(5)

「んっ!」


 わたしは一度指を離す。不満そうに先輩が意識をこちらに戻した。


「どうしたの?」

「ちょっとキーボードの位置を変えます。手が交差しちゃってうまく押さえられない」

「そっか」

「残響がものっすごく強い。確実に拾えますよ」

「ほんとうにっ!?」


 興奮したように先輩が立ち上がろうとしたから、慌てて押し戻す。


「でも、イメージが強い時はノイズも大きいんです。きっちり集中しないと正確に拾えないので」

「わかった。お願いします」


 先輩の夢の中に響き渡っていた『音』。わたしの中に流れ込んでくる音は、これまで視た夢の中でもっとも鮮烈だった。その音が、どれほど強く先輩の記憶に焼き付いたのかがよくわかった。

 先輩が言ったみたいにライブシーンっぽいんだけど、シーンがごく一瞬だけしか残ってなくて、しかもディテールが全部消し飛んでる。夢がひどく断片化してて、映像がうまく再現できない。先輩の意識が音に捕まった途端に、音を覚えようとして画像やストーリーがほとんど不純物として捨てられてしまったんだな。ライトが当たる感覚を覚えているのは、それだけ覚えていればもう十分だってことなんだろう。立ち位置は再現できないし、再現する意味もない……か。

 映像を無視してこれでもかと響き渡っている音は、映像と違って時の流れに従ってる。ただ、一音一音がきれいに分離していない。輪郭を失った静止画の上に角の立った音が無数に折り重なって、これでもかと鳴り響いているって感じ。


「再開します。これから、音を拾ってキーボードで確かめる作業を何度も繰り返します。先輩の夢の残響がキーボードの音に影響されないように、キーボードの音はヘッドフォンで聴きますね」

「おっけーです」


 シーンの描写や映像化の場合は割とさくさく行くんだけど、旋律の再現っていうのは初めての経験だった。わたし、音楽の成績悪いし。でも根気よく音を拾っていくうちに、キーボードに記録された音が聞き覚えのある曲を奏でるようになった。アレンジはされてるみたいだけど、原曲は米津玄師さんの檸檬レモン。さすがにわたしにもわかった。

 一時間くらいかけてわかったのは、それだけ。先輩はその事実を目の前にして、明らかにがっかりしていた。カラオケで歌ったこともあるし、バンドのお遊びでやったこともあるけど、ものすごく好きな曲ってわけじゃない。そうこぼして、何度も溜息をついた。


「ものっすごくインパクトがあったんだけどなあ」


 わたしも意外だった。残響が焦げ付くくらい強靭な音だったら、極端に言えば旋律どころか最初の一音でもう震えがくるはず。


「ん? なんか、変」


 え……と。最初の一音で。一音……で。


「そっかあ!」

「どうしたの?」

「先輩、夢の中でギター弾いてますよね?」

「弾いてたと思う」

「それだあっ! わたし、そのイメージにまんまと引っかかっちゃった」


 わたしの出した大声にびびって、先輩がのけぞった。


「それって、きっとギターの音じゃないです」

「あああっ!」


 先輩の中でも、びりびりっと電気が走ったんだろう。

 記録に使っているキーボードは、音色を変えられる。わたしは、先輩の夢の中で響き渡っていた『音』そのものを照合してみようと思ったんだ。ギターの金属弦の音は震え、振動。でも、わたしが夢の残響から聞き取ったのは破裂。そう、部室の前で先輩が指を鳴らした時のアタック音、それにずっと近い。ぱんっ……て爆発して広がるイメージ。


 そのイメージをもとにキーボードの音色を変えながら聴き比べ、とうとうジャストの音にたどりついた。


「これこれ、これだあああっ!」


 興奮した先輩が、拳と拳をがちんとぶつけた。


「やりいっ!」


 ぱちん! 思わず先輩とハイタッチしちゃったよ。


「トランペットとか、そんな響きですよね」

「うん、間違いない。金管ブラスかあ。そらあわからんはずだ」


 ずっと硬い表情だった先輩の顔が柔らかく解れた。目尻が下がって、その端にわずかに涙がにじんでいるのがわかる。


「ありがとう。やっと……やっとすっきりしたよ」

「ってことは、何度も見てたんですか?」

「いや、この夢は初めて見た。でも、それを絶対忘れちゃいけない気がしたんだ」


 ゆっくり立ち上がった先輩は、重そうにギターケースを持ち上げながらお辞儀をした。


「遅くまでごめんね」

「いいえー。お役に立ててよかったですー。あ、キーボードは?」

「君にあげる。ボランティアって言っても、僕のわがままに付き合わせちゃったから。ごめんね」

「もらっちゃっていいんですか?」

「うん。君が弾かないなら、弟さんにでもあげて」

「うわ、すぐにがっちゃがちゃにしそう」

「あはははっ!」


 吹っ切れたようにからっと笑った先輩は、手にしていたギターケースを顔の前までぐんと持ち上げた。


「こいつとも、さよならになるかもしれない」

「え?」


 なんか……気になることを。でも、わたしはそれ以上深入りしないことにした。これからも夢視をしていくなら。わたし自身が決めた原則は守らないと、わたしが保たなくなるもの。


「じゃあ。これで」

「はあい。お疲れ様でしたー」


 先輩は、街灯だけが頼りなげに照らし出す夜道を全力で駆け抜けていった。見るからに嬉しさ爆裂だった。わたしは、すごくほっとする。


「うん。きっと、よかったんだよね」


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