(5)dreamer side

 斉木さんのお宅から帰った時。私はもう……限界だった。誰もいなくなった家の明かりを点けることもせず、溜め込んであった睡眠薬を玄関先で一気に飲み下した。それで全部終わりにするつもりだった。なにもかも、どうでもよかった。

 意識のかけらも残さず『私』という存在が完全に消えてくれたのなら。私はその結末に大いに満足しただろう。でも……私の決意も選択も、どうしようもなく中途半端だったんだ。


 意識が遠ざかっていく私を見つけたのは、天使でも仏様でもなく、回覧板を届けにきたお隣の奥さんだった。玄関先で倒れている私。手からこぼれていた薬。それを見て悲鳴をあげた奥さんはすぐに救急車を呼んだ。まだ私の意識が残っているうちに。

 どうしようもない。私は……どうしようもない。どうしようもなく弱くて、ぐだぐだだ。


 睡眠薬自殺なんか、今時誰も考えませんよ。怒ったような医師の説教の荒波が、再び此岸に打ち寄せられてしまった私を容赦なく揺さぶった。まだ朦朧としている意識の中で。私はまた一つ、しょうもない後悔を積み重ねた。


◇ ◇ ◇


 夫の様子がおかしいのは、昨日今日のことじゃない。最初からずっとだった。


 夫が私と喜んで結婚したわけじゃないのはわかっていた。三十路を越しても生活が浮ついたままだった夫の親が、所帯を持たせれば落ち着くんじゃないかと縁談の相手を探していて。地味で引きの弱い私に目をつけた。華やかさはないけれど、とても落ち着いたお嬢さんよ。義両親は、私のことを夫にそう説明したらしい。

 私は私で、ロマンスのロの字もないまま、ただ茫洋と仕事に流されていく日々に焦りを感じていた。親とはもう死別していたし、兄弟も仲のいい友人がいるわけでもない。私は、恋愛云々以前に自分を係留してくれる人が欲しかったんだ。そのしょうもない意識が……悲劇の幕を開けてしまった。


 夫は、私の人格なんかどうでもよかったんだ。俺が何をしても文句を言わない、逆らわない女。そういう下女を探していたんだろう。結婚するという事実を作って、親と自分の体面を整え、裏では自分の好き勝手に振る舞う。これまでの生活スタイルを変えるつもりは、これっぽっちもない、と。

 私に、夫の意図の裏が見えなかったわけじゃない。冗談じゃないと突っぱねればそれまでだった。でも……私はどうしようもなく弱かったんだ。誰かに寄りかかっていないと立っていられない、ぐにゃぐにゃのだらしない性格。それを、義両親にも夫にも見透かされていたんだろう。ああ、ちょうどいいじゃないか。犬小屋に入れてエサだけやっておけば済む、便利な女がいるって。


 夫は、最初から私に宣言していた。俺は二人きりの旅行なんか行く気はない。それでなくても出張であちこち行かされるんだから、休みの日は全部俺の時間にしたい。かまわんでくれ。

 俺の時間? 夫が家にいたことなんか、ほとんどなかった。夜遅くに仕事から帰ってきて、朝ごはんも食べずにすぐ仕事に出る。出張で何日も家を開けることは珍しくなかった。

 仕事? 仕事なんかじゃないよね。私と暮らしているという事実だけをタイムカードに刻むみたいにぽんと残して。あとの時間は、外で他の女と気ままに過ごしていたんだろう。浮気がどうとかいう生易しい次元の話じゃなかった。


 早く孫の顔を見せろと無神経にせっつく義両親に、仕事が忙しくてそれどころじゃないと言い放っていた夫。何を言ってるんだろう。夫婦生活なんか一度もなかったじゃない。まるで汚れたものを見るような目で、いつも私を拒絶した。俺には犬を抱く趣味はない、と。人間としての女以下。飼い主がどういう性格であってもえさをねだる犬と同じように、私をとことん見下していたんだろう。

 でも。私は耐え忍んだ。犬扱いを受け入れたからじゃない。妻という立場が保証するもの——収入であり、生活であり、世間体であり——それらに依存してしまったからだ。立場を失えば、あの頃より年を重ねた私にはどこにも居場所がなくなる。老いぼれの野良犬になってしまう。


 地味でまじめな奥さん。そういう評判だけを後生大事に抱えて。こつこつと妻の真似事だけを続ける。私はそれでもいいと思ってたんだ。どんなに歪んだ生活であっても、それで私が生きていけるのならば。


 だけど。私のささやかな願望は、ある日突然打ち壊された。


◇ ◇ ◇


 その日も、いつもと何も変わらなかった。


「出張だ」


 短く夫が言って、さっと家を出ようとした。


「どこですか?」


 いつもなら、どこでもいいだろとにべもなく言い捨てる夫が、珍しくぼそっと答えた。


「鳥取、島根だ」


 それが、私の聞いた夫の最後の言葉になった。いつもの出張なのかと思ったんだけど、会社から電話がかかってきたんだ。出勤してこない、と。奥さんは彼がどこにいるか知りませんか、と。驚いて「鳥取、島根に出張だと言っていましたが」と答えたら、会社の回答は耳を疑うものだった。


「うちの社では、事務員に出張なんかさせませんよ」


 慌てて、今度は義両親のところに電話をしたんだけど。何度かけても電話が通じない。ああ……私は夫からも義両親からも捨てられてしまったんだ。私には身内も友人もいない。頼れる人が誰一人いなくなってしまった。いきなり足元ががらがらと崩れて。放り出された私はくらげになってしまった。野良犬以下。くらげだ。


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