(2)

 先生に送ってもらって家に着いた時には、熱がもう三十九度を越していた。薬を飲むのに空きっ腹じゃだめだって言われて、何口かおかゆを食べて……吐きそうになった。しんどい……。


 みゆきちゃんのことは気になるけど、まずわたし自身がしっかり体調を戻さないと何もできない。お母さんが買ってきてくれた風邪薬を飲んで、すぐベッドに横になった。風邪薬には眠くなる成分が入っているらしくて、わたしのまぶたはすぐに垂れ下がった。今度は、夢を見るような浅い眠りじゃなかった。完全に意識を失った状態でまるで泥のように、いや泥の中に沈み込むようにして……眠りこけた。


 目が覚めたのは、翌日の昼。丸一日眠っていたことになる。体の節々がまだ痛かったけど、熱はだいぶ下がったみたい。ただ……食欲がない。一日何も食べていないのに、口に何か入れようという気になれなかった。でも、すっごい汗かいたみたいだし、水分は摂らなきゃ。ポカリ、あるかな。


 よろよろと上体を起こしたら、お母さんがひょいと顔を出した。


「どう? なにか食べられる?」

「食欲ないけど……水分摂らないと」

「ポカリ買ってきたから、持ってきてあげる」

「ありがと」


 しばらくぎこちなかったお母さんとの関係が、いくらか前みたいなざっくばらんな感じに戻った気がして。わたしはほっとしていた。


「飲み物だけでなくて、食べられるなら食べときなさい。薬飲まなきゃならないから」


 ポカリの他にフルーツゼリーを持ってきてくれたお母さんは、机の上にトレイを置いて、すぐ部屋を出ようとした。


「あ、お母さん」

「なに?」

「みゆきちゃんは?」

「長谷辺さんが、イレブンカットと歯医者さんに連れていってる」

「今?」

「そう」


 さすがプロだなあ。わたしが気になっていたところは、ちゃんと見てくれてたんだ。


「服は? ツインズのお下がりだったでしょ」

「昨日、女の子用の服を一式用意してくれたよ」

「じゃあ、昨日はここでずっと遊んでたの?」

「長谷辺さんが密着してくれたの。あんたは潰れてたからすごく助かった。まあ、タクとノボも手伝ってくれたけどね」

「ふうん……大丈夫なんかなあ。みゆきちゃん、こわがってなかった?」

「ぼーっとしてたよ」


 やっぱりか。弟たちのハイテンポについていけなかったんだろな。弟たちにはみゆきちゃんの状況が見えてないから、仕方ないよね。

 わたしの質問に答えたお母さんは、もういいでしょって感じで部屋を出ようとして、何か思い出したように振り返った。


「そういや長谷辺さんが、あんたになんか頼みごとがあるって言ってたな」


 なんだろ。みゆきちゃん絡みだと思うけど。


「長谷辺さんは午後来るの?」

「うん。申し訳ありませんが、あと一、二日みゆきちゃんをこちらで預かっていただけると助かりますって言ってたから」

「そっか。わたしも早く体調戻さなきゃ」

「殺しても死なないあんたにしては、珍しく大どじこいたね」


 お母さま。実の娘を化け物呼ばわりするのはよして。


「まあね。ちょっと……強烈だったから」


 強烈が何を意味するか、お母さんにはわかったと思う。じっとわたしの顔を見つめていたお母さんは、ふっと短い溜息を残して後ろ手にドアを閉めた。

 さっきよりは少しましになったかな。まだ食欲はないけど、空っぽの胃袋がうねうね動くのが気持ち悪い。時間をかけて、なんとかゼリーを一個お腹に押し込み、ポカリを含んで口をすすいだ。


「ふう。もう少し横になろっと」


◇ ◇ ◇


 昼過ぎには、もう眠れなかった。いや、眠かったけど眠りたくなかったんだ。あの違和感まみれの脳裏にこびりつく夢を、どうしても見たくなかったんだ。何も考えずに目だけをぽかっと開けて、天井の一点をじっと見つめてた。体にはまだ力が入らないけど、頭だけはしんと冴えてきた。


「ん……」


 違和感があるのは、さっき見た夢だけじゃない。現実に起きていることにも、ものすごく違和感を覚えてる。そう、みゆきちゃん。おとついは、みゆきちゃんがあまりにかわいそうで、何も深く考えられなかったんだ。でも、どうもおかしい。


 お母さんや長谷川さんは、みゆきちゃんが置かれていたアパートを見に行って、そこには何もなかったって言ってた。お菓子とお水がちょこっとあるだけで、他に何もないって。それは、育児放棄なんていう生易しいもんじゃない。あの場では言えなかったけど、まさに捨て子なんだ。


 だけど、ここに来る前にお母さんと一緒にいたことは確かだよね。ずっとあんなひどい扱いをされていたら、とっくに通報されてるか、みゆきちゃんが病院行きになってるはずなのに、そういう感じじゃないんだ。

 確かに汚れていて臭かったけど、何年も積もり積もってというほどでもなかった。部屋に鍵がかかってなかったのもおかしい。わたしたちの話しかけをちゃんと理解できてるんだから、知能が極端に低いってわけでもない。そして、あのご飯の食べ方。お腹が空いてたっていうことだけ? うーん……。


「ゆめー、起きてるー?」


 お母さんの声で我に返る。


「起きてるよー。少しましになった」

「よかった。長谷辺さんが見えてるけど、話できそう?」

「うん、着込んで下に降りる。ちょっと待ってて」

「無理しないようにね」

「大丈夫。熱は下がったみたいだから」

「さすが化け物」


 反論する元気はまだない。大きな吐息をつっかえ棒代わりにして、よっこらしょとベッドから降りる。ベッドの上からわたしがいなくなって、丸く残された毛布や羽毛布団が、まるで空っぽの鳥の巣のよう。わたしは、まだ巣にうずくまっていたいけどな。


「ふううっ」


 空いた巣に溜息を置く。わたしの代わりに、それを温めてもらうことにしよう。


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