海の匂いの人々 5/10

 こっちを見て、とでも言いたげに矢淵の手がまた引っ張られる。彼が少女へ視線を戻すと、俯いた顔から、わずかに口元が伺える。少女の唇は、歪んだ笑みを浮かべていた。

 その笑みの意味もわからぬまま、突如として少女が落下した。

 危ない、と言いかけた矢淵の顔面は窓枠に叩きつけられた。そんなことより、まだ手に重みを感じることに矢淵は息をつく。


 まだ助けられる。

 そう安堵した矢先、今までくっついていたのが嘘のように手がぬめった。

 血だ、と気づいた時には遅く、白い手は次第に指の間をすり抜けていく。

 矢淵が持ち直してもう片方の手を伸ばそうとした途端、少女はあっけなく落下した

 コーヒーにビー玉を落としたように、少女は階下の闇に吸い込まれた。


 生々しい音が響く。それは階段で耳にしたのと同じ音だ。だが今の矢淵には、途方もない絶望感を与えた。矢淵は手を引っ込めることもできず、感触を確かめるように手を開いたり閉じたりしている。


「……うへえ」

 矢淵に追いついた流依がつぶやく。ただ、残念というより呆れたと言った風で、深刻さはかけらもない。


 矢淵はといえば、人が死んだかもしれない、という事実に打ちひしがれていた。夏だというのに顔面を青白くさせて、流依を見ようともしない。


「なにボーッとしてんのかね。死んじゃったもんはしょうがないじゃん」

 それだというのに、流依の一言はまるでゲームの残機を指して言っているかのようだった。


「人が! 落ちたんですよ!」

「そうだなあ。あーしも見たよ。人がこの高さから落ちたら間違いなく死んでるなあ。それにあの傷。よくここまで歩いてこれたなあ」

 流依は飄々とした態度を崩さない。それどころか、口を歪めた。


「よく笑えますね……!」

「お前さあ、アホだろ。人間じゃないもんに会いに来るのが今日のテーマじゃねえの?」

 そう言われて矢淵ははっと頭をあげる。


「ユーレイだったんじゃね。元から死んでるだろあれは」

「でも、でもですよ。あんなはっきりと感触のある幽霊はいませんよ!」


 血のぬめりを思いだした矢淵は自分の手を見やる。だが驚いたことに、そこに血はついていなかった。その代わり、かすかに光る粉がついているだけだ。それはやがて空気に溶けるように消えていった。


「どうだかなあ。人の感覚なんてあてになんねーっしょ」と言って、流依が彼の首根っこを掴んで立たせた。それからバシンと矢淵の背中を叩く。


「まあとにかく。拝みてえもんも拝めたしさっさと帰ろうぜ」


 流依はかったるそうに腕を伸ばし、首を回す。ぱきぱきと鳴る首が、彼女の不健康さを物語る。

 だが矢淵はそんな楽観的にはなれなかった。

 本当に終わったのか?

「っ! 流依さん、後ろ!」彼女の背後を指差して叫ぶ。


 そこにはさっきの少女がいた。だが今度は、様子が違う。遠回しな手段を使う気はないらしい。振りかぶった少女の手には、銀色の包丁が握られていたのだ。その切っ先は、今度は矢淵ではなく流依の首を狙っていた。


「おっとっとお!」


 身を捩ってあっさりと躱した流依は、同時にパーカーのカンガルーポケットから何かを抜き取った。

 破裂音が響きわたる。耳をふさぐ暇もなかった矢淵は耳鳴りがした。

 流依とすれ違うように倒れた少女は、ぱらぱらと崩れ、溶けるように光の粉に朽ち果てていく。それを観察する流依の手には、銃が握られていた。ほんの数瞬の間に撃ち返していたらしい。

 彼女の言う通り、色々と人並みではないらしい。


「っは! 幽霊なんてざっとこんなもんだ」


 えへんと笑った流依は、すぐに閉口した。本校舎側の渡り廊下の向こうに、また人影が見えたからだ。血化粧をまとったあの少女だ。だが一人ではなく、何十人もの徒党を組んでいる。

 恐怖の種類が様変わりした。


「矢淵。お前は部室の中であーしが来るのを待ってろ!」


 幽霊たちは包丁を携え、ゆらゆらと力なくこちらに歩んできている。渡り廊下の片側は完全に塞がれてしまった。その数はとどまるところをしらず、校舎の窓にはこちらへ歩いてくる少女の幽霊がぽつぽつと増えている。


「え? なんですって?」


 至近距離の発砲による耳鳴りでよく聞こえないのか、彼は聞き返す。


「お前がいたら面倒だって言ってんだろーがあ」


 そう言いながらパーカー前面のポケットから、もう一丁の銃を抜く。最初に発砲したものと同じで、コンパクトで丸っこい拳銃だ。それを両手に持つ彼女は、どこか楽しげだ。


「僕一人で逃げろっていうんですかあ!?」

「あそこにゃ結界があんだよ! バケモンは通れねえ!」

 流依は幽霊たちに右の銃口を向けて牽制し、左手の銃のスライドを噛んで引く。


「立てよ! いつまでビビり散らかしてんだ! それともあーしの心配でもしてくれてんのかあ?」

「そりゃしますよ!」


 それを聞いた流依は、けらけらと笑った。それから鈍った矢淵の耳にも聞こえるように、大声で叫ぶ。


「いいから行きなって! あーしは死なねえからなあ!」


 生唾を飲んだ矢淵は流依に背を向け、タモクの方へと渡り廊下を走った。背後からは、彼女の雄叫びと銃声が追うように響いてきていた。

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