第三章 二人のトム

逸る心、見知らぬ庭

 セントグルゼンの街を見たとき、ラスティの心はひどく踊った。

 重厚な城壁に囲まれた大都市で、中世時代の設備や建物がそのまま残っている。

 かといって古いばかりではなく、きちんと舗装された道路の左右には、石造りの家が隙間なく並んでいた。

 東側には荘厳な教会の屋根が見えるし、西側には街を見守るように巨大な時計塔がそびえ立っていて、ぜひ近くで見てみたいと思った。


 すれ違う人々はせわしないが、みな活き活きとしている。おそらく街には仕事と物があふれ、生活が潤い、暮らしに余裕があるのだ。

 戦争景気に湧いていた故国も、似た様相だった。


 人混みの中、はぐれないようしっかりと腕を掴んでくれているシェリルがいろいろ教えてくれた。ここがどこの国のどの場所なのか。なぜこんなにも豊かなのか。隣国との情勢や、宗教の問題。流行の劇や歌、飲食物まで。


 それらの話を聞いたとき、ラスティの『世界』は一気に広がった。

 『人間』として故国で暮らしていた頃は、やることなすことすべてに制限があった。富める者から与えられるごくわずかなものにすがりつくしかなかった。


 しかし、『超越者』となり人間の枠から外れた今、己は自由なのだと実感した。

 身体を霧に変えればどこまでも行けることがわかった。酒場の四方山話よもやまばなしで聞くだけだった異国が、ずっと身近になった。

 心がはやって仕方なかった。もっといろいろなことを知って、いろいろなところへ行きたいと思った。


 けれど今はまだ早い。今いる国がどこなのかさえ、シェリルから聞くまで知らなかった。自分は無知で未熟な子どものようなもの。今日はただひたすらに、エドマンドとシェリルにくっついて回ることに専念しようと思った。


 だがラスティの好奇心は、慎重であろうとする理性を凌駕した。

 色鮮やかな異国の織物を売る商人に気を取られたとき、前方を歩いていたシェリルの姿を見失った。

 辛うじてエドマンドの銀髪が見えたが、背後から罵声と共に誰かにぶつかられ、スリを警戒し、そういえば財布など持っていなかった、と気付いたときには完全に見失ってしまっていた。


 シェリルが『あの店に寄りたい』と目線を向けていた方を見る。自分には到底えんのなさそうな、高級そうな店がいくつも並んでいた。

 そこで、懸命に人波をかき分けてやっとのことで通りを横断し、おっかなびっくり店内を覗いてみたが、ことごとくハズレだった。


 今度は道端に寄って人混みを観察してみたが、どこにも二人は見当たらない。

 はぐれてからさほど時間は経っていないし、動き回るよりも立ち止まっていた方がよいだろうと判断したのだが、一向に見つけてもらえず、己の行動は不正解だったのだと思い知ることになった。


 しかし闇雲に探し回るのも得策でないだろう。とりあえず、大通り沿いに留まってさえいれば、いずれ見つけてもらえるはずだ。

 そう考え、往来の邪魔にならない端っこで、ただぼんやりと立ち尽くした。


 手持ち無沙汰の中、ラスティは強くヴィオレットを想った。

 彼女が恋しいというより、血が欲しい。肉体がわずかに疲弊している。身体を霧に変えるという人外の技を使い、とても長い距離を移動したせいだろう。


 最後に彼女の血を飲んでから、もう何日経っただろうか、と指折り数える。五指がすべて折られて、ああもう六日目だ、と溜め息を吐いた。


 一昨日の就寝前、『吸っていいか』とヴィオレットに尋ねた。しかし、『今宵は気分が乗らない』と背を向けられてしまった。

 あれ、今夜は素っ気ないなー、と諦めようとしたとき、ふと暴力的な衝動に駆られた。

 たまには荒々しく襲ってみようか。いつもと異なる趣向で挑めば、ヴィオレットも悦んでくれるかもしれない。


 背後から抱き付いて拘束し、力任せに夜着を剥ぎ取ってやろう。イヤだのなんだの言いつつ、最終的には身を委ねてくれるはずだ。女ってそういうものだろう。


 瞼を閉じて入眠体勢に入っているヴィオレットに覆い被さろうとしたとき、彼女の紅いくちびるから低い低い声が流れ出た。


「右と左どちらがいい?」

「え?」

「好きな方を握り潰してやる」


 それが眼球のことなのか、はたまた手足のことか――どの部位を指しているか定かでなかったが、すごすごと引き下がらざるを得ないほどの凄みがあった。


 とりあえず、帰ったら誠心誠意懇願して血をもらおう。霧に変じる術をすぐに習得してみせたのだから、そのご褒美をくれと強請ねだってもいいだろう。

 そう決意したとき、はたと気付いた。


 ――今すぐもらいに帰ればいいじゃないか。


 今頃エドマンドたちは、ラスティを探して右往左往しているに違いない。だが、彼らもすぐに思い至るだろう、探し人が自宅へ帰還している可能性を。


 本音を言えば、エドマンドが邪魔だった。彼が滞在している間は、ヴィオレットの首筋に喰らい付くことができない。

 もちろん彼が嫌いというわけではない。なんだかんだと面倒見がいい青年のことは心から好いていた。


 だが飢餓を感じている今だけは、エドマンドは単なるお邪魔虫だ。彼がいないうちに吸血欲を満たしたい。


 長い漆黒の髪をかき上げ、青白い肌をさらすヴィオレットを想像したら、途端に全身が熱くなった。そわそわした気分のまま路地裏へ入り込み、人目がなくなるまで奥へと進む。


 突き当りは浮浪者の寝床のようになっていたが、幸い今は留守のようだ。やや臭うが、ここで霧になろう。


 逸る気持ちを抑え込み、呼吸を整える。頭に浮かべるのは、ヴィオレットのこと。

 彼女の元へ唐突に現れ、驚かせてやるのもまた一興だ。おそらく、そのあと殴られるだろうが。


 エドマンドがそうしていたように、血に潜む力を全身に巡らせる。

 身体が軽くなり、ふわりと宙に浮いた。肉体が消失したような違和感はどちらかといえば不快だが、果てしない自由を得たような解放感も覚える。


 集中し、ヴィオレットの気配を探る。

 ――捉えた。

 そこだ、そこへ行こうと強く思う。


 耳元で風が鳴っている。目を開けると、景色が恐ろしい速さで通り過ぎていく。この世に存在するどんな乗り物よりも早く動いているに違いない。

 その気になれば、世界中を見て回れるかもしれない。見て回りたい。ヴィオレットとシェリルと。三人で、いつか、きっと。


 高揚した気分のまま『目的地』へ着いた。途端、身体が重くなる。

 霧になっていた身体が実体を得て、重力に従って地面に落ちた。


「いでっ!」


 腰から着地してしまい、悲鳴を上げる。最後の最後で気を抜いてしまった。


 けれど、無事屋敷へ帰り着くことができた。ヴィオレットの気配が濃い。意気揚々と立ち上がったが、すぐに茫然自失する羽目になった。


「どこだ……ここ……」


 放心したままつぶやく。

 どう見ても、見知らぬ屋敷の見知らぬ庭園内だった。

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