは寝そべったまま起きようとしない。
仕方なしに抱き起こしてカップを近付けるが、受け取る素振りも見せない。
腫れた瞼の奥に収まる黒い目は虚ろで、どこか遠くを見ている。頬には涙の跡が残り、赤いくちびるは艶を失って乾き切っていた。
「気が、利かないわね……。飲ませろと……言っているのに」
かすれた声でヴィオレットはささやく。その意図を察したラスティは少し
水を口に含んだあと、ヴィオレットにキスをする。
漏水しないようみっちりとくちびるを押し付けてから、口内のものをゆっくりと流し込むと、ヴィオレットもゆっくりと嚥下した。
こくり、こくり、と喉の鳴る音が、ラスティの
目的を達成し、離れようとすると、強く頭を押さえつけらえた。
いつものように官能的なキスが始まるかと思いきや、ヴィオレットのくちびるが蠢くことはなかった。ただ重ねるだけの、初々しい口づけ。
しっとりと柔らかいはずのくちびるは、荒野のように乾いている。どれだけ水を与えたら、元の湿地に戻るだろうか。
いつも貪欲に押し入ってくる舌は、
静かなキスが終わると、ヴィオレットは再度ベッドに倒れ込み、すすり泣きを始めた。せっかくの水分補給が台無しだ。
「お前も……どうせ私の元からいなくなってしまうのでしょう」
予期せぬ言葉に、ラスティは目を見開く。ヴィオレットはまた枕で顔を隠してしまい、表情が窺えない。
「なぜそんなふうに思うんだ?」
「お前は従者ではなく超越者だもの。誰にも捕らわれない、自由な意思がある」
――どうしていきなりこんなことを……。
戸惑いつつも、ラスティは素直な気持ちを告げた。
「俺は自分の意思で、ヴィーのものになることを選んだんだけどな」
「きっと心変わりするわ」
「しないよ」
「するわ」
「しないよ」
痴話喧嘩のような応酬。ラスティは、女が満足するまで付き合ってやろうと決意した。
「そういうヴィーだって、心変わりするかもしれないだろう。俺のことは要らなくなるかもしれない」
「そんなこと――……」
ヴィオレットはそこで言葉を止めた。
勢いに任せてでも、『そんなことない』と断言してもらえなかった。
物悲しさにラスティの胸はずきりと痛んだが、無理矢理気持ちを切り替えて続ける。
「あんたが俺を要らないって言うまでは、絶対に側にいるよ。だって俺は、あんたの血を吸わないと生きていけないからな」
「他のカルミラの民の血を吸えば問題ないわ」
ああ言えばこう言う。ラスティは苦笑し、また率直に思ったことを返した。
「うーん、なんか、それを想像すると気持ち悪いんだよな」
仮にエドマンドが手首を切って、さぁ飲めと血を差し出してきたとしても、まったく有り難いと思わない。むしろいらない、さっさと血を止めてくれ、とさえ思う。
「それは、お前が他のカルミラの民の女を見たことがないからよ」
「そういえばそうだな……」
エドマンドに対して吸血欲が湧かないのは、同性だからかもしれない。
「でも、あんたより綺麗な女じゃないとそそられないな。カルミラの民の女は、相当の美人ぞろいか?」
冗談めかして言うと、ヴィオレットは即答した。
「私より美しい女なんて、そうそういないわ」
「……そうか」
実にヴィオレットらしい高慢な物言いに、呆れつつも微笑する。会話を続けている内にいつもの勢いが戻って来たようだ。『いない』と断言しない分、まだ本調子ではないのだろう。
それに、ヴィオレットの言うことはあながち間違っていないのだろうなと思う。
彼女より美しいカルミラの民は、きっと数えるほどしかいないのだ。
初めてヴィオレットを見たとき、『この世のものとは思えないほど、美しいひとだ』と思ったくらいだから。
『この世のものとは思えないほど美しい女』がそんなにたくさんいては、たまったものではない。
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