海の匂いの人々 7/10

「お前はもういらねえ」

 混乱している矢淵をよそに、流依は拳銃のハンマーを起こし、引き金に指をかける。それが何を意味するのかは、矢淵にもわかった。死の宣告だ。ますます彼女の笑みが増す。


「あばよ」


 その宣言とともに床に倒れたのは、彼にも理解しがたいことに流依の方だった。窓の外からガラスを割って何かが飛び込んできたのだ。

 それは流依の顔面を横から襲い、幾度も彼女の頭を殴打し、貫通する。砕けた頭蓋骨と彼女の歯が黒い液体を軌跡のように撒き散らして弾け飛んだ。


 それが外からの銃撃だと矢淵がわかったのは、木鳩が銃を手に飛び込んできたからだ。窓の梁を片手で掴み、振り子のように慣性をつけて流依へ膝蹴りを叩き込む。鼻から上がなくなった流依の身体は、痙攣しながら転がった。


「逃げるよ!」


 脳の処理が追いつかない矢淵の手を引いて、木鳩は走る。並んだ本棚の間をなんとかついていきながら、矢淵は後ろを振り返った。


 流依の身体は床に転がっていた。走りながら呆然とそれを見つめていた彼は、死体の手を見て血の気が引いた。ファックサインを作っている。そして、彼女の周囲がタールをぶちまけたようにくろぐろと染まりつつあった。

 おまけに魚が腐った潮溜まりのような臭気が漂い始めた。


「木鳩さん!」


 矢淵は天井を、壁を、窓すらも覆う闇に目を見開く。


「なに!?」

「まだ……」終わってない、と言おうとする。

「わかってるよ! だから逃げてるんだってば!」


 ふらふらしていた矢淵の首根っこを掴んだ木鳩は、彼の重みをものともせずに走る。普段なら数秒で走り抜けられる距離が、今はやけに遠く感じる。後ろから凄まじい速度でタールの波が追いすがってきている。


 あと一歩、というところでタールが出口を塞いだ。木鳩が拳を振りかぶって殴ろうとすると、それがサメの形に膨らんだかと思うと、彼女の腕を食いちぎらんと顎を開いて噛みついてきた!


「っ!」木鳩はとっさに後ろに跳ねてかわす。


 空間ごと食らいそうな巨大な顎は、彼女まであと数センチのところをかすめると、タールの海へ沈んでいった。無駄だと知りつつ銃を撃つが、穴が空いた瞬間にふさがってしまう。逃げ道を探そうと周囲を見渡した木鳩は、はあ、とため息をつく。窓はとっくに塞がれている。


 それから矢淵の襟を手放す。矢淵に構う余裕もなくなっているのだ。めずらしいことに、彼女の額に汗が浮かんだ。そして流依の遺体を確認する。


 だが、遺体はなかった。流依はポケットに手を入れたいつものポーズで、本棚に背を預けて立っていた。

 撃たれたことが嘘のようなキレイな顔で、フードの中に不気味で不敵な笑みを湛え、警戒色の瞳を細めて木鳩を見ている。


「久々に同属に会ったんだ、ちょっとくらいお喋りしてくれてもいいんじゃねえかあ」

 いっそう低い声で流依が言った。下水の底から聞こえてきそう、と木鳩は胸中で毒づいた。


「人間同士でも、不審者にはついていかないじゃん?」

「お前も不審者側じゃねーか」

 流依は牙を剥き出しにして下卑た笑いを響かせる。


「ど、どうなってるんですか?」

 矢淵が声を漏らす。彼の目には何も見えないのだ。

 それにくらべて、木鳩と流依の二人には周囲の状況が全てわかっていた。もともと彼女らは光に依って生きていない。色のない世界で空間を把握する方法こそ本分なのだ。それは部屋中を覆っている流依にはなおさら容易なことだ。この部屋こそが彼女の体内であり、木鳩も矢淵も流依の肌に立っているようなものだ。


「心配しないでって。私がついてるじゃん?」

 そう言って彼女は矢淵の手をとり、指を絡める。

 矢淵は彼女の手を握り返して押し黙った。あたたかく、やわらかい。矢淵の恐怖もわずかに安らぐ。


「木鳩よお、人間臭えなあお前。そんなくだらねえもんになりきってどうすんだ?」

「くだらねえもんにも化けきれないあなたに言われたくないなぁ」

「くははは。そんなに人間のマネが得意なら、これ開けろや」

 流依は背後のドアを小突く。緑色の閃光とともに、彼女の手はなくなるが、すぐに再生する。


「嫌だし無理って言ったら見逃してくれる?」

「そーだな。お前らのこと全部べしゃるんならいいぞー」見下すように顎を引いた流依がせせら笑う。

「うーん、それも無理かな」


 タールがざわつき始めたのを察知した木鳩は、銃を強く握る。壁や天井が水面のようにゆらめき、波打っている。


「矢渕くん、加賀崎っちに連絡して。なんでもいいから」

「それならさっき送っておきましたけど、でも……」


 矢淵の答えに木鳩はほっとする。これで方針は決まった。一人で勝てなくとも、加賀崎やベルタがいれば勝機はある。問題は、対峙しただけで格上だとわかる敵を相手にどこまで時間稼ぎができるかだ。

 やるしかない。木鳩は大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。そして祈るようにこう言った。


「ねえ、矢渕くん。手を離さないで。それから……。ここから先は見ないでほしいな」

「……わかりました。約束します」


 木鳩がぎゅっと手を握る。矢淵が握り返してくれたのを感じた木鳩はどこかさみしげに微笑むと、日の姿を崩した。沸騰する肉塊となった彼女は、矢淵を優しく包む。 矢淵は何かとんでもないことが起こっているとわかりながらも、彼女の手にすがることしかできない。信じることしかできない。


 脈打つ巨大な腫瘍と化した彼女は、彼を守るように表面を硬化させ、頭蓋のような骨を覆う。それをさらに肉が覆っていく。彼女はすぐに図書室の本棚を押し倒すほどに巨大化した。


 筋繊維と内臓を曝けだした表面に、雑多な目玉が浮かぶ。それらはぎょろぎょろと痙攣しながら、流依を睥睨する。


「それで勝つつもりかあ?」

 流依はおもむろに右腕を引きちぎって投げ捨てた。それは床を覆うタールに触れる直前、跳ねたサメに食われた。代わりに彼女の腕から生えたのは、腕より長い機関銃だった。黒光りするそれを見た木鳩は、訝しむ。


「お前とは起源がちげーんだよ。あーしはなりたいものになれる。お前みたいに生き物の真似事しかできねえハンパモンと! 一緒にすんなよなあ!」


 機関銃の蓋をあけ、ボルトを引く。それから左手の甲から数珠つなぎの弾薬を形成すると、溝にセットし、蓋を閉じる。その動作は素早く、熟練の兵士を彷彿とさせる。扱い慣れていることは一目瞭然であった。


 木鳩も黙って見ているわけではない。吸盤のついた触腕をずるりと生やし、ぬめったそれを振るう。丸太ほどもありそうなそれは、立ち並ぶ本棚を打つ。本棚は弾丸のように流依へ弾き飛ばされる。


 流依が口笛を鳴らすと、床や天井から現れた黒いサメが本棚を食らって引きずり込む。黒い飛沫をあげて沈んだ本棚を確認するまでもなく、流依は触腕を狙って機関銃を撃つ。

 ぎざついた歯を噛み締めて発砲した。極めて侵略的な銃声がけたたましく吠えさかる。銃口から発せられた衝撃でタールの海がさざなむ。

 弾丸は触腕の動きを鈍らせたものの、切断はできない。もちろん、彼女にもそんなことはわかっている。彼女の狙いは鈍らせることだけだ。動きの鈍った触腕を、サメの顎が捉えた。だが数匹では止められない。

 天井に跳ねて触腕をよけた流依は、天地を逆転させて立つと、暴れる触腕の一点を狙って銃弾を浴びせる。すると、触腕に裂け目ができる。


 すかさずサメが食らいつき、黒い海へ引っ張り込もうとする。サメはみるみるうちに数を増やし、触腕でさえ身動きできない数になっていた。


 木鳩は逃げようと腕を引くが、手遅れだった。筋繊維がぶちぶちと切れる音が響き、ねじ切られる。どしゃりと転がる触腕に捕食者がはしたなく群がり、歯を立てて食いちぎる。

「へえ、お前の一生はこんなもんか。この程度しか食ってこなかったのかあ! もっと呑食じゃねえと、あーしらにゃあ足らねえだろーがあ!」


 木鳩は絶叫していた。その絶叫は人間に聞こえる性質ではなかったが、彼女の体内にいる矢淵ですら感じられた。彼の周囲の肉壁が震えていたのだ。怯えるように。

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