海の匂いの人々 8/10

「木鳩さん? 木鳩さん!」


 矢淵が叫ぶが、返事はない。とっさに木鳩の手を撫でてみると、糸を引いた。溶けかけ、腐った肉のようにぼろぼろと崩れる。その感触しか矢淵にはわからなかったが、それで充分だった。


 なんとか、なにかしなくちゃ。


 矢淵は木鳩が残した拳銃を粘液の中からすくう。ずっしりと重く、冷たい。木鳩が軽々と振り回していたのが信じられない。


 矢淵の耳に、コンコン、とノック音が響いた。なりふり構わず、矢淵は溶けた肉に耳を当てる。だが何も聞こえない。不審に思った矢淵の顔に、突如として突風が吹きつける。彼には見えないが、太い鉄の杭が打ちこまれたのだ。


 空いた穴から漂ってきたのは、あの潮溜まりの匂いだ。

 ぱしゃりぱしゃりと水面を踏みしめて、流依が歩いてくる。その奥からは、海のような音が聞こえる。


「おこんばんは」

 穴の向こうから聞こえてきた声に振り向くと、奇っ怪に灯った瞳がこちらを覗いていた。動物でも人間でもない、一分たりとも理解できない化け物の目だ。

 矢淵は震える手で銃を構える。


「人を撃てるのかあ?」確信に満ちたせせら笑いを流依が浮かべる。

「違う! あんたは……」


 流依の顔は穴のすぐ向こう側にある。そして残酷な歯並びを見せつけたまま、溶けかけた肉の穴に首を突っ込んだ。時折首を捻りながら、徐々に矢淵へ迫ってくる。


「バケモンさあ! あーしもこいつもなあ!」


 流依の口が開いた。いや、裂けたのだ。耳まで開いたそこには、人間のものではない三角形の歯が幾重にも並んでいる。


 牙の奥には信じられないことに――大きな単眼があった。橙色の虹彩はまだら模様を描き、真ん中には赤い線の瞳孔が垂直に走っている。ぼんやりと発光するそれはさながら夕日のようだ。それは彼に死を連想させる。


 強烈な死の予感に肺がひくつき、銃を持っているだけで精一杯だった。

 胸の中の全てがひきつけを起こしていた。痛みと苦しみ、そして恐怖。目をつぶりたくとも、瞼すら動かせない。

 ああ! 今すぐに目をくりぬかせてくれ! 左手で目をえぐろうとするも上手く動かない。

 なぜ、どうしてだ! と力の限り引っ張るが、そこで彼は思いだした。


 木鳩が手を握ってくれているからだ。こんな状態でも、木鳩は手を握り続けてくれている。

 どうしようもないほど微かな温もりが、彼に狂気の山脈を越えさせなかった。


「化け物だって……?」

 違う。彼女は今も支えてくれている。どうしようもなく弱い僕を。

「あなたと木鳩さんが同じだって?」


 奥歯をがちがちと鳴らしながらも引き金に指をかける。自分を殺そうとしていることよりも、木鳩を『同属』だと言いのけたのが、何よりも癪に障った。恐怖の震えが怒りに変わった。こんな優しい人が、眼前の化け物と同じわけがない。


「化け物なのはあんただけだ! あんたなんかに、木鳩さんのなにが! なにがわかるか!」

 激情のまま彼は人差し指に力を込める。撃鉄が爆音を奏でたその瞬間、木鳩の手がぴくりと震えた。


「なんだあ!?」


 流依らしくないギョッとした叫びが木霊する。木鳩の肉塊が風船のように膨らみ、はじけ、溢れ始めたからだ。津波のような濁流は流依も本棚も呑みこみ、タールの海さえも覆っていく。


 押し流れそうになる矢淵の手を誰かが引っ張る。


 いつしか窓を覆っていたタールの海までも押し流し、青白い月光が差しこみはじめた。生々しい波は返り、一つへ収束していく。


 矢淵の前に現れたのは、人の姿をした木鳩だった。桃色の髪が月光を反射し、紫色のヴェールを纏っているかのように輝く。窓から吹く風で揺れるそれを、彼女のしなやかな指がかきあげた。


 無邪気な明るさを宿した、赤みがかったピンク色の瞳が矢淵を見つめていた。

 彼は一言も発しない。だが、溢れでる涙が如実に感情を表していた。


「あはは、泣いてる」


 からかうように彼女が笑う。そこには以前のようなわだかまりはない。

 木鳩と矢淵は、目と目を合わせられた。

 彼女がなにであろうと、どうであろうと、以前のように怯えることはないだろう。彼女の中身はもうわかったからだ。

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