(6)dreamer side

 やっと人でなしの夫から解放されて、よかったじゃないか。誰かに相談すれば、きっとそう励まされただろう。でも専業主婦として家にこもっていた私には、夫の給料以外の収入がない。ささやかな蓄えを使い切ったら、すぐ一文無しになってしまう。現実を支えていた夫の失踪で経済基盤が突然崩壊した私は、追い詰められてしまったんだ。

 以前から不眠で精神科に通ってたんだけど、もう何もかも終わりにしたくなった。死ぬ前に、夫が行くと言い残した山陰でも見に行こうか。旅行どころか、買い物ですら二人で出かけたことがなかったんだから、そのくらいの「つもり」はいいよね。


 それでも。この期に及んで、私にはどうでもいいと思ったはずの生命維持を諦める覇気がなかった。旅行に出れば、残り少ない貯金がもっと少なくなる。頼れるものが何もなくなる。

 結局私が手にしたのは山陰行きの切符ではなく、数枚の絵葉書。それを穴があくほど見つめて現地にいる私と夫を想像してみたけど、どんなに夫の顔を風景の中に当てはめようとしてみても……できなかった。それだけが、私のせめてもの抵抗だったんだろう。犬でもくらげでもなく。女としての、せめてもの抵抗だったんだろう。


 そして。心が疲れ切ったままソファーでうたた寝している間に、私は行ったこともない山陰を旅行している夢を見たんだ。絵葉書で見た光景が目の前にパノラマのように広がっていて。その景色にぴくりとも心が動かないかさかさに乾ききった私がいて。乾ききっているくせに、隣に誰かがいるはずだとうろうろと幽霊のように歩き回って。夢は、現実の私とこれっぽっちも違わなかった。

 せめて。せめて、絵葉書以外の何かが見えていなかっただろうかと。それが私にとっての出口になるんじゃないかと。夢から覚めてすぐに、自分の夢の中身をどうしても確かめたくなった。


「そうだ。確か……」


 韓国ドラマフリークの隣の奥さんが、夢に出てきた俳優を特定してくれるすごい人がいるって言ってたのを思い出し、奥さんに斉木さんのお宅を教えてもらって駆け込んだ。斉木さんは快く私の夢を視てくれたけど、結果はどこまでも正確で無情だった。斉木さんが描いてくれた何枚かのスケッチは、私が絵葉書の世界から一歩も出ていないことを容赦なく示していたんだ。

 私はどこにも出られない。出口がない。これまで経験したことのない、最悪の閉塞感と絶望感に苛まされた。打ちひしがれて帰宅した私は、溜め込んでいた睡眠薬を一気にまとめ飲みした。もう何もかも終わりにしたかった。それが私に残されていた最後の気力だったんだ。


 ちょっと……足りなかったけどね。


◇ ◇ ◇


 薬の影響がなくなれば、すぐに退院。医師にそう告げられても、私には現実感がなにもなかった。病院のベッドの上で、何も考えられず、何も考えたくなくて、ただぼんやりしていた。午後の検温の時に、夕刊を持ってきてくれた看護師さんが私に話しかけた。


「津村さん、同じ苗字の人がこんな事件起こすなんて、嫌なもんだよねえ」

「え?」


 看護師さんの指差した新聞の三面記事。男が実の両親を惨殺して逃亡していたものの逃げ切れず、殺人と死体遺棄の容疑で逮捕されたというもの。手錠をかけられて連行される男の俯いた姿は……間違いなく夫だった。私の意識は、突然ぷつりと切れて。世の中が真っ白になった。


「ちょ、ちょっと津村さん。津村さん、どしたの? 大丈夫っ? 先生ーっ!」


◇ ◇ ◇


 なぜ。なぜ山陰だったんだろう? わからない。最初からわからない夫の心の中が、今さらわかるわけがない。目的はわかる。私を巻き込んで、警察の捜査を撹乱するためだ。鳥取、島根だと言い残して家を出た時は、もう犯行の後だったんだろう。ぞっと……する。


 ともかく。この世とおさらばしようとした私は、何の因果か生き残ってしまった。親を殺してまで我を通そうとした夫は、これから自分の生命が強制消去される恐怖に怯えながら日々を過ごすことになるんだろう。

 もうすでに、私が立っていられる場所はわずかしか残っていない。その場所まで「犯罪者の妻」という蔑称と引き換えに取り上げられるわけにはいかない。今までどうしても決心がつかなかった離婚という手段は、選択肢ではなく必須になった。それなら私は、突きつけられた機会を活かすしかない。


 列車待ちの空き時間。品川のアクアパークで、水槽の中にふわふわ漂っているくらげをじっと見つめる。水流にただ流されているように見えるくらげ。でも、くらげは必死に泳いでる。毒を使ってえさを採る。骨がなくても骨がないなりに生きてるんだよね。生きていくっていうのは、きっとそういうことなんだろう。


 あの絵葉書は捨ててしまった。代わりに、斉木さんが描いてくれたスケッチを持って歩いている。斉木さんが描いた数枚の絵。それは決して上手じゃないけれど、絵葉書と違ってはっきり彼女の個性を主張していた。

 私も、今度こそ自力で好きな絵を描こう。下手だっていいじゃないか。だって、それが私の絵なんだもの。ささやかな喜びとともに、手元のチケットを見つめる。行き先は鳥取と島根。


「うん。気ままな一人旅も、悪くないよね」



【第五話 夢の骨格  了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る