椿の咲き乱れる庭で
ヴィオレットの気配を探って辿り着いたのは、これっぽっちも見覚えのない庭だった。
ラスティはあんぐりと口を開け、周囲を見回した。
奥に立つ家屋はマクファーレン邸よりもずっと小さいが、ずっと新しい。庭も手狭だが、美しく整えられている。
植えられているのは、見慣れた薔薇とサンザシではない。見慣れない樹木に、赤やピンクの花が咲いている。
花弁の数や形も様々だが、枝や葉を見る限りは、同じ品種のように思われた。
地面を見れば、花が
処刑後、無造作に打ち捨てられた人間の首を連想してしまった。
花はとても美しいが、なんだか趣味が悪い……。
胡乱な目で眺めていると、背後から声がかかった。
「それは椿という名の花だよ」
涼やかな男の声だった。驚かなかったわけではないが、ラスティは振り向かずに尋ねていた。
「全部が?」
「ああ、色々な品種があるんだ」
ラスティは『へぇ』とつぶやいて、手近な花に目を留めた。複数の花弁が波のようにうねりながら重なり合って、複雑な形を成している。花びらの合間からは、黄色いおしべが窮屈そうに顔を出していた。
「この、うねうねした形のやつも?」
「そうだね。その花弁は、獅子咲きというんだよ」
「確かにライオンのたてがみみたいだな」
感心したラスティは、ゆっくりと庭を眺める。
鮮やかな赤に薄い赤、淡いピンクに濃いピンク、白色の花もあった。複数のおしべが中心部に密集しているものや、おしべが存在していないものもあった。慎ましやかな大きさのものも、大輪の花を咲かせているものもあった。
ただ、そのどれも花弁を散らすことなく、花そのものが地面にぼたりと落ちている。
「あの薔薇に似たものは、
「へぇ、全然違う花に見える」
男の親切な解説に、ラスティはますます感じ入った。
見知らぬ庭で、見知らぬ男が背後にそびえている。けれど穏やかな気持ちで庭を眺めることができているのは、男の言動に害意がないからだ。
それどころか、花に興味を持つラスティを歓迎しているような空気さえ感じる。
しかし、その安穏なひとときは唐突に終焉を迎えた。
「――それで、来訪の用件を聞いてもいいかな、侵入者くん」
男の声に凄みが出た。
ラスティはびくりと肩を震わせてから背後へ向き直り、ようやく声の主を視界に収める。
そこにいたのは、貴族然とした気品をまとった、美しい青年だった。
長い金髪を後ろで三つ編みにして正面に垂らし、濃い紫のリボンで結んでいる。顔立ちは整っているが、右目は眼帯で覆われており、怪我か病気か、とラスティは憐憫の念を抱いた。
露出している左の瞳は湖のように碧く澄んでいたが、しかとラスティを捉えている。
青年は隙の無い笑みを浮かべ、峻厳に言い放った。
「用件次第では、無事に帰してあげられないよ」
それは当然だろう、とラスティは観念した。どこからどう見ても自分は怪しい侵入者だ。
あれこれ弁解するのは誠実ではないだろうと考え、率直に答えた。
「すまない……帰る家を間違えたようだ」
すると青年は、呆気に取られたようにまばたきしてから、微細な怒りをあらわにした。
「面白い答えだね、どうやったら間違えるというんだい?」
「わからない……霧になる術は、今日覚えたばかりなんだ」
そこまで言ってから、ラスティは『あっ』と口元を押さえた。眼前の男は『普通の人間』かもしれないのに、とんでもないことを言ってしまった。
けれど青年は訝しげに眉をひそめたあと、ふっと吹き出し、やがて大笑した。
皮肉や侮蔑など含まっていない、本当に愉快極まりないといった笑い方だ。
「そうか、覚えたてか。私も、初めてその術を使ったとき、暴走してしまってね。なぜか深い森の中に着いてしまったんだ。実体化した瞬間、キツネの親子が逃げていったっけ」
「それで、無事に帰れたのか?」
尋ねると、青年の顔から笑みが消えた。表情が陰り、遠くを見るような目になったが、すぐに口元に微笑が浮かぶ。
「すぐに主人が追ってきてくれたんだ。そのとき初めて、『バカ』と罵られたよ」
青年の表情には、哀愁が満ちていた。思い出された記憶は辛くもあり、甘いものでもあるようだ。どちらかといえば、後者の色が強い。
主人との絆が感じられ、ラスティはわずかな羨望を抱く。
ヴィオレットだったらきっと、『バカ』だけでは済まない。『この私に手間をかけさせるな、愚か者!』と怒鳴り散らされることだろう。
ついでに二、三発ほど殴打を食らうかもしれない。
「今すぐに去るよ。本当にすまなかった」
ラスティがうなだれて謝罪すると、青年は気遣うような目線を向けてきた。
「帰れるかい?」
「いや……正直言えば、帰ろうとしてここに来ちまったから、無理かもしれない」
だが、いつまでも招かれざる客でいるわけにもいかないし、ただちに去るべきだろう。
しかし、セントグルゼンへの戻り方もわからない。一体どうしよう、と心細さに頭を抱えたくなった。
青年は、ラスティの心情を察したように苦笑した。
「まぁ、私のときのように、すぐに主人が来てくれるさ。……だが、ここに迎えに来られるのは、少し困るな。君はどこから来たんだい?」
「えっと……セントグルゼンって街」
すると青年は目を見開いた。
「……そうか、あの街なら、私もよく知っている。送っていくよ」
それは願ってもいない、まごうことなき
「助かる……! 一人で街まで戻れる自信がないんだ」
「構わないさ。こちらとしても、君が本当に偶然、なんの害意もなくここへやって来たのか確信が欲しいし、最後まで付き合うよ」
「そうだな、俺、怪しすぎるよな」
恐縮するラスティに、青年はかすかな笑声だけを返し、屋敷の方へと歩を進めた。途中、ラスティを振り返って、ついて来いと仕草をする。
背筋を伸ばして颯爽と歩く青年は、後ろ姿さえ優美だった。真似てみようと青年の足取りを観察し、模倣する。
うまく見倣えているだろうか、帰ったらシェリルに見てもらおう、と考えていたとき……。
ある衝動が、ゆっくりと湧きあがってきた。
――このまま後ろから抱き付いて、白い首筋に牙を突き立てたい……。
ごくりと、喉が鳴った。
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