犬を飼わないか?
「俺のことが信用できないって言うんなら、この屋敷に閉じ込めておけばいい。あんたよりきれいな女と出会わないように」
ラスティは、本当にそうしてくれて構わないと思いながら告げる。
すると、ヴィオレットは枕の奥でくすりと笑った。
「……それは素敵ね」
――ようやく笑ってくれた……。
安堵が胸からあふれ出し、今度はラスティが泣きそうになる。
目頭に溜まった水滴を指先で弾いていると、ヴィオレットはさらに言葉を続けた。
「私のベッドの脚に、鎖で繋いでおくの。血が欲しくなったら、舌を出しておねだりするのよ」
いよいよ調子を取り戻してきたようだ。ラスティは胸をなで下ろしながらも、犬のように振る舞う自分の姿を想像して、恥ずかしいやら情けないやら、複雑な気分になった。
「せめて屋敷の中で放し飼いにしてくれ」
懇願するように言うと、ヴィオレットはころころと笑う。少し枕をずらして、腫れぼったい目を見せてくれた。
「呼んだらすぐに来るのよ、
「……せめて
嘆息すると、ヴィオレットは『どうしようかしら』と意地悪そうにつぶやいた。
「そういえば……幼い頃、犬を飼いたいって母親にねだったことがあったわ」
「それで、どうなったんだ?」
不意に始まった昔話。幼少時の話を聞くのは初めてだ、とラスティは耳を傾けた。
「母親の友人が、立派な
「だ、駄犬が?」
駄犬呼ばわりするということは、良い思い出ではないな……と、ラスティは頬を引きつらせる。
「私を押し倒して、上に乗って、腰を振ったのよ」
「……ああ、うん、そうか……」
小さなヴィオレットちゃんの気持ちを想うと同情を禁じ得ないが、まぁ、犬とは往々にしてそういう生き物だ。相手が自分より弱いとみると、優位行動を取りたがる。
少年の頃、勤めていた屋敷でも、庭に放されている犬の扱いには苦労した。
しかし、従軍の際に軍用犬を見かけたが、彼らは躾が行き届いており、平常時はとても人懐こかった。
ヴィオレットの出会ったセッターは、きっと奔放に甘やかされていたのだろう。どこかの誰かのように。
ヴィオレットは枕を引き千切らんばかりに抱き締め、忌々し気に吐き捨てる。
「悲鳴を上げてじたばたする私を見て、母親はけらけらと笑ったの……。あの淫売……!」
「い、淫売?」
ラスティは耳を疑った。その呼び方は、母親を指すには不相応すぎないだろうか。
ヴィオレットを生み育てた女は、一体どんな人物だったのだろう。いつか改めて聞いてみたいが、今はやめておいた方が無難だろう。
「もう飼う気はないのか? 今のヴィー相手だったら、どんな犬だって、上に乗っかろうだなんて思わないだろう」
「そうね……」
ヴィオレットの声は柔らかかった。これは前向きに検討しているな、とラスティはまだ見ぬ光景に胸を躍らせた。
どんな犬種がいいだろうか。せっかく広い庭があるのだし、大きくて毛の長いやつがいい。二、三頭飼ってもいいだろう。
朝、庭の水まきが終わったら、シェリルと共に散歩へ行く。
ヴィオレットが起きてこないときは、そっと部屋へ放ち、舐めて起こしてもらうのだ。
ぷりぷりと怒りつつもヴィオレットは犬を撫で、柔らかく微笑み、モーニングティーを楽しむ。
犬たちはヴィオレットの足元に
そんな朝の光景を想像すると、とても心が弾んだ。
「俺とシェリルが世話をするから、あんたは気の向いたときに可愛がってやればいい」
上機嫌で提案してから、シェリルが犬嫌いである可能性に思い至る。彼女が目を覚ましたら真っ先に聞いてみようか。犬が嫌なら、猫でもいい。
「ええ……それは素敵だけれど……」
ヴィオレットは身体をもぞもぞと動かしながら言葉を発する。
照れているのか、喜んでいるのか、とラスティは浮かれた気分のまま、次声を待った。
「でもね…………」
枕の奥の声は、強い
「死んだとき、悲しいでしょう」
「……そうだな」
もう死を経験するのは懲り懲りだ、とヴィオレットは全身で静かに主張していた。
ラスティが言葉を失っていると、ヴィオレットは抱いていた枕を本来の位置に戻し、頭を預けた。今まで下敷きにしていた掛布を身体にまとい、すっかり入眠体制に入る。
たくさん泣いて、おしゃべりして、落ち着いたら一気に眠くなったのだろう。
ヴィオレットは腫れぼったくなった瞼を閉じて、ふぅと一息吐いたあと、小さく言った。
「起きたら、血をあげるわ」
「それは有り難いが……大丈夫か?」
「飼い犬にはきちんと餌をあげないとね。もう少し我慢しなさい」
遠慮のない女の物言いに、ラスティはほっと気を緩めた。なんだかんだ、調子を取り戻したようだ。
「……ああ、我慢する」
忠犬のように返答すると、ヴィオレットは微笑みながら眠りに落ちていった。
安らかな寝息を立てながらも、彼女の細く長い指は、ラスティの服の裾をしっかりと掴んでいる。
これではどこにも行けないな、とラスティは苦笑した。
シェリルのベッドへ潜り込むのも申し訳ない。
なにより、応接室には恐ろしく落ち込んだエドマンドがいる。彼にヴィオレットが落ち着いたことを知らせに行くべきだろうが……もう少しだけこのままでいよう。
ヴィオレットの寝顔を眺めつつ、感傷に浸る。
今日、彼女はラスティにとびきりの弱みを見せてくれた。胸に
それから、些細な冗談を言い合い、子どもの頃の恥ずかしい話をしてくれた。
大事件の起こった日にこんなことを考えるのは不謹慎かもしれないが、ヴィオレットとの絆がよりいっそう深まった気がして、とても嬉しかった。彼女がますます愛おしくなった。
けれど、『心変わりしない』と言ってくれなかったことは悲しかった。その場限りの嘘でも、そう言って欲しかった。
男なんて単純な生き物なのだから、その一言だけで、千里を駆けられるのに。
――まぁ、それは今後の俺次第ということだろう、と前向きに捉えておく。
熱い目で女を見つめていると、砂漠のように乾いたくちびるがかすかに蠢き、小さな声を発した。
「…………」
寝言なのか呼びかけなのか判然としなかったため、耳を傾け、尋ねた。
「どうした、ヴィー」
「…………ハリー……」
穏やかに眠る女の口から流れたのは、違う男の名。
ラスティの胸は、誤魔化しきれぬほどに痛んだ。
ヴィオレットの手は、相変わらずラスティの服の端を握っている。夢の中で、彼女は一体誰を求めているのだろうか。
今現在一緒にいる男ではなく、思い出の中の男を求めているのか。
その思い出は、どれほどに温かく、そして熱いものだったのだろうか。
無防備に裸体をさらし、情熱的に口づけ、
ラスティに血を吸われたヴィオレットが悦楽に喘ぐように、あの男もまたヴィオレットに血を吸われて……。
――こんなことを考えてはいけない。
ラスティは慌てて頭を振った。恐ろしく暗いなにかが心にまとわりつき、思考をどす黒く塗りつぶしてしまうところだった。
深く重く嘆息して、気持ちを整える。それから、改めてハリーのことを想った。
ヴィオレットを深く愛していたがゆえに、カルミラの民であることを隠され、血を吸われて従者にされたことが許せなかったと言っていた。
その気持ちは、理解できぬでもない。
――だが、ハリー……。
あんたは今もそんなにヴィオレットが憎いのか。
だったらどうして、思い出を宝石箱にしまっているんだ。
どうしてエドマンドのことは殺そうとしなかった。どうしてフレデリカのことはあんなに大事にしている。
俺に槍を向けながら、ちっとも殺意を感じなかった。
夢の中で、ヴィオレットはお前の名を呼んだぞ。お前への恨み言など一言も漏らしていない。それを知ったらどう思う。
もう一度、会わねばならない。
居場所は、わかっている。
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