(5)dreamer side

 ムラとの思いがけない再会があって。ここんとこどうしようもなく重苦しかった気分が、すっきり晴れた。足取り軽くアパートに帰って、勢いよく室内に飛び込む。夢乃さんから受け取った茶封筒をデザインデスクの上にぽんと乗せ、冷蔵庫から炭酸水を出して一気飲みする。


「げぷっ……ふう」


 椅子に体を投げ出し、思い切り軋ませる。ぎしぎしっという耳障りな音。でも、それで目が覚めてがっかりするってことはない。これは現実……紛れもなく現実だ。


「うっひょおおおっ!」


 一人で奇声をあげる変な男。今日だけはそう思われても構わない。気分は最高だった。


◇ ◇ ◇


 俺は……もう会社を辞めようと思ってたんだ。


 会社での仕事や人間関係に不満があったわけじゃない。俺の望んだ職種。俺の望んだ仕事内容。俺の望んだ職場環境。俺が望んでいたものは、全て叶えられた。何も不満はなかった。こんな幸運がぞろっと揃っていいんだろうかと頬をつねりたくなるくらい恵まれていたと思う。

 だけど、叶えられた理想の中に、俺自身だけが収まらなかったんだ。技量とか適応性が足りないからってことじゃない。足りない部分は、訓練すればいつか満たされるはずだから。そうじゃないんだ。


 子供の頃から今に至るまで、年を重ねるごとに入れ替わっていく人との付き合い。その変化は、俺だけじゃなく誰にでも共通なんだろう。旧来の付き合いが、時間経過による風化に耐えられずに薄れる。それは仕方ない。つながりを補強しようとするアクションを欠けば、自然に疎遠になるのは当たり前だ。

 でも、新たに築かれる人間関係の刺激や喜びが喪失を上回るとは限らない。俺は人間関係の構築にかかるコストの増加に耐えられなくて、息が上がるようになっていたんだ。


 大学までは、ほとんどコストをかけなくても気楽に、気軽に友人を作れた。性格も嗜好も全く違う様々な人種が混在した母集団の中から自ら選び、選ばれる自由が保障されていたから。その自由が、社会人になったとたんにごそっと削げ落ちた。

 いや……誰かが俺を疎外したわけじゃない。逆だ。みんな、俺が馴染みやすいようにと配慮してくれる。大学の時よりむしろ、人間関係構築のためのコストは下がってるはずなんだ。でもそういう至れり尽くせりが、かえって俺にはプレッシャーになる。


『これだけよくしてくれるのだから』


 俺は、自分の気持ちにものすごく強いバイアスがかかっていることを、毎日意識せざるをえなくなった。それから俺は「俺の領域」の中でしか息ができなくなっていった。

 上司の指示を聞き、打ち合わせをし、進捗状況の報告をする。仕事での感情を伴わない会話は、なんの苦もなくスムーズにこなせた。でも昼休みに社食で同僚とバカ話をしながら談笑することが、ものすごく苦痛になったんだ。


◇ ◇ ◇


 大学時代は、何も意識せずに自由自在に話を散らかすことができた。吐き出した言葉が、どこにどう落ちて、転がって、消えていくのか。そんなのはひとっつも考えたことがなかった。もちろん、言葉がスベったり行きすぎたりして友人を怒らせたことはあったが、それはお互い様だったんだ。

 感情や思考と言葉とを直結させ、言葉のでこぼこの影響は自分の中で消化する。それでなんの支障もなかった。


 そういうローコストな意思疎通が、就活や卒ゼミの間にみるみるうちにしぼんでいった。負わされる責任の小さい学生から、自業自得が明確な社会人へ。もちろん、その意味も意義もよくわかっている。……いや、わかっているつもりだった。実際、社内のマナー研修や技術研修は卒なくこなせたし、言動の調整は自分にはなんのハンデにもならないと思っていた。


 でも。そうやって「作った」自分の外形は、俺自身にとってものすごく使い勝手の悪い容器だったんだ。ぎごちなくて、あちこちに亀裂が入っている。ちょっとでも気を抜くと、素の自分がだらしなく漏れて、自分だけでなく周囲まで汚してしまう。その恐怖……。


 さらに。自分にとってもっとも望ましいと思っていた技術屋という職は、ぎごちなさに輪をかけてしまうポジションだったんだ。

 技術職員には、無駄口を叩かないで仕事に集中する生真面目なタイプの人が多かった。斉木課長もそうだ。彼らは仕事から外れている時間にも全体に抑制的で、会話が少ない。仕事の話は熱心にしても、いわゆる「弾ける」話題が出てこない。会話の接点を探すことにものすごく苦心する。そこになんとか自分を合わせよう合わせようとしている間に、自分が縮んでしまったんだ。まるで、小さな箱に閉じ込められたノミが箱の高さまでしか飛べなくなるみたいに。


 大学時代の奔放さを失った俺は、コミュニケーションにエネルギーを注ぐことを、どうしようもなく苦痛に感じるようになった。


 自分の四方から、ゆっくりと壁が立ち上がってくる。壁で囲まれた中にいれば、その領域内にいれば自分を崩さなくても済む。でも、その領域から外に出られなくなるんだ。

 何もかも手の届くところにあるのに、どんなに手を伸ばしても壁が邪魔で触れられない。そんな奇妙な疎外感が現実から溢れて、夢にまでなだれ込んでしまった。夢までが現実にぎちぎち支配されて。俺にはどこにも逃げ場がなくなった。もう……限界だと思ったんだ。


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