なりたて、ほやほや!
ラスティは、青年の後ろ姿を見ながら薄ぼんやりと思う。
――このまま抱きついて、白い首筋に牙を突き立てたい。
そして、あふれ出た甘露を啜り、舌上で吟味、嚥下したい。たっぷり、心行くまで……。
最初は漠然としていたその情念をはっきりと自覚した瞬間、さっと血の気が引いた。
初対面の、ましてや男性相手に、一体なにを考えているんだろう。
なぜ、眼前の青年に対してヴィオレットへ向けるものと同様の欲を抱いてしまったのか。
飢餓感のせいで節操がなくなっているのかと思ったが、どうも違う気がする。判然としないまま、自分自身に強い嫌悪を感じた。
頭を振って邪念を追い払っていると、青年が振り返って怪訝そうな目を向けてきたので、『なんでもない』と曖昧に笑っておいた。
屋敷の玄関先でラスティを止めた青年は、扉を開けて中へ入っていく。そして大声で叫んだ。
「フレデリカー!」
わずかのち、若い女性の声が響いた。
「もう、なんなの!
「セントグルゼンに行くよ」
「えーっ、行くのは夜じゃなかったの!?」
「用事ができたんだ。準備をして出ておいで。できるだけ早くね」
女性の返事がなかったのは、無視したからではなく、『準備』のために奥へ引っ込んだからだろう。
「小うるさい娘が同行するけれど、許してくれ。悪い子ではないんだ」
青年はラスティに微苦笑を向けた。ラスティも小さく笑って、『構わない』と答える。
「ところで――名を聞いてもいいかな?」
青年に訪ねられ、ラスティは快く応じようとし、はたと思い留まった。
己の素性を大っぴらにするなと、シェリルに強く言われていたっけ。果たして迂闊に名乗ってもいいものか。
戸惑っていると、青年は気にしたふうもなく、自ら口を開く。
「私はトム・ブラックというんだ。気軽にトムと呼んでくれ。……まぁ、今日限りの付き合いになるかもしれないけどね」
その瞬間、ラスティの脳に記憶の波濤が押し寄せた。
――トム。
そういえば、自分もその名で呼ばれていた。
すっかり忘却していた己の本名は、『トム』だった。
「奇遇だな、俺もトムというんだ」
記憶の断絶が修復された爽快感が心地よく、気付いたときには口から名乗りの文句が飛び出していた。
だが、せっかく思い出したものの、やはりトムという名にはなんの感慨も抱かなかった。むしろ、忌々しくもある。
それは孤児院において、ただの識別記号だった。
ラスティが預けられる直前、『トム』が流行り病で死んだ。だから、新しく入ってきた
ラスティは、正式には『トム5号』という名だと年上の少年が教えてくれた。大人たちは、陰で子どもたちを番号で呼んでいるのだと。その少年も確か、『ヨハン3号』だったはず。
いずれ巣立っていく子どもたちに情が移らないための方策だよ、と神父は半笑いで言った。
その神父には何度か尻を触られたっけ。『ヨハン3号』に至っては、たまにヤツの部屋へ連れて行かれていた。
今やラスティは、欲しかったものをすべて手に入れた。いや、『すべて』というわけでもないが、幸福で、充実している。
つまらない過去に捕らわれてくよくよせず、今を楽しむべきだ。
「そうか……互いに『トム』か。よろしく」
青年――トムは、朗らかに笑って右手を差し出してきた。ラスティはそれをしっかりと握る。
礼儀的なものだとしても、握手を求めてくれたことは嬉しかった。彼とはこれきりの付き合いになるかもしれないが、そうはならないかもしれない。同性の知己が増えるのは単純に嬉しい。
「待たせたわね!」
ふてぶてしい物言いをしながら、余所行き姿の女性が玄関先に現れた。トムに
可愛い顔をしているな、とラスティはぼんやり思った。
少女はラスティを見ると、『あっ』という顔をして居住まいを正す。
「お、お客様がいらっしゃってたのなら、言ってよ!」
「常日頃から淑やかな態度を心掛けるのが、正しいレディの姿では?」
トムの指摘に、少女は鼻を鳴らしてそっぽを向く。来客の前で取るべき態度ではないが、この少女がやるとなんだか微笑ましい。
トムも、少女の態度をとがめることなく言った。
「こちらの方を、主人の元まで送って差し上げたい。セントグルゼンから来たそうだ」
「あら……そうなんだ。だぁれ?」
少女は好奇心いっぱいの瞳でラスティを見上げてくる。それからまた『あっ』と目を見開いて背筋を伸ばした。
「ごめんなさ……いいえ、失礼しました。どちら様でしょうか?」
ラスティが口を開く前に、トムが答えた。
「私と同じ、トムとおっしゃるそうだ。道に迷って困っていてね」
「ふぅん……」
つぶやいた少女の目に、再度好奇の光が灯る。小鳥のように首をかしげた。
「あなたも、カルミラの民の従者なのですか?」
尋ねられ、やや戸惑ったが、肯定こそが唯一にして絶対の回答だろう。
「……まぁ……そうだな」
「従者になって、どれくらい?」
「ええっと……二か月くらい……かな」
途端、少女は表情を輝かせ、両手を打ち合わせた。
「やだぁ、あたしよりも新人なのね! なりたて、ほやほやじゃない!」
と、気安い態度で二の腕の辺りをぺしぺし叩いてくる。『レディ』というにはまったく慎みがないが、庶民育ちのラスティにはむしろ心地よかった。
「あたしはフレデリカよ! よろしくね、トム!」
「ああ、よろしく」
笑顔で挨拶を交わしてから、ふとトムを見遣ると、愉快そうにくちびるを震わせていた。
「ほら、小うるさい娘だろう」
その物言いに、
だが当の少女は怒りをあらわにする。
「うるさくて悪かったわね! だったらホレス様のところへ帰してよ!」
「それとこれとは別さ」
きゃんきゃんと叫ぶフレデリカと、それを軽くいなすトム。二人の関係は、傍から見ていてたいそう好感が持てた。
なんだか兄妹みたいだ、とラスティは目を細めた。
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