(5)dreamer side

「斉木さんを紹介してくださって、ありがとうございました」

「誰かわかりましたか?」


 夜遅くの一人歩きは危ないからって私のアパートの前まで付き添ってくれた森下さんが、心配そうに確かめる。


「わかりました」

「そうですか……」


 本当は、それが誰かを聞き出したかったんだろう。でも、森下さんは質問を飲み込んで、すっと頭を下げた。


「元気出してくださいね」

「はい。ありがとうございます」

「気になることがあったら、またご相談ください」

「お世話になります」

「失礼します」


 もう一度丁寧に頭を下げた森下さんが、とぼとぼと帰っていった。


「ふうっ……」


 部屋に入って灯りを点け、コートを脱いでハンガーにかける。それからエアコンを入れて部屋を暖める。ミルクティーを淹れようかな。ずっと続いていた緊張が柔らかく解れて。私はいつの間にか泣いていた。悲しい涙じゃなく、安堵の涙。


「うん。視てもらって、よかったな」


◇ ◇ ◇


 ミルクティーの暖かさが、こわばっていた体を緩めた。大きなクッションに背中を預けて、手足をだらしなく放り出す。実家でこんな格好をしたら、父にすぐ殴られていただろう。

 DVという概念や事例が広く知られるようになったけど、それが明るみに出ないうちみたいな家は今でも少なくないと思う。私の最大の不幸は、先に父のDV被害に遭った母が子供の私を見捨てて逃げてしまったことだろう。残された幼い私には、どこにも逃げ場がなかったんだ。私は……今でも母を父の共犯者だと思っている。生涯許すつもりはない。


 父は、外面だけはよかった。しつけの名目で私を調教しにかかったんだ。父の指導通りに思考し、行動し、家事をこなすことが私の存在意義であり、父の意向に逆らうことは一切許されなかった。父が母に望んでいたのは、控えめで従順な侍女。母にはめきれなかった恐ろしく強力な拘束具が私にがっちり装着され、私は息ができなくなった。父が理不尽に振るう暴力や暴言は私を激しく萎縮させ、小学校のうちから度々過呼吸で倒れた。


 成長とともに、父の着せようとする拘束具はだんだん私にはまりきれなくなってきた。父は、私の意思を徹底的に切り刻むことで無理に拘束具の中に収めようとしたんだ。その頃から……自傷行為を、リスカをするようになった。父の専横がまだ続いていたら、私は間違いなく廃人か死人になっていただろう。


 幸運だったのは、私が辛うじて正気を保てているうちに父が急死したこと。父の葬儀の時に私が泣いていたのは、悲しかったからじゃない。これ以上の抑圧はもうないってこと……父から解放されたことがどうしようもなく嬉しかったから。父に感謝しているとすれば、大学を出るまでなんとか暮らせる財を残してくれたことだけだ。それ以外は何もない。


 父から解放された私は、のびのび暮らせるようになった? そんなわけはなかった。長い間の抑圧が私をかっちかちに押し縮めてしまい、それこそ父が望んでいたような控えめで礼儀正しいお嬢さんという枠から一歩も出られなくなっていたんだ。ただ、それは対人関係での話。

 自己表現したくないわけじゃない。やり方がよくわからないだけ。だから慌てないでのんびりやろう。それより抑圧がないという自由をもっと楽しみたい。たとえそれが自室の中だけに限定されていたとしても。自分自身を好きなように出せる空間をまず作ろう。私は楽観的に考えてたんだ。


 大学を卒業して、事務員として働き始めて。最初は必死だった。仕事を覚えるだけでなく、同じような事務職の人たちの話にどうついていくかに苦労して、神経をすり減らした。でも話を合わせることには慣れてるし、オフの付き合いもなんとかこなせた。そのうち同僚が私の薄味に慣れてくれた。会社でのストレスが大幅に減って、オフものんびり過ごせて、まるで天国を手に入れたみたいだった。こんな幸福があっていいのかと……思ったんだ。


 でも。天国が音を立てて崩れるまで、いくらもかからなかった。最低最悪のストーカーにつきまとわれるようになったから。


 最初はイタ電。自宅の留守電に、頻繁に無言電話がかかるようになったんだ。父の後始末のことがあったから家電を維持してたけど、気味の悪い電話を受けたくなくて、電話を解約した。そうしたら、今度は携帯にかかるようになった。非通知と登録していない番号からの着信を拒否し、電話が黙り込むようになってほっとしたら。どこから住所が漏れたのか、郵便受けの中に白紙の入った茶封筒が突っ込まれるようになった。


『俺はおまえのことを何でも知っている。俺のことは何もわからないだろう?』


 そう言わんばかりの、嫌がらせ。


 ぞっとして。すぐ別のアパートに引っ越した。引っ越したその日のうちに、例の茶封筒が郵便受けに入っていた。そのアパートには防犯カメラが設置されていたから、大家さんに頼んで画像を確認させてもらった。郵便受けに茶封筒をねじ込んでいたのは、全く知らない中年の男。私は、大家さんの承諾を得て画像をコピーし、それと茶封筒を持って交番に駆け込んだ。ストーカーにつきまとわれている、と。

 私を付け回していた男は、お巡りさんから口頭で警告を出された。つきまといをやめろ。警告を無視するならストーカー規制法に基づいて逮捕するぞ! でも男は、散歩していただけだとしらを切った。それから私への嫌がらせが陰湿になり、頻度が倍増。被害を受ける度に交番に通報したんだけど、その訴えがスルーされるようになってしまった。神経質な女がごちゃごちゃうるさい。そう思われてしまったんだろう。警察の対応は全然あてにならなかったんだ。私はまた転居せざるを得なくなった。


 その後、ストーカーの嫌がらせとそれへの対応や転居がいたちごっこのように続いて、平穏な日が一日もなくなった。父の死後は一回もしようと思わなかったリスカが復活し、不眠とダブルで私をさいなむようになった。破滅の足音がいつの間にかひたひたと迫ってくる。それは妄想ではなく、現実なのに。誰も……誰もそう思ってくれなかったんだ。


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