(4)

「じゃあ、トライしてみます」

「お願いします」


 しゃきっと背中を伸ばしたおじいさんが、右腕を伸ばした。手のひらを上に向けて開いてもらう。


「なんだね。まるで血圧測るみたいだね」

「あはは。そうですね」


 すうっと息を吸い込んで、集中する。


「目をつぶって、昨日見られた夢を思い出すようリラックスしてください。時間がかかるので、何度か作業を繰り返します」

「わかりました」


 しわだらけの手のひら。その真ん中に、慎重に右指を置く。


「わ!」


 思わず声が出てしまった。おじいさんが、その夢の記憶を消し去らないようどれほどの努力してきたのか。それが即座にわかる光景だった。薄い鉛筆書きの輪郭の上を、極太のマジックで塗り足したような不自然な光景。道ゆく人たちには全く形がなく、まるで幽霊のようだ。その人々の間を、ひっきりなしに二人の男の子が走り回っている。おじいさんがノートに克明に書き残してきた夢の光景と、まるっきり違いがない。でも。


「んー……」


 そう。おじいさんの夢の中で、唯一わたしだけがおじいさんと違う見方ができる。わたしの視線は、おじいさんとは別にできるんだ。


 ぐるりを見渡す。今ではなく、ずっと昔の街並み。その景観は、ほとんどディテールが欠けて風化していた。くっきりしているのは二人の男の子だけ。そして、わたしの目に映った男の子の年齢は、おじいさんの記録と違う。お兄さんは見た感じ小学校低学年くらいだ。せいぜい七、八歳。おじいさんの記録よりも幼い。そして、おじいさんはもっと幼い。三、四歳くらいじゃないかな。小さな子供の目から見ると、年の差は増幅されて感じる。ものすごく大人に見えるんだ。記録とのずれはそこから来てるのかもしれない。

 だけど、腑に落ちないことがある。おじいさんが、わたしの見た目通りにうんと幼いとしたら……。たぶん、鮮明な記憶なんか残らない。わたしも、小学校に行く前のことなんかほとんど覚えていないもの。アルバムの写真を見て、お母さんに「あんたはこうこうだったのよー」と説明されて、ふうんと思うくらいだ。


 慎重に視線を動かして、おじいさんとお兄さんの顔を見比べる。


「!!」


 思わず絶叫しそうになっちゃった。そっくりじゃん! 双子っていう感じじゃないけど、間違いなく実の兄弟だってわかる。でも、三、四歳くらいの年齢でお兄さんの顔をはっきり記憶できるだろうか。それは、どう考えても無理があると思う。

 つまり、おじいさんが夢で再現している記憶の多くは、あとから誰かに植え付けられている可能性が高い。実際に夢に出てくる人物像は孤児院時代のもの。でも夢の中のシチュエーションは、誰かに「こうだよ」と教えられたもの。現実と伝聞が入り混じっちゃってる。そんな風に見える。


 兄弟のかけっこから目を離して、街並みではなくもっと高いところに視線を上げる。なにか、ランドマーク的なものが見えないかなあと。


「あるじゃん……」


 そうか。お兄さんの背中を追うことだけに必死になっているおじいさんには、視線を上げてもほとんど街並みしか見えないんだ。一度指を離して、ふうっと大きく息を継ぐ。


「どうですか? 視えましたか?」


 不安そうに開いていた手のひらを何度か開閉したおじいさんが、そう聞いた。


「はい! たぶん、場所が特定できると思います」

「本当ですかっ!」


 まるでこの世の最高の幸福を手にしたかのように、おじいさんの表情がぱっと華やいだ。


「すみませんけど、あと何度かさっきの作業をさせてください。へたくそなわたしでも、たぶん特徴は描き出せると思います」

「何が視えたんですか?」

「山です。遠景にはっきり見える高い山。富士山じゃないです。もっと街から近くてごつい感じ。山頂に雪をかぶっています」

「山……か」


 おじいさんの頭の中には、その要素が全く入っていなかったんだろう。呆然としている。


「再開しますね」

「お願いします」


 わたしは、山の輪郭と街並みとのバランスをできるだけ詳しく描き出した。夢に伝聞が混じっているとすれば、建物の造形とかはまるっきりあてにならない。でも大きな山、広い川、遊びまわった草原みたいな自然景観ていうのは、年齢に関係なく印象に残りやすい。実物が説明で補強されていればなおさらだ。そこが、場所を特定する突破口になるような気がしたんだ。


 描き上がったスケッチをおじいさんに渡して、もう一度夢視に入る。


「まだ何かあるんですか?」

「はい。山とかは物としての背景ですよね。でも、まだ視えてない心の背景があると思うんです」

「心の背景、か。それは?」

「お兄さんと高島さんが持ってた宝物がなにか、です。それはノートに記載がなかったので」

「おう! そうだ! 確かに、それもわからないんです」

「でしょう? 確かめます」


 山のスケッチの時とは逆。今度は子供の手元を集中して見つめる。おじいさんの持っていたものはブリキの飛行機。それはすぐにわかった。問題は、お兄さんが持っていたもの。

 夢の場面が進んで、地面に穴を掘って宝物を埋めるシーンが現れた。わたしは全神経を集中してお兄さんの手元を凝視する。それが何かわかったところで。


 ——涙腺が壊れた。


「家族の……写真だ」


 両親と兄弟。四人揃って幸せそうに写っている家族写真。それが……お兄さんの宝物だったんだ。


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