(3)
もこもこに着込んで、慎重に階段を降りた。まだ足元がおぼつかない。おとついのみゆきちゃんの方が、ずっと元気だったよね。我ながら情けない。
リビングには長谷辺さん一人しかいなかった。お母さんてば、まあたお客さんを放り出してる。困った癖だよなー。あれ? そういや、みゆきちゃんは? わたしが首を傾げたのが見えたんだろう。長谷辺さんがすぐに説明を始めた。
「体調はいかがですか?」
「あはは。ちょっとひどい風邪引いちゃったみたいで。熱が……」
「お大事になさってくださいね」
「はい」
「お話させていただいて、大丈夫ですか?」
「はい。あの、みゆきちゃんは?」
「ちょっと微妙な話になるので、今は同僚の相談員にみてもらってるんです。私と入れ替わりでここに戻ります」
持っていたクラッチバッグから何枚かの資料とノートを出した長谷辺さんは、みゆきちゃんがいた時には決して見せなかった厳しい表情で話を始めた。
「これだけ世の中全体が幼児虐待ということに対して厳しい目を向けるようになっているのに、なぜ虐待事件が後を絶たないと思います?」
「え……と」
いきなり厳しい質問から始まると思ってなくて、口ごもっちゃった。
「簡単なことです。虐待する親を責める人はうんざりするくらいいるのに、困難に直面している親を助けようとする人がものすごく少ないからです」
「あ……」
「みんなしたり顔で、親なら子供の世話をするのは当たり前だろって言うんですよ。自分はろくすっぽ世話できていないくせにね」
長谷辺さんの言葉は激烈だった。何も言えなくなる。
「児童福祉の現場は、いつもそのジレンマに悩まされるんです。子供を保護することはいつでもできますよ。でも、どんな子でも実の両親は一人ずつしかいないんです。その親がどれほど鬼畜であってもね」
「……はい」
「虐待を繰り返す親から子供を引き離すことは、子供を守るために不可欠である反面、私どもにとって最悪の罪になるんです。現場を知らない一般の人たちは、そのジレンマを甘く見てる」
眉間に深いシワをよせた長谷辺さんが、真っ直ぐに私の顔を見つめる。
「あなたも、みゆきちゃんの母親がとんでもないやつだと思っているでしょ?」
嘘はつきたくなかった。その人にどんな事情があろうと、していいことやっちゃいけないことの区別くらいつくだろう。
「正直に言えば」
「それは仕方ないわ。でも、だからと言ってみゆきちゃんから一方的に母親を引き剥がすことはできません」
「……」
どうも……納得いかない……けど。わたしの不満顔をじっと見ていた長谷辺さんは、ぐんと頷いた。
「もちろん、今のままなら破滅ですよ」
「はい!」
「親子の距離を一度離して、歪んだ関係を修復し、感情をリセットできる時間を確保する。ネグレクトや虐待から子供たちを守るためのファーストステップは、まずそこからなんです」
距離を離す……かあ。
「親にとっては、我が子の意味を考え直すチャンスが与えられます。チャンスを与えられてもなお放り出すことしか考えていない親には、その考えが変わらない限り子供を戻せません。子供は親の道具なんかじゃないからね」
「はい!」
「親が育児を担えないほど壊れているなら、血は繋がっていなくてもちゃんと愛情を注いでくれる第三者を探す必要があります」
「里親ってことですね」
「そう。でも里親を務めるのは、そう簡単なことじゃないのよ」
「どうしてですか?」
「親代わりが務まるかという適性の問題だけじゃなく、相性が絡むからなの」
「相性かあ」
長谷辺さんが、ふっと息をついた。
「里親は神様なんかじゃない。普通の人よ。そして、実の親子なら血の繋がりでなんとかできるところが、里親では必ずしもカバーできないの」
「あ、そうかあ……」
「お互いの感情がズレてもめた時に、どっちも大きなストレスを抱え込むことになるでしょ? 元は他人同士なんだから」
「はい」
「そのとばっちりは、里親じゃなくて子供の方に出るの。悲劇が倍になっちゃう」
思わず頭を抱え込んじゃった。確かにそうだあ。
「だから、子供との心の距離を上手に調整できる人じゃないと、安心して預けられないの」
ノートを何枚かめくってじっと見ていた長谷辺さんが、厳しい表情のままわたしに向き直った。
「みゆきちゃんは、誰かにすがりたい。でも、すぐ離れてしまう人にはすがりたくない。せっかくもらえると思った愛情を取り上げられてしまうように感じるから」
うう。そっかあ。
「施設を嫌がるのはそういうことだと思う。でもね」
「はい」
「あなたが全力で遊んでくれたことは、みゆきちゃんにくっきり刻み込まれたの。おねえさんはやさしい。わたしといっぱいあそんでくれる。それは義務ではなく献身。子供は義務と献身を区別して、ちゃんと見抜くんですよ」
「そうなんですか!」
「ええ」
知らなかった……。
「薄情な母親に当てつけるとか、かわいそうにという一方的な同情からじゃなく、みゆきちゃんが心の底から望んでいることを探ってストレートに寄り添った。それが無意識にできる人は、とても限られるんです」
長谷辺さんが、わずかに微笑んだ。
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