普通の女

「あの……!」


 足早に廊下を歩いていくグレナデンを、ラスティは慌てて呼び止めた。

 無視されるかもしれないという懸念はあったが、グレナデンは足を止めて振り向いてくれた。


 相変わらずむっつりとした表情をしているが、ことさら怒っているようにも見えないため、ラスティは胸をなで下ろす。怒り心頭だったらどうしようかと思った。


 だが、怒っていないならそれでいい、というわけにもいかない。

 ラスティはグレナデンと真っ向から向き合い、彼の碧眼をしっかりと見据えてから、口を開く。


「本当に、すま……いや、申し訳ない。いや、ええと、申し訳ありません……です」


 ぐだぐだと締まりのない謝罪になってしまったことが恥ずかしく、つい目を逸らしてしまった。『ヴィオレットの従者は躾がなっていない』などと思われたことだろう。

 しかし、すたこらと逃げ帰るわけにもいかない。

 小さく息を吐き、心を落ち着かせてから続ける。


「シェリルを助けてくれて、ありがとうございます。ヴィーも、絶対に感謝しているはずです。ただ、取り乱しているだけで……」


 シェリルが目を覚まし、いつものように朗らかに笑ってくれたら、きっとヴィオレットも自分を取り戻すだろう。

 そうすれば必ず、大切なものを救済してくれた人々に深謝するはずだ。


 それに、ラスティ自身は今回の件でなにもできなかった。大怪我を負ったシェリルやエドマンドを助けることも、ハリーを止めることも。

 だから、事態を収束させてくれたグレナデンには感謝の気持ちしかない。


 しかし、この厳格を絵に描いたような男は、謝意を受け入れてくれるだろうか。誠意が足りないとか、ヴィオレット自身に謝らせろ、などと言われやしないだろうか……。


 恐々と視線を彷徨わせていると、『ふっ』と空気を吹き出す音が聞こえた。

 発生源であるグレナデンの方を見つめると、彼は目を細め、口元を緩ませていた。


 ――笑っている。

 決して冷笑ではない。ヴィオレットを罵倒していたときの冷徹さが嘘のように、和やかな表情を浮かべていた。


「難儀なことだな」

「え?」

「あの女に代わって謝辞を述べるため、馳せ参じたのか。あるじが無能だと、従者が割を食う」


 青い目には優しい光が灯り、ラスティのことを気遣っていた。

 その気持ちは有り難いが、ヴィオレットを『無能』と断じられたことにわずかな不平を抱く。その感情を押し留めるため、曖昧に笑っておいた。


「いや……あるじのことを悪く言ってすまない。不愉快だっただろう」


 と、グレナデンは目を伏せた。

 心を見透かされた気まずさに、ラスティもなんとなく上を向く。


 少しの沈黙のあと、グレナデンはしみじみと漏らした。


「あの女が、あんなにも弱いとは思わなかった。……だが、あれが普通の女の反応なのかもしれんな」


 声に、侮蔑の色はない。


「宵闇の女王も、普通の女だったな」


 そうつぶやいたグレナデンの表情は、とても優しげだった。悲嘆に暮れる女のことを案じる、情け深い年上の男の顔をしている。


「俺も、そう思っています」


 ラスティはグレナデンの目を真っ直ぐ見て言った。

 ヴィオレットが『宵闇の女王』などと呼ばれる存在だから側にいるのではない。普通の女だから、側で守ってやりたいのだと眼差しで告げる。


 グレナデンは、再度微笑を漏らした。


「いい目をしている。我々カルミラの民は、君のような素晴らしい従者に巡り合えることを、いつも夢見ている」


 どうやら褒められてしまったらしい。照れ臭くなり、ラスティはなんとなく頬を掻いた。

 それに、ラスティは『従者』ではないのだから、大恩人に対して嘘をついている後ろめたさもあった。


 グレナデンは柔らかい表情のまま、大きく嘆息する。


「あの女も、さんざん泣き喚いて、さぞ喉が渇いていることだろう。精一杯慰めて、血をくれてやれ。あの女のためではなく、シェリルという娘のためにな。あるじの心の不調は、従者の負担になる」

「……はい、わかりました」


 俺が血を貰う方だけれど、という言葉は飲み込んで従順に頷くと、グレナデンは満足そうに笑みを濃くし、背を向けて歩み去っていた。おそらく自邸へ帰るのだろう。


 見送ろうか迷ったが、放置しているヴィオレットがあまりに気掛かりだった。一方的に置き去りにされ、怒り狂っていることだろう。

 小走りで部屋へと引き返す。


 ノックをするが、返事がなかったため恐る恐る入室する。

 入った瞬間に拳が飛んでくる覚悟をしていたが、ヴィオレットはベッドにもたれ掛かるようにして泣いていた。


 ヴィオレットに対する心証を悪くしないため、グレナデンへの謝罪を優先したのだが、その分彼女を傷付けてしまった。

 罪悪感に駆られながら、女に近付き、肩を抱く。反応はない。


 寝具に包まるシェリルを見遣ると、静かに寝息を立てていた。そっと頬に触れると、ほんのり温かい。病的な熱さはすっかり消えている。


「ほら、ヴィー。シェリルはもう大丈夫だ。ゆっくり寝かせてやろう」


 静かに語り掛けると、ヴィオレットはそろそろと顔を上げ、シェリルの額に自分のそれを押し付けた。

 熱が下がったことを確認したのか、ほっと息を吐いてからゆっくり離れた。


 これで泣き止んでくれるかと思ったが、その気配はない。立ち上がる気概さえないようだ。

 ラスティは少し迷ったあとにヴィオレットを抱き上げた。暴れて殴られるのでは、とやや気構えしたが、抵抗されることはなかった。子どものように身をゆだねてくる。

 ひどく軽く感じるのは、水分がたくさん外へ出たせいだろうか。


 ラスティはそのままヴィオレットを部屋から連れ出した。ヴィオレットのためではなく、シェリルの安眠のために。


 廊下は冷えるため、エドマンドのいる応接室へ連れて行こうと思ったが、ヴィオレットが小さな声で『シェリルの部屋へ行きたい』と漏らしたため、指示に従う。


 シェリルの部屋へ入るのは初めてだった。ヴィオレットの寝所よりずっと狭いが、掃除が行き届いて整理整頓されている。

 誰かさんの部屋のように、下着や寝間着、靴下が床に脱ぎ散らかされていたらどうしようかと思った。


 なんだかいい香りがするな、と思って見回すと、鏡台に室内香ポプリが置いてあった。中に入っている紫色の花は、たしかラベンダーという名前だ。


 腕の中のヴィオレットがベッドを指さしたため、そっと横たえてやる。

 すると女は枕を抱きかかえ、芋虫のように丸まった。

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